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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、岡本綺堂と盟友であった、岡鬼太郎氏(1972.8.1-1943.10.19)のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 岡鬼太郎は、その辛辣な劇評で有名であったし、綺堂ものの演出にも深く関わっていた。また、若い頃には、『東もやう』の同人誌を作成する劇仲間であり、若い新聞記者仲間であった。「綺堂の友人」の項も参照。
 永井荷風によってジャンルとしての「花柳小説」を完成したとして、同氏の小説はこの範疇の真髄として激賞されるも、昭和10年には復刊のための出版用の紙すら当局から供給されなかったという。また、小泉信三も愛読したという。竹下英一「あとがき」岡鬼太郎・柳巷綺談(東京美術、1971)。花柳小説とはいうものの、ここに掲げたものは、かえってそのジャンル名が影響して、正しく評価されなかった嫌いがあるものと思われる。ごくふつうの小説として読んでも差し支えない。
 それはともかく、岡本綺堂の親友ともいうべき、岡鬼太郎氏がどのような作品を書いたかに興味があった。ほとんど会話が地の文ともなっている、筋の運びや展開もはやい。また、人間とくに男女の機微の描きはなかなかのものであろう。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ め ぐ り あ ひ

岡 鬼太郎


 わたしは毎月一回日本橋の橋頭倶楽部で開かれる清元の精励会へ行く、清元がわかるのでもなく、又すきなのでもなく、わたしの友人が此の会のしりおしをしてゐる関係で、会場の世話焼に出掛けるのである。
 休憩が済んで、今又一番始まツた途端、階段《はしごだん》の上の板の間に立膝《たてひざ》で聴いてゐたわたしに、「旦那、ちよいとお顔を。」と楽屋掛の男がそつといふ、うなづいて下りて行くと、下の廊下の壁ぎはに寄つて、「あのご婦人が。」といつて男は受附の方へいつて了ふ。  油気なしの銀杏返《いてうがへ》し、地味なこしらへの女は誰《た》が目にも藝妓《げいしや》とは知れ切つた細面《ほそおもて》の中年増《ちうどしま》、つヽましやかに寄つて来て、「あなた村山さんでゐらツしやいましたね。」といふ、「エヽ。」と返事はしたものゝ、さてわたしには覚えがない。
 それと直ぐ知つた相手は、かしこげな眼に愛嬌を見せながら、「わたくし暫らくお目に掛かりませんでしたから、お忘れでせう、お分かりになりませんか。」
 とまじめなうちにもにつこりする、これほど先方《せんぽう》でいふものを、それでもまだ思出せぬとは、不実者との引続いてのひやかしが辛いと、わたしは相手をじつと見たが、久しく遊びをやめてゐる身には、俄にたぐり出すべきよすがとてもない。
 「わたくし新橋にをりましたお菊ですの、お思出しになツて。」と懐かしさうな目を輝かす、わたしはハツと思つたが、それでもまだなるほどとは合点のゆかぬまでに、女のやうすは変つてゐる、「さうでしたか」とわたしは溜息のやうな返事をした。
 「随分変りましたでせう、あれからもう十三年になりますもの、それでもあなたはいつもお変りがなくツて。」と改めて小腰をかゞめる、わたしも誘はれて一寸頭を下げたが、さてしみ/"\と見る落着《おちつき》もなく、うろたへたやうに、「すつかり見違ひて了つて、さうして今は。」「柳橋にをりますの、高砂屋《たかさごや》の菊次つて。」「さうですか。」とわたしは初めて一息した。
 あわただしさの気が静まツて、ふと入口の方を向くと、受附の係の人や、そこに立話しをしてゐる二三の藝人等は、大抵こつちを見てゐるらしい、長い廊下は一直線に見通しである。
 菊次は白い素顔をホンノリと紅くして、「あなたはお若いのね、わたくしアすつかりお婆アさんになツて了ひましたわ。」とじつと見上げる、わたしはわたしの口のあたりに、其のひたひぎはの寄れる菊次を、又更に見ると共に、心は何となく騒ぐやうに覚えた、お互がまだ初心《うぶ》な頃、ふたりは初心《うぶ》な恋をした、そして其の恋ははかなかツた。
