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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。「女義太夫」は『探偵夜話』シリーズの作品です。明治の女義太夫ばやりの頃、競っていた2人の女義太夫の心理とそれを背景にした探偵もの。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 女義太夫  ――『探偵夜話』より

             岡 本 綺 堂
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K君は語る。

「あなたがもし、この話を何かへ書くようなことがあったら、本名を出すのは堪忍してやってください、関係の人間がみんな生きているんですからね。よござんすか。」
 女義太夫の富寿(とみじゆ)がまずこう断わって置いて、わたしに話したのは次の出来事である。今から七、八年前の五月に、娘義太夫竹本富子の一座が埼玉県の或る町へ乗り込んだ。太夫や糸やその他をあわせて十二人が町の宿屋に着くと、その明くる朝、真打(しんうち)の富子をたずねて来た女があった。
「どうも御無沙汰をしています。いつも御繁昌で結構ですこと。」と、女はすこし嗄(しわが)れた声で懐かしそうに言った。
「どうもしばらく。なんでもこっちの方だということはかねがね伺っていましたけれど、何かと忙がしいもんですから、つい御無沙汰ばかりしておりました。」と、富子も美しい笑い顔をみせながら摺り寄って挨拶した。
 こう見たところは、お互いにいかにも打ち解けた昔馴染みであるらしくも思われるが、その事情をよく知っている富寿らの眼からみると、彼女と富子とのあいだには大きい溝(みぞ)がしきられている筈であった。彼女は富子を仇(かたき)と呪っている筈であった。
 彼女は富子と同い年の廿四で、眼の細いのと髪の毛のすこし縮れているのとを瑕(きず)にして、色白の品の好い立派な女振りであった。彼女も以前は竹本雛吉といって、やはり富子と同じ商売の人気者であった。富子も雛吉も十七八の頃からもう真打株になっていて、かれらが華やかな島田に結って、紅い総(ふさ)のひらめくかんざしをさして、高座にあらわれた肩衣姿(かたぎぬすがた)は、東京の若い男達の渇仰(かつこう)のまととなっていた。容貌(きりよう)は富子の方が少し優っていたが、雛吉は又それを補うだけの美しい声の持ち主であった。
 したがって、どっちにも思い思いの贔屓がついて、二人の出る席はどこも大入りであった。そのひいき争いがだんだん激しくなって来るに連れて、ふたりの若い芸人のあいだにも当然の結果として激しい競争が起こって来た。一方を揚げて一方を貶(けな)すようなひいき連の投書が、新聞や雑誌をしばしば賑わした。
 かれらがこうして鎬(しのぎ)をけずって闘っている最中である。富子と雛吉とが或る富豪の宴会の余興によばれて、代る代るに一段ずつ語った。その順序の前後についても余ほど面倒があったらしかったが、結局くじ引きときまって、富子が先きに、雛吉がその次に語ることになった。その晩、雛吉は得意の新口(にのくち)村を語ったが一途中から喉(のど)の工合いがおかしくって、持ち前の美音が不思議にかすれて来た。それでもその場はどうにかこうにか無事に語り通したが、あくる朝から彼女の声はまるでつぶれてしまった。勿論、すぐに専門の医師の治療をうけて或る程度までは恢復したが、その声はもう昔の美しさを失ってしまった。
 雛吉が人気盛りであるだけに、その不幸に同情する者も多かった。声の美しさが衰えたといっても商売が出来ないほどではなかった。初めから現在の雛吉よりも悪い声をもっている太夫も世間にはたくさんあったが、女の芸人として唯一(ゆいいつ)の誇りを失った彼女は、再び芸を売って世間に立つ心は失せてしまった。周囲の人達がしきりに止めるのも肯(き)かないで、雛吉は思い切って鑑札を返納して、素人の大八木お春になった。寄席の明き株を買ってやろうなどと言ってくれる人もあったが、彼女はそれをも断わって故郷の埼玉県へ帰ってしまった。声変わりのした鴬――ゆく春と共に衰えゆく身の行く末を、雛吉はおそらく想像するに堪えなかったのであろうと、日頃の気性を知っている人びとからいたまれた。
 こういう悲惨な運命をになって東京を立ち退くことになった竹本雛吉に対して、世間の同情はおのずと集まって来た。判官(ほうがん)びいきの人たちはその反動から競争者の富子を憎んだ。雛吉が俄かに天性の美音を失ったのは、富子が水銀剤を飲ませたのであると言い触らすものもあった。富子が自分の弟子に言い付けて、かの宴会の余興の楽屋で雛吉の湯呑茶碗に水銀剤をついだのであると、見てきたように講釈する者がだんだんに殖えて来た。勿論それには取り留めた証拠があるのではなかったが、その噂は雛吉がまだ東京にいる時から広まっていたので、その耳にもはいっていた。
「富子さんだって真逆(まさか)そんなことをしゃしないでしょう。万一そうであったとしても、証拠のないことですから仕方がありません。つまりはわたしの運がないのですから。」
