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綺堂ディジタル・アーカイヴ




つぎは綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです.
 今回は贅沢に、娘義太夫と明治期の寄席に関する、岡本綺堂「明治時代の寄席」と山本笑月「娘義太夫」『明治世相百話』(1983年、中公文庫)の2本立てです。「娘義太夫」についてはこちらもご覧ください(作成中)。
 これで明治の娘義太夫ブームと寄席事情についてはマスターですね。山本笑月は、浅草花やしき創設者の山本金蔵の長男で、東京朝日ややまと新聞などの記者・部長を務めたジャーナリストで、長谷川如是閑、画家の大野静方の実兄。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください.




明治時代の寄席
           岡本綺堂
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 私は先頃、ある雑誌に円朝や燕枝のむかし話を書いた。それは特にめずらしい材料でもなかったが、それでも今の若い人たちには珍しかったとみえて、私を相当の寄席通と心得たらしく、明治時代の寄席についてしばしば問合わせを受けることがある。そこで老人、いい気になって、もう少し寄席のおしゃべりをする。今度は円朝や燕枝の個人に就いて語るのでなく、明治時代の寄席はどんな物であったか、ということを一般的に説明するのである。
 明治といっても初期と末期との間には、著しい世態人情の相違がある。それを一と口にいい尽すことは出来ないので、まずは日清戦争から日露戦争に至る十年間を中心として、その前後を語ることにしたい。
 今日と違って、娯楽機関の少ない江戸以来の東京人は芝居と寄席を普通の保養場所と心得ていた。殊に交通機関は発達せず、電車もバスも円タクもなく、わずかに下町の大通りに鉄道馬車が開通しているにすぎない時代にあっては、日が暮れてから滅多に銀座や浅草まで出かけるわけにはいかない。まずは近所の夜見世か縁日ぐらいを散歩するに留まっていた。その人々にとっては、寄席が唯一の保養場所であった。
 自宅にいても退屈、さりとて近所の家々を毎晩訪問するのも気の毒、ことに雨でも降る晩には夜見世のそぞろ歩きも出来ない。こんな晩には寄席へでも行くのほかはない。寄席は劇場と違って市内各区に幾軒も散在していて、めいめいの自宅から余り遠くないから、往復も便利である。木戸銭もやすい。それで一夜を楽しんで来られるのであるから、みんな寄席へ出かけて行く。今日の寄席がとかく不振の状態にあるのは、その内容いかんよりも、映画その他の娯楽機関が増加したのと、交通機関が発達したためであると思う。実際、明治時代の一夜を楽しむには、近所の寄席へでも行くのほかはなかったのである。
 それであるから、近所の寄席へ行くと、かならず近所の知人に出逢うのであった。私は麹町区元園町〔この頃は麹町二丁目に編入されてしまった〕に成長したが、近所の寄席は元園町の青柳亭(いまの同区麹町一丁目四番西端あたり)、麹町一丁目の万よし(いまの同区麹町一丁目四番、東条会館東端あたり)、山元町の万長亭(いまの千代田区麹町一丁目七番東端)で、これらの寄席へ行った時に、顔を見知っている人に逢わなかった例は一度もなかった。かならず二、三人の知人に出逢う。殊に正月などは、十人ないし二十人の知人に逢うことは珍しくなかった。私が子供の時には、その大勢の人達から菓子や煎餅や蜜柑などを貰うので、両方の袂が重くなって困ったことがあった。
 そんなわけで、その頃の寄席は繁昌したのである。時に多少の盛衰はあったが、私の聞いているところでは、明治時代の寄席は各区内に四、五軒ないし六、七軒、大小あわせて百軒を越えていたという。その中でも本郷の若竹亭(いまの文京区本郷二丁目十二番あたり)、日本橋の宮松亭(いまの中央区日本橋茅場町一丁目七番あたり)を第一と称し、他にも大きい寄席が五、六十軒あった。江戸以来、最も旧い歴史を有しているのは、私の近所の万長亭であると伝えられていた。私は子供の時からしばしばこの万長亭へ聴きに行ったので、江戸時代の寄席はこんなものであったかという昔のおもかげを想像することが出来たのである。
 寄席の種類は色物席と講談席の二種に分かれていた。色物とは落語・人情話・手品・仮声・物真似・写し絵・音曲のたぐいをあわせたもので、それを普通に「寄席」というのである。一方の講談席は文字通りの講談専門で、江戸時代から明治の初期までは講釈場と呼ばれていたのである。
 寄席は原則として夜席、即ち午後六時頃から開演するのを例としていたが、下町には正午から開演するものもあった。これを昼席と称して、昼夜二回興行である。但し、昼夜の出演者は同一でないのが普通であった。講談席はたいてい二回興行と決まっていた。