 「あなた毎月《まいつき》来てゐらツしやいますのね。」「エヽ、よく知つてますね。」「わたくし此の春から会員に入れられたんで、時々参りますの、それで初めでの時、どうもあなたに違ひないと思つたんですけど、うつかりした事をいつて、もし違つてゞもゐるとゝ思つて、ホヽ、楽屋の人に聞いて見やうと思つても、何とかいはれさうで。」と年には似ぬ若い笑顔《ゑがほ》にも、やつぱり昔の悌は無い、人の顔立もやうすも、かうまでに変れば変るものか、それにしても、江戸向きな立派な藝妓になツたものと、初めてしみ/"\と顔を見たわたしは、「幾歳《いくつ》になツたい。」と思はず昔の気でいつた、「ちやうどになりますの、あなたは五ですね。」「アヽ、モウ十幾年なんてなるんだね、あれからどうしたの。」「お目に掛かれなくなツてから、暫らくまだあすこにゐて、それから直ぐ今の土地へ来てちやうど十年になりますの。」「あんまり浮気《うはき》をするからだらう。」とこごゑながらもからかふと、なぜか少し染めながら、「それにはいろんなことがありましてね、それでも、今ぢやア両親も薬研掘《やげんぼり》で、もとの三味線屋《しやみせんや》をしてをりますから。」「そりやア何よりだ、近所でもあるし。」「わたくしのうちは、深川亭《ふかがはてい》の前を少しいつた左《ひだり》つ側《かは》で、塀のなかに太い梧桐《あをぎり》の樹が一本ありますから、直ぐ知れますわ。」「いづれ気楽なんだらう。」「半玉がひとり置いてあるツきり、だれもをりませんから、是非一遍いらしツて下さいましな、それこそいろ/\お話がございますわ。」「いづれ其のうち。」「あなた、今夜ズツとお宅へお帰りになるの。」「エヽ、しまひ少し前に逃出すつもりなんです。」「お宅はやつぱり木挽町。」と問はれてわたしはうなづくぼかり、新橋に居た時のお菊は、用もないにわたしの店の前を、月に幾度となく通つたのであツた。
 チーン/\といふ音は、そばなる藝人控所と札を懸けたる楽屋の時計、モウ十時らしい、と思つて受附の方を見ると、いつか人影もなくなツて、電燈のもとにともした蟻燭の火先《ほさき》が、テーブルの上にチラ/\と揺らいで、初夏の夜の風は玄関から、拭込《ふきこ》んだ板の間をスル/\とわたつて来る。
 「夜の会だから、義理で来るにしても困るでせう。」と何のれうけんもなく、わたしは詰まらぬ事をきいた、いつまで立話しもみえでなし、といつて、本意《ほい》なく別れたくもなし、わたしは実の処色気離れて、菊次のもつと打解けたやうすを見たく息つたのである。  「いつも来る時には、しまひまでチャンとをりますの、どうせ年中ひまなんですもの。」「あすんでゐられりやア結構ぢやありませんか。」「あなた。」「エ。」「わたくしあなたにお目に掛かりたくツて、それできっと此の会へ来ますのよ。」とボーッとしたと思ふと又、意味もなげにほゝゑんだ。
 「こんだ一度ゆつくりどこかでお目に掛かりませう。」といつかこつちは改まり切つて了つた、菊次は若々しく首をかしげて、「二三日うちにお寄んなすツて下さいな、本当にだれもゐないんですから。」
 「有難う。」とかういつて了つては、話はひとまず終らねばならぬ、「いづれのちほど」とわたしは別れやうとしたが、どこへといふあてもない、菊次が当然行くべき二階の演藝場へさきに立つて行くも異なものと、用もないにわたしは楽屋へはひつてしまつた。  はひるといろ/\藝人に話し掛けられる、かの肝煎の友人も居て何のかのと用談が出て来る、そのうち急用があるとてうちからの電話、菊次の姿は頭の中にのみ繰返し見て別れて了つた。
 そののち十日ほどたつて、同じ倶楽部の長唄会へ一寸行くと、玄関口で、今帰つて行く菊次に出違つた、丸者の四十がらみのふとつた女とふたりづれであツたが、会釈して出て行きながら、「是非今月うちに一度ね。」とこごゑでいつた、わたしは受附の前に立つて、入場券を出しつゝ表を見ると、むかふでも振返つたが、ゑがほはなかツた、門の電燈に照らされた白い顔は、何といふ事もなく淋しかツた。  十三年の昔、菊次はお菊といつて新橋の粂川《くめかは》のうちに、丸抱《まるがゝ》へで出て居た、其頃わたしの友人のうちが中通《なかどほり》にあツて、いちにちおきのやうにそこへ運びに行くうち、わたしとお菊とはいくたびとなく顔を見合はせた、友人のうちと粂川のうちとは、二階の裏窓が鼻の先に向ひ合つてゐた。
