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綺堂と女性



岡本経一氏が書いているように、綺堂には、ほとんど特筆すべきエピソードなどはないらしい。私たちは書かれたものから想像を交えて辿るしかない。作品の中には、たいてい女性が登場するが、実際の場合はどうだったのだろうか。つぎの随想や記録は現実に女性と出会った場合の、綺堂の表現である。

若い頃、作家志望で福地桜痴の自宅へ出入りしていた頃の話である。珍しく若い女が登場している。


出入りをする先が桜痴居士の家であるだけに、自然かれらの注意をひくらしく、ある時わたしが其処を通ると、一人の娘が小さい声で、「あの人、役者かしら。」と言うと、もう一人の娘がわたしの方をじろじろ見かえりながら、「でも、あんな役者、知らないわ。きっとペエペエよ。」と囁《ささや》いていた。役者は好《い》いが、ペエペエはひどい。わたしはすこしく憤慨して、それを榎本君に訴えると、「いや、ペエペエならまだ好い。この間、僕が通ったら、ありやあ出方《でかた》かしらと言っていた。あいつらはどうも口が悪くていけないよ。」と、榎本君は笑っていた。
                (『ランプの下にて』岩波文庫172頁より)




つぎは、京都(もしくは、福島あたり)でのエピソードらしい。「小粋な女」というのが綺堂の評価である。茶店の男と綺堂の視点がずれているのが面白い。


       ひるがほ

午後三時頃、白河停車場前の茶店に休む。となりの床几《しやうぎ》には二十五六の小粋な女が腰を掛けてゐた。女は茶店の男にむかつて、近在《きんざい》へゆく近道を訊いている。あるいて行く積りらしい。
まあ、兎もかくも行つてみようかと獨り言を云ひながら、女は十銭の茶代を置いて出た。茶屋女らしいなと私が云へば、どうせ喰ひつめ者でせうよと、店の男は笑ひながら云つた。
夏の日は暑い。垣の昼顔の花は凋《しを》れてゐた。
                   (『旅のすゞり』より)



つぎの句は、1919(大正8)年、帝国劇場の依頼で、第一次大戦後の、アメリカ、イギリス・ヨーロッパを視察したときの印象を詠んだものである。巴里での句のようである。場所はムーランルージュあたりか?(これは私の想像)

       短夜《みじかよ》といふは巴里《パリー》の夜《よ》なるべし

       踊り子よ我に扇《あふぎ》を投げたまへ

                  (『風露集』より)


これもどのような情景か分からないが、随分若い頃の経験か歌のような気もするが。

          雪と氷を題にして恋をよめる

       君が名を雪に書きけり消えにけり

                  (『風露集』より)


堅物のように思われるが、綺堂自身の発言によると、
    「僕だって親父が心配するような遊びをしたさ。それだから「鳥辺山心中」や「箕輪の心中」が書けるんだ。」
なかなか含蓄が深い。遊びも芸を肥やすということだろうか。若い新聞記者時代で、下宿や家を借りていた銀座時代の頃だったと思われる。『近代異妖編』の「月の夜がたり」(この「綺堂コレクション―ディジタル・テクスト」のところにある)の第3話に出てくる梶井君というのは医者志望の学生の身だが、吉原で心中する。存外、若き綺堂の自身に、それらしき話などがあったのかも知れない。

当時としては、背も高い方のようだったし、収入もあり、細身ではあるが、まあまあの顔立ちとしては、慕う女(ひと)もあったに違いない。

本郷座で表に勤めていた「お信さん」という女性は、綺堂びいきだったらしい。本郷座の劇場側から、綺堂宅への連絡は、たいていはこのお信さんを通じてだったようだ。電話がなかったからである。「雨の中をお信さんが使いに来た」とか、「舞台稽古をお信さんが知らせに来た」ということがあったようだ。

そのお信さんが、本郷座を止めて、銀座へ「信華」という中華料理の店を開店すると、

「君、一緒に食いに行ってやろう」

といって、弟子の岸井さんを誘って出かけた。お信さんの方は、勘定を受け取らないであろうということで、綺堂は御祝儀袋を用意して行ったという。(岸井良衛・ひとつの劇界放浪記81頁)




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