 寄席の木戸銭は普通三銭五厘、やすいのは三銭ないし二銭五厘、円朝の出演する席だけが、四銭の木戸銭を取るといわれていたが、日清戦争頃から次第に騰貴して、一般に四銭となり、五銭となり、以後十年間に八銭、または十銭までに上がった。ほかに座蒲団の代が五厘、煙草盆が五厘。これもだんだんに騰貴して一銭となり、二銭となったので、日露戦争頃における一夕の寄席の入費は、木戸銭と蒲団と煙草盆をあわせて、一人十四、五銭となった。中入には番茶と菓子と鮨を売りに来る。茶は土瓶一個が一銭、菓子は駄菓子や塩煎餅のたぐいで一個五厘、鮨は細長い箱に入れて六個三銭であったが、鮨を売ることは早く廃れた。
 東京電燈会社の創立は明治二十年であるが、その電燈が一般に普及されるようになったのは十数年の後であって、たいていの寄席は客席に大ランプを吊り、高座には一個の燭台を置いていた。したがって、高座に出ている芸人は途中で蝋燭の芯を切らなければならない。落語家などが自分の話をつづけながら蝋燭の芯を切るのはすこぶるむずかしく、それが満足に出来るようになれば一人前の芸人であるといわれていた。
 今から思えば、場内は薄暗かったに相違ないが、その時代の夜は世間一般が暗いので、別に暗いとも感じなかったのである一しかも円朝が得意の「牡丹燈籠」にも、「真景累ヶ淵」にも、この薄暗いということがよほどの便利をあたえていたらしい。円朝の話術がいかに巧妙でも、今日のように電燈煙々の場内では、あれだけに幽霊の気分を漂わすことが出来なかったかもしれないと察せられる。
 暗い話のついでにいうが、その頃の夜は甚だ暗いので、寄席へゆくには提灯を持参する人が多かった。女はみな提灯を持って行った。往く時はともかくも、帰り途が暗いからである。寄席の下足場には、めいめいの下駄の上に提灯が懸けてあった。そこで、閉場になると、場内の客が一度にどやどやと出て来る。それに対して、提灯の火を一々に点けて渡すのであるから、下足番は非常に忙しい。雨天の節には傘もある。傘と提灯と下駄と、この三つを一度に渡すのであるから、寄席の下足番はよほど馴れていなければ勤められない事になっていた。その混雑を恐れて、自宅から提灯を持って迎いに来るのもあった。
 それも明治二十二、三年頃からだんだんに廃れて、日清戦争以後には提灯をさげて寄席へゆく人の姿を見ないようになった。それでも明治四十一年の秋、私が新宿の停車場付近を通ると、これから寄席へゆくと話しながら通る二人連れの女、その一人は普通の提灯を持ち、ひとりは大きい河豚提灯を持っているのを見た。その頃の新宿の夜はまだ暗かったのである。今日の新宿に比べると、実に今昔の感に堪えない。
 今日の若い人達も薄々その噂を聞いているであろうが、その当時における女義太夫の人気はあたかも今日の映画女優やレビュー・ガールに比すべきものであった。
 江戸時代の女義太夫はすこぶる卑しめられたものであったが、東京の寄席でおいおい売出すようになったのは明治十八、九年頃からのことで、竹本京枝などがその先駆であつたと思われる。やがて竹本綾之助があらわれ、住之助が出で、高座の上は紅紫爛漫、大阪上りとか阿波上りとかいろいろの名をつけて、四方からおびただしい女義太夫が東京に集まって来たのである。その全盛時代は明治二十二、三年頃から四十年前後に至る約二十年間で、東京の寄席の三分の一以上は、女義太夫一座によって占領さるる有様であった。
 彼らのうちには勿論老巧の上手もあったが、その大部分は若い女で、高島田に紅い花かんざしを売物にしていたのであるから、一般に女義太夫といわずして娘義太夫と称していた。芸の巧拙は二の次として、しょせんは「娘」であるから大人気を博したのである。
 今日の映画女優やレビュー・ガールの支持者に対しては、ファンという外来語をあたえられているが、その当時の娘義太夫支持者に対しては、ドウスル連という名称があたえられていた。字を当てれば、堂摺連と書くのである。その名の由来は、義太夫のサワリの糸につれて、「ドウスルドウス」と奇声を発して拍手喝采するからである。まじめな聴衆の妨害になること勿論であるが、何分にも多数が騒ぎ立てるのであるから、彼らの跋扈に任せるのほかはなかった。堂摺連には学生が多かったから、今日は社会的に相当の地位を占めている実業家や政治家や学者のうちにも、かつてドウスルに憂き身をやつした経歴の所有者を少なからず見出すであろう。
 娘義太夫全盛の証拠には、その当時の諸新聞は、二、三の大新聞を除いてたいていは「今晩の語り物」という一欄を設けて、各席亭毎晩の浄瑠璃外題と太夫の名を掲載していたのであった。日露戦争前後から堂摺連も次第におとろえ、娘義太夫もまた衰えた。
 日清戦争以後からは浪花節が流行して来た。その以前の浪花節は専ら場末の寄席に逼塞して、聴衆も下層の人々が多かったのであるが、次第に勢力を増して来て、市内で相当の地位を占めている席亭も「御座敷浄瑠璃、浪花節」のビラを懸けるようになった。聴衆もまた高まって、相当の商人も行き、髭の生えた旦那も行き、黒縮緬の羽織を着た奥さんも行くようになった。
 そのほかに、明治三十年以後には源氏節、大阪仁和賀、改良剣舞のたぐいまでが東京の寄席にあらわれて、在来の色物はだんだんに圧迫されて来た。今日落語界の不振を説く人があるが、右の事情で東京の落語界はその当時から已に凋落をたどりつつあったのである。
 以上、極めて大づかみの説明にすぎないが、何分にも歳末来多忙、まずはこれに筆をとどめて置く。