 粂川の内箱《うちばこ》が、友人のうちの婆アやに、冗談半分いつた事が直ぐ友人の耳に入つて、わたしは散々からかはれた、二十二歳のお坊さん、茶屋酒のあぢもまだろくろく知らぬわたしは、真赤になツたが、半月程ののち、友人の酔興から、わたしはお菊と遂に馴染のなかとなツた。  「随分思つてゐましたわ。」とたゞ此の一句が、其夜のお菊のすべてゞあツた。
 素人から直ぐ一本で出た十七の初心《しよしん》、わたしも堅気な商人《あきんど》の忰《せがれ》、学校生括こそしたれ、遊興《あそび》にも女にも馴れぬ身は、たゞ固くなツて、差向になツたふたりは、今から恩ふと、全く智慧のない逢瀬をわづかに遂げたのであツた。
 こは/"\逢つた数は十一度《たび》、女は内箱《うちばこ》に用心され、主人に睨まれ、わたしの座敷へ来られなくなツた、わたしもわが家の奉公人同様の境遇、費用《しろ》も時間も思ふやうにはならなかツた。
 友人はわたしのうつ/\するのを笑つた、そしてそんな古風な事は今時流行《はや》らないとあざけつた、一方うちの方の警戒も始まツた、わたしもお菊も、ソワ/\として、ひとに直ぐ覚られるやうな、まことに幼い恋をしたのだ。
 かくしてふたりの逢瀬はいつとしもなく絶えて了つた、お菊はどうか知らず、わたしは此の物足りなさを紛らすべく、到頭ダラくに遊興《あそび》を覚える人となツた。
 本意《ほい》なく別れて十三年、わたしは人目の前に、藝妓とまじ/\話の出来る年頃ともなり男ともなツた、お菊は娘らしかツた顔も様子も変り切つて、うでのありさうな、立派な姐《あねえ》株になツたのである。
 是非来てくれといふにさへ、菊次は藝妓の色気を見せず、詞《ことば》を綺麗に、物腰やさしく、なつかしげにのみ話した怜悧《りこう》、心の奥には何と思つてゐるか、まさ心におめ/\尋ねはされず、座敷へ呼んでさてうぬぼれらしい昔話も気恥かしく、よし又思切つて逢つて見た処で、過ぎし夜の夢をふたゝびして、今更かの幼なかりし恋を汚すも惜《を》しと、さすがに気には掛かりながら、わたしは強ひて逢ひたさを堪《こら》へた、わたしは恋をもてあそぶ事を知つたのでもあらうか。
 此のまゝ過ぎて明くる月、それにしてもとわたしは精励会の会員に注意した、けれども菊次は見えなかツた、次の月も又次の月も。
 忘れてもまた思出す、未練ではなく忘れ切れぬ、わたしは秋の大会の時、それとなく楽屋の人に聞くと、菊次はとうに廃業して、高砂家《たかさごや》の看板もそれぎりになツたとて、行方をかうと知る人もない。
 さうあらう、自前《じまへ》にして置いた旦那が素人《しろうと》にしたのであらう、うちへ来いとは甘く見た世辞であツたと、わたしははらで冷笑する気にもなツたが、イヤ世辞といふでもあるまい、友達づくぐらゐの普通の挨拶、感ぐるはいやしいと、息ひ返して廊下へ出ると、「村山さんでゐらツしやいましたね。」といふ年増、「いつぞやは失礼を致しました、これは菊次姐さんからとうにことづかツてをりましたのを、つひ。」と差出すは一封の手紙、此の女は、長唄会の時玄関で菊次と一緒に逢つた人、針妙《おはり》でゝもあるのだらう。
 手紙をうけとつて裏書を見てゐると、「姐さんもお可哀想に、ご実家でおなくなりなさいまして、昨日が初七日《しよなのか》に。」といつて眼をしばたゝき、「死んだらこれをきつとあなたにツて、おなくなりになる朝ご自分で。」とばかり、「三十やそこらで」とわたしは何ともいへぬこゝろもちのうちからたゞひとこと。
 「わたくし肺病で死にます、一度お目に掛かりたうございました、村山様、しめ。」と本名を書いて、巻紙に乱筆の三行《みくだり》、封を切つたわたしは涙ぐまずには居られなかツた。
 それから半歳《はんとし》、さぐり得た菊次の墓を深川に尋ねた、ことしの夏の初め、それは菊次と十三年振に、倶楽部で逢つた日の五月の十日。
                  (大正七年四月 南人社発行『あつま唄』より)

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底本:岡鬼太郎 柳巷綺談 (東京美術)
   1971年11月25日 発行
入力:和井府 清十郎
公開:2005年1月11日




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