つぎは綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです. 今回は贅沢に、娘義太夫と明治期の寄席に関する、岡本綺堂「明治時代の寄席」と山本笑月「娘義太夫」『明治世相百話』(1983年、中公文庫)の2本立てです。「娘義太夫」についてはこちらもご覧ください(作成中)。 これで明治の娘義太夫ブームと寄席事情についてはマスターですね。山本笑月は、浅草花やしき創設者の山本金蔵の長男で、東京朝日ややまと新聞などの記者・部長を務めたジャーナリストで、長谷川如是閑、画家の大野静方の実兄。 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください. ◆明治時代の寄席
初期の女義太夫 タレ義太とか娘義太夫とかいえば安く聞えるが、正式にいえば女義太夫、これがまた明治の中頃には今から想像も及ばぬ全盛。若手の仇っぽいのが花簪に肩衣姿、客席を横目でにっこり、これを当て込みに義太夫そっちのけで押し掛ける連中が毎夜の大入り。しかしこれにも女役者同様、男まさりの上手も現われて、真の聴客を喜ばはせたことは申すまでもない。元来、女義太夫は文化文政頃にも相当人気のあったものだが、一時衰えて明治の初年、本場仕込みの竹本東玉や、名古屋の竹本京枝が上京して復興した、即ち女義界の二元老である。その後いまも壮健である竹本綾之助が肩揚げの天才少女、かわいらしい男髭で打って出たのがそもそも人気の起った始め。その功績は女義中でまず第一といってもよいくらい。年こそ違うが、前の二元老と共に初期の三福対となっている。 ところで、明治十五、六年から二十三、四年頃の女義界は、東玉、京枝を大将として、(後の素行)、清花、小政、小住、小伝、花友などに綾之助、これが第一期。つづいて、小土佐、ポ胤、錦、趨ヂ、住之助、鶴蝶、熊梅などに三福、綾之助を持ち越して、これが第二期の花形。その後は大小の真打ぞろぞろ輩出。誰がなに中ら、ただもう賑やかに人気の渦を巻いていた。 肩衣が後日の問題 その初期時代、東玉、京枝はすでに若手に語らせて、自分たちはイト専門、東玉は小作りのお婆さん、京枝は少々むずかしい顔つき。この人たちが語っていた時代までは肩衣というものを着けなかったが、どうも見た目が淋しいというので、男太夫のように肩衣を用い出したのは、そもそもこの京枝が始まり、ともいうし、三福、清花の両人が皮切りともいう、ともかくそれは明治十三年頃で、爾来、黒嬬子や紫の華美な肩衣を着けて、一段と風情を添えることになった。 ところが、このことは義太夫界の問題となって男の方から槍が出た。それは二十二、三年頃のことで、当時の古老竹本政太夫は東都総取締の資格で「諭告」というものを発表し、一般の義太夫が古格を失い大阪の人気者流の風を学び、見台に向って伸び上ったり踊ったり、声を弄び節を崩してまで人気に投ずるは以ての外ときめつけた上、ちかごろ女義太夫のくせに肩衣を着して高座に上るは女にあるまじき醜態と、手厳しく戒めたが一方も商売、はい左様ですかとは決していわず、せっかくの「諭告」も水の泡で、そのまま着通し今もって脱がない。 花形連の評判 そこで当時の花形の評判だが、もちろん贔屓(ひいき)贔屓で寸法が違うから、うっかりした口は利けないが、二元老は別としてざっといえば、小政は東玉の秘蔵弟子でしんみりとした語り口、「吉田屋」が最も聴き物で女義中の一等品、調子は低い方。三福は声よりも節で渋い芸風、「寺子屋」や「野崎」で鳴らした。綾之助丈はどなたも御承知、無類の美音で幅もあり、万人向きのお眺え、およそ女義の売物なら「御殿」「酒屋」「十種香」「太十」などことごとくこの人の薬籠中のもので、そのほか綾瀬仕込みの渋いところも相当に聴かせたのは、なんといっても人気の王座を占めただけの価値はあった。小住は声もあり、節も大阪の本場仕込みで確かなもの、なかなかの人気で後年牛込神楽坂の寄席笑楽亭を買い取り、わら店亭と改めて斯界に幅を利かせた。小土佐は名古屋出の美人で二十年上京、翌年神田の小川亭で初看板を上げ、たちまち人気の中心となった。住之助は小住の門下で住八といった若手の随一。越子は小肥りの丸顔で、一時は綾之助の向うを張ったが及ばなかった。錦はお相撲といわれたほど肥大の体格、確かに貫目はあったが、声も太いばかりで艶がない。熊梅もこれに似た肥っちょで愛婿のある女、当時人気力士の横綱小錦八十吉と浮名を立てて、岡焼連を騒がせたものだ。 以上の面々は三絃の方も達者で、たいていは弾き語り。 