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底本:岡本綺堂「明治時代の寄席」『風俗 明治東京物語』(今井金吾校注、昭和62年・河出文庫)
原本:「日本及日本人」昭和11年11月号
入力:和井府 清十郎
公開:2002年7月29日
※底本の形式を改めた箇所があります。




「娘義太夫」  『明治世相百話』より
           山本 笑月


      初期の女義太夫

 タレ義太とか娘義太夫とかいえば安く聞えるが、正式にいえば女義太夫、これがまた明治の中頃には今から想像も及ばぬ全盛。若手の仇っぽいのが花簪に肩衣姿、客席を横目でにっこり、これを当て込みに義太夫そっちのけで押し掛ける連中が毎夜の大入り。しかしこれにも女役者同様、男まさりの上手も現われて、真の聴客を喜ばはせたことは申すまでもない。元来、女義太夫は文化文政頃にも相当人気のあったものだが、一時衰えて明治の初年、本場仕込みの竹本東玉や、名古屋の竹本京枝が上京して復興した、即ち女義界の二元老である。その後いまも壮健である竹本綾之助が肩揚げの天才少女、かわいらしい男髭で打って出たのがそもそも人気の起った始め。その功績は女義中でまず第一といってもよいくらい。年こそ違うが、前の二元老と共に初期の三福対となっている。
 ところで、明治十五、六年から二十三、四年頃の女義界は、東玉、京枝を大将として、(後の素行)、清花、小政、小住、小伝、花友などに綾之助、これが第一期。つづいて、小土佐、ポ胤、錦、趨ヂ、住之助、鶴蝶、熊梅などに三福、綾之助を持ち越して、これが第二期の花形。その後は大小の真打ぞろぞろ輩出。誰がなに中ら、ただもう賑やかに人気の渦を巻いていた。

