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 綺堂ディジタル・コレクション

つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。

 まだ新聞記者だった明治33・34年頃の話で、団十郎、菊五郎などが老齢ながら活躍しており、団十郎に脚本を提供してきた福地桜痴も晩年ながらまだ健在だった頃です。桜痴居士には、綺堂は師事したこともあった先生です。団十郎と桜痴居士の連携も、この頃になるとうまくいかなくなって冷え込んでいたようで、春雨傘で最後です。




◆ 櫻癡居士の諸作

                   岡本綺堂
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 少しく調べたい事があって、福地櫻癡居士の『侠客春雨傘』を読む。それに就て思ひ出したのは、『春雨傘』初演当時(明治三十年四月)のことである。私が歌舞伎座の楽屋で団十郎に逢つた。
「今度の芝居は大へんに評判が好うこざんすね。」
 私が云ふと、團十郎は苦笑した。さうしていかにも詰まらないと云ふやうな口吻で答へた。
「なに、団十郎が世話物をするのが珍しいと云ふだけのことですよ。」
 その時私は作者の櫻癡居士にも逢つたので無遠慮にかう云った。
「今度の暁雨は、團十郎もあまり気乗りがしないやうですね。」
「嫌ふのが本当だよ。一体、暁雨などといふのは馬鹿な奴なんだからね。あれでも僕がよっぽど悧口に書いて遣つたのだ。」と、櫻擬居士も笑つてゐた。
 俳優も気乗りがせず、作者もその主人公を馬鹿な奴だといふ。それでも此の狂言は大當りで、暁雨が仲の町で渋蛇の目の傘をさした為に、東京市中では渋蛇の目の流行を見たくらゐであった。成程、芝居は水物であると云ふことを、私は其時につく/″\感じた。それでも私はまだ若かつたので、今に世の中も変るだらうぐらゐに考へてゐたが、爾来三十余年、「芝居は水物」は千古不易の金言であることを覚つた。
 ついでに云ふ。明治三十三年十一月、歌舞伎座で『忠臣蔵』を出したときに、櫻癡居士が大高源吾の笹売を一幕を[「を」はママ]かき加へた。源吾は八百蔵(今の中車)寶井其角は松助であつたが、そのときに作者は云つた。
「其角は松助の役ではない、どうしても團十郎だ。僕は團十郎で其角を書いてみたいと思つてゐる。」
 どんな其角をかく積りであったか知らないが、それは實現されずに終つた。
 居士は更に菊五郎にあてゝ、お俊傳兵衛を書くと云つてゐたが、傳兵衛を醜男にするといふので菊五郎が納まらず、遂にお流れになつて仕舞つた。なんでも與次郎が色男で悧口で傳兵衛が醜男で馬鹿だといふ筋であつたさうである。これでは傳兵衛役者が納まらなかつたであらう。

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出典:芸術殿1935(昭和10)年10月1日号41―42頁
※固有名詞を除き、旧漢字は新漢字に改めました。
入力:和井府 清十郎




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