小住等の正義派 綾之助についでの人気者であった竹本小土佐は、前にもいう如く名古屋の生れ、同市の女義杣吉、照吉などについて七、八歳の頃から義太夫の稽古、十一歳で照吉の一座に加わり、早くも高座に上って好評を博し、土佐太夫に知られてその門下となり、小土佐と名乗った。その後、大阪神戸等を回り、二十年二月土佐太夫と共に上京し、麹町の万長で初お目見得、師匠の前を語ってすこぶる好評、翌年たちまち真打となって小川亭の初看板、以来めきめき売り出したが、美人の上に愛婿があり、高座で簾が上るとまず客席を見渡してにっと笑顔、大抵それで悩殺される。 当時小住はひと足先に大看板、門下の住八を住之助と改め、十三歳で真打に押し立て、師弟もろとも人気を呼んで一方のばりばり、そのころ女義太夫はすべて睦派と称する寄席の一派に属し、「五厘」という世話人があって、席の割振りをやっていた。随ってこの「五厘」はなかなか勢力があって、付け届けでも悪かったり機嫌を損じたりすると、人気があっても芸がよくても好い席へ回さない、というようなわけで出方は泣かされた。 利かぬ気の小住はこの「五厘」の不公平を憤慨して、ついに二十五、六年頃、小土佐をはじめ、清玉、鹿の子、鶴蝶等と共に断然反旗を翻し、正義派というのを起して睦派に対抗した。女義始まって以来の問題で、かなり斯界を騒がせたが。なにしろ一流の寄席は睦派に占められていたので、正義派は二流三流の席へしか出られぬことになったが、もちろん覚悟の上と頑張って贔屓連の同情を力に、この対抗は相当長く続いた。 小清と呂昇 その後の大看板といえばまず竹本小清(こせい)、艶や愛嬌で人気を集める連中と違い、女義といっても男まさりの芸一方、鶴沢清六の娘で父の仕込みに十分鍛え上げた腕前は、当時デソ通を驚かした。容貌も男のよう、薄いモがあって色の浅黒いきりつとした顔立ち、平生の話し声までが蔭で聞いていると太い声で、まるで男。語り口には幅もあり貫目もあって、これまた女とは思われず、聴衆も真の義太夫好きの人たち。満場水を打ったように静粛に聞き入って、他の女義席とは全然異なった空気である。この人も弾き語り、得意は「陣屋」「岡崎」「寺子屋」など、ことに「鰻谷」はこの人の極め付で呼び物の一つ、前後を通じて女義界の名人であろう。 降って三十五、六年以後の花形というと、組太夫の弟子の組春、朝太夫門下の朝重、そのほか愛之助、新吉、一二三、八重子、京子、京駒、昇之助、昇菊などの面、で、これが明治の末年まで続いたが、追い追い下火となり、往年の人気は今やこうした夢物語。その間には大阪の長広や東猿が来たり、近くはおなじみの呂昇一座が時々上京して有楽座へ掛る。呂昇は例の美音と、素直で判りのよい語り口が東京ッ子にも大受けでいつも満員の盛況。その呂昇もすでに過去の人となって、東西共に女義界は大切(おおぎり)の簾が下りた。 定席と堂摺連 最後に当時の女義太夫の定席を挙げると、第一が茅場町の宮松、ここで看板を上げれば一流の真打という相場がきまる。つづいて神田の小川亭、鍋町の鶴仙、花川戸の東橋亭、両国の新柳亭、芝の琴平亭など一流の席で賑わったものだ。瀬戸物町の伊勢本、本郷の若竹なども一流組だが、時々色物と交代する。下谷の吹ぬき、牛込のわら店、和泉橋の和泉亭、麻布の福槌などは黒っぽい客が多かった。そのほか場末まで加えると二十何軒は女義太夫で占めていた。これが大抵は毎夜の客止め、お気の毒さま明晩お早く、と木戸で断られて、遅出の客はすごすご、山の手は書生さんの縄張で例の堂摺連という名物の発生したのが二十三、四年頃のこと、これがまた大いに景気を煽った。 いちはやく高座前へ陣取って目あての女嚢を待ち構え、急所急所でどうするの連発、そのうえ人間の手の掌とは思われぬカンカン響く手拍子でサワリも何もめちゃめちゃ、簾が下りるとドヤドヤ退席してその女義の腕車(くるま)の後押し、掛持の席へ付いて回って忠義を尽くすが一向有難がられぬ代物、なにしろ客席の賑いは大したもので、満員を通りり越し、歩板(あゆみ)の上から階子段の下まで押し合いへし合い、命からがら聴いて帰るような始末。ほかに娯楽趣味の乏しかった頃とはいえ、随分女義党は多かった。随ってその頃の新聞に出た「今晩の語物」は女義党の虎の巻、毎朝待ち兼ねて目を皿のようにしたものです。 (昭和八年五月) 底本・初出誌:山本笑月「娘義太夫」『明治世相百話』(1983年、中公文庫) 入力:和井府 清十郎 公開:2002年7月29日 なお、振りかな(ルビ)は( )で示す |