      肩衣が後日の問題

その初期時代、東玉、京枝はすでに若手に語らせて、自分たちはイト専門、東玉は小作りのお婆さん、京枝は少々むずかしい顔つき。この人たちが語っていた時代までは肩衣というものを着けなかったが、どうも見た目が淋しいというので、男太夫のように肩衣を用い出したのは、そもそもこの京枝が始まり、ともいうし、三福、清花の両人が皮切りともいう、ともかくそれは明治十三年頃で、爾来、黒嬬子や紫の華美な肩衣を着けて、一段と風情を添えることになった。
 ところが、このことは義太夫界の問題となって男の方から槍が出た。それは二十二、三年頃のことで、当時の古老竹本政太夫は東都総取締の資格で「諭告」というものを発表し、一般の義太夫が古格を失い大阪の人気者流の風を学び、見台に向って伸び上ったり踊ったり、声を弄び節を崩してまで人気に投ずるは以ての外ときめつけた上、ちかごろ女義太夫のくせに肩衣を着して高座に上るは女にあるまじき醜態と、手厳しく戒めたが一方も商売、はい左様ですかとは決していわず、せっかくの「諭告」も水の泡で、そのまま着通し今もって脱がない。

      花形連の評判

 そこで当時の花形の評判だが、もちろん贔屓(ひいき)贔屓で寸法が違うから、うっかりした口は利けないが、二元老は別としてざっといえば、小政は東玉の秘蔵弟子でしんみりとした語り口、「吉田屋」が最も聴き物で女義中の一等品、調子は低い方。三福は声よりも節で渋い芸風、「寺子屋」や「野崎」で鳴らした。綾之助丈はどなたも御承知、無類の美音で幅もあり、万人向きのお眺え、およそ女義の売物なら「御殿」「酒屋」「十種香」「太十」などことごとくこの人の薬籠中のもので、そのほか綾瀬仕込みの渋いところも相当に聴かせたのは、なんといっても人気の王座を占めただけの価値はあった。小住は声もあり、節も大阪の本場仕込みで確かなもの、なかなかの人気で後年牛込神楽坂の寄席笑楽亭を買い取り、わら店亭と改めて斯界に幅を利かせた。小土佐は名古屋出の美人で二十年上京、翌年神田の小川亭で初看板を上げ、たちまち人気の中心となった。住之助は小住の門下で住八といった若手の随一。越子は小肥りの丸顔で、一時は綾之助の向うを張ったが及ばなかった。錦はお相撲といわれたほど肥大の体格、確かに貫目はあったが、声も太いばかりで艶がない。熊梅もこれに似た肥っちょで愛婿のある女、当時人気力士の横綱小錦八十吉と浮名を立てて、岡焼連を騒がせたものだ。
 以上の面々は三絃の方も達者で、たいていは弾き語り。

      小住等の正義派

 綾之助についでの人気者であった竹本小土佐は、前にもいう如く名古屋の生れ、同市の女義杣吉、照吉などについて七、八歳の頃から義太夫の稽古、十一歳で照吉の一座に加わり、早くも高座に上って好評を博し、土佐太夫に知られてその門下となり、小土佐と名乗った。その後、大阪神戸等を回り、二十年二月土佐太夫と共に上京し、麹町の万長で初お目見得、師匠の前を語ってすこぶる好評、翌年たちまち真打となって小川亭の初看板、以来めきめき売り出したが、美人の上に愛婿があり、高座で簾が上るとまず客席を見渡してにっと笑顔、大抵それで悩殺される。
 当時小住はひと足先に大看板、門下の住八を住之助と改め、十三歳で真打に押し立て、師弟もろとも人気を呼んで一方のばりばり、そのころ女義太夫はすべて睦派と称する寄席の一派に属し、「五厘」という世話人があって、席の割振りをやっていた。随ってこの「五厘」はなかなか勢力があって、付け届けでも悪かったり機嫌を損じたりすると、人気があっても芸がよくても好い席へ回さない、というようなわけで出方は泣かされた。
 利かぬ気の小住はこの「五厘」の不公平を憤慨して、ついに二十五、六年頃、小土佐をはじめ、清玉、鹿の子、鶴蝶等と共に断然反旗を翻し、正義派というのを起して睦派に対抗した。女義始まって以来の問題で、かなり斯界を騒がせたが。なにしろ一流の寄席は睦派に占められていたので、正義派は二流三流の席へしか出られぬことになったが、もちろん覚悟の上と頑張って贔屓連の同情を力に、この対抗は相当長く続いた。

      小清と呂昇

 その後の大看板といえばまず竹本小清(こせい)、艶や愛嬌で人気を集める連中と違い、女義といっても男まさりの芸一方、鶴沢清六の娘で父の仕込みに十分鍛え上げた腕前は、当時デソ通を驚かした。容貌も男のよう、薄いモがあって色の浅黒いきりつとした顔立ち、平生の話し声までが蔭で聞いていると太い声で、まるで男。語り口には幅もあり貫目もあって、これまた女とは思われず、聴衆も真の義太夫好きの人たち。満場水を打ったように静粛に聞き入って、他の女義席とは全然異なった空気である。この人も弾き語り、得意は「陣屋」「岡崎」「寺子屋」など、ことに「鰻谷」はこの人の極め付で呼び物の一つ、前後を通じて女義界の名人であろう。
 降って三十五、六年以後の花形というと、組太夫の弟子の組春、朝太夫門下の朝重、そのほか愛之助、新吉、一二三、八重子、京子、京駒、昇之助、昇菊などの面、で、これが明治の末年まで続いたが、追い追い下火となり、往年の人気は今やこうした夢物語。その間には大阪の長広や東猿が来たり、近くはおなじみの呂昇一座が時々上京して有楽座へ掛る。呂昇は例の美音と、素直で判りのよい語り口が東京ッ子にも大受けでいつも満員の盛況。その呂昇もすでに過去の人となって、東西共に女義界は大切(おおぎり)の簾が下りた。

      定席と堂摺連

 最後に当時の女義太夫の定席を挙げると、第一が茅場町の宮松、ここで看板を上げれば一流の真打という相場がきまる。つづいて神田の小川亭、鍋町の鶴仙、花川戸の東橋亭、両国の新柳亭、芝の琴平亭など一流の席で賑わったものだ。瀬戸物町の伊勢本、本郷の若竹なども一流組だが、時々色物と交代する。下谷の吹ぬき、牛込のわら店、和泉橋の和泉亭、麻布の福槌などは黒っぽい客が多かった。そのほか場末まで加えると二十何軒は女義太夫で占めていた。これが大抵は毎夜の客止め、お気の毒さま明晩お早く、と木戸で断られて、遅出の客はすごすご、山の手は書生さんの縄張で例の堂摺連という名物の発生したのが二十三、四年頃のこと、これがまた大いに景気を煽った。
 いちはやく高座前へ陣取って目あての女嚢を待ち構え、急所急所でどうするの連発、そのうえ人間の手の掌とは思われぬカンカン響く手拍子でサワリも何もめちゃめちゃ、簾が下りるとドヤドヤ退席してその女義の腕車(くるま)の後押し、掛持の席へ付いて回って忠義を尽くすが一向有難がられぬ代物、なにしろ客席の賑いは大したもので、満員を通りり越し、歩板(あゆみ)の上から階子段の下まで押し合いへし合い、命からがら聴いて帰るような始末。ほかに娯楽趣味の乏しかった頃とはいえ、随分女義党は多かった。随ってその頃の新聞に出た「今晩の語物」は女義党の虎の巻、毎朝待ち兼ねて目を皿のようにしたものです。
                                   (昭和八年五月)




底本・初出誌:山本笑月「娘義太夫」『明治世相百話』(1983年、中公文庫)
入力:和井府 清十郎
公開:2002年7月29日
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