 雛吉はこう言ったように世間では伝えていた。しかしそれも確かに本人の口から出たのかどうか判らなかった。彼女.が芸人をやめて故郷へ帰ったのは十九の秋で、その後に土地の料理屋の養女に貰われたとかいう噂が東京へもきこえたが、去るものは日々にうとしで、足かけ六年の時の流れは世間の人の記憶から竹本雛吉の名を洗い去って、今ではそんな不運な女芸人が曽て東京の人気を湧き立たせたことを思い出す人さえも少なくなった。それに引きかえて、一方の富子は世間の人気を独り占めにして、その評判は年ごとに高くなった。
 その富子が偶然に雛吉の故郷の町に乗り込んで、六年ぶりで互いに顔を見合わせたのであった。うわべはいかに懐かしそうに美しく付き合っていても、両方の胸の奥には一種の暗い影がつきまつわっているらしいことを、傍にいる者どもは大抵察していた。富子の方はともあれ、少なくも雛吉のお春の方には昔の仇にめぐり合ったような呪いの心持をもっているのであろうと思いやられたが、お春はそんな気振りをちっとも見せないで、一時間ばかりむつまじく話して帰った。お春が料理屋の養女に貰われたのは事実であった。それは彼女が遠縁にあたる家で、町でも第一流の堀江屋という大きい料理屋であるので、昔馴染みの富子のために町の芸妓たちをも駆りあつめて、初日の晩から花々しく押し掛けるとのことであった。
「何分よろしくお願い申します。」と、人気商売の富子はくれぐれもお春に頼んで、何十本かの配り手拭を渡した。
「せいぜい賑かにしたいと、思っています。」と、お春は言った。「もう少し早く判っていると、後幕(うしろまく)か幟(のぼり)でも何するんでしたけれど、今夜が初日じゃあもう間に合いません。せめてハイカラに花環のようなものでも贈ることにしましようよ。ここらは田舎ですから、どうで東京のような器用なものは出来ませんけれど、唯ほんの景気づけに……。いずれ後程おとどけ申します。これはほんの皆さんのお茶受けです。」
 彼女は手土産の菓子折を置いて機嫌よく帰ったので、そばにいる者共はほっとした。昔馴染みはやはり頼もしいと富子も喜んでいると、午後になって堀江屋から大きい見事な花環をとどけて来た。なるほど東京とは少し拓え方が違っているが、百合や菖蒲の季節物が大きい花を白に黄に紫に美しくいろどっていた。
「地方でなければこんな花環は見られませんね。」と、富寿らも感心して眺めていた。
「ほんとうに綺麗だわね。ここらじゃあそこらに咲いているのを直ぐに取って来るんだから。」と、富子も花の匂いをかいだりしていた。  その花環は芝居小屋の木戸前にかざられて、さらに一段の景気を添えた。五月の長い日も暮れかかって、一座の者も宿屋の風呂にはいって今夜のお化粧に取りかかっていると、富子は急に顔や手さきがむずがゆいと言い出した。それでもさのみ気にも留めないで、自体が美しい顔を更に美しくつくつて、いよいよその晩の初日をあけると、約束通りにお春は家の女中たちや出入りの者や土地の芸妓たちを誘って来て、座敷いっぱいに陣取っていた。その晩は木戸止めという大入りであった。
 初日が予想以上の大成功であったので、一座の者もみんな喜んで宿へ帰ると、その夜ながから真打の富子は俄かに熱が出て苦しんだ。みんなも心配してすぐに医師を呼んでもらったが、医師にもその病気が確かには判らなかった。夜があける頃には少し熱がさがったが、それと同時に富子の顔には一種の発疹が一面にあらわれた。それは赤と紫とをまぜたような気味の悪い色の腫物らしくも見えた。
 富子は鏡をみて泣き出した。一座の者もおどろいた。義太夫語りである以上、のどに別条さえなければ差し支えはないようなものであるが、容貌(きりよう)が一つの売物になっているだげに、これは富子に取って大いなる打撃であった。おいおいには癒るとしても、差しあたり今夜の興行に困った。気分が悪いばかりでなく、こんなお化けのようなみにくい顔を諸人の前にさらすのは死んでもいやだと、富子は泣いて狂った。その発疹はひどくかゆいので、みんなが止めるのも肯かないで、物狂わしいように自分の顔を掻きむしると、顔のところどころにはなまなましい血がにじみ出した。そばにいる者は唯はらはらして、そのむごたらしい怖ろしい顔を眺めているばかりであった。その場合、だれの胸にも泛かぶのは、彼女とお春との関係であった。お春がむかしの復讐のために、何かの手段をめぐらしたのではないかという疑惑が皆の胸を支配した。お春がきのう持って来た菓子のなかに、何かの毒がまぜてあったのではないかと疑われたが、その菓子は富子ばかりでなく、一座の者もみな食ったのであるから、原因がそこに忍んでいるらしくも思われなかった。その次の疑いはかの花環であった。その花に毒薬でも塗ってあって、それをかいだ富子に感染したのではあるまいかという、西洋の小説にでもありそうな想像説も起こった。そうしたささやきが宿の者の耳にも伝わって、いろいろの臆説が尾鰭を添えて忽ちに広がった。見舞いに来た興行師もおどろいて首をかしげていた。
「どうもこれは唯事でないらしい。医師にも容体が判らないというのはいよいよ不思議だ。」
 富子は半狂乱の姿で寝てしまったので、今夜の二日目はとうとう臨時休みの札をかけることになった。これが土地の警察の耳にもはいって、刑事巡査は富子の宿へも調べに来た。それに応対したのはかの富寿で、さすがにむかしの関係を詳しく説明するのを憚ったが、とにかく、堀江屋のお春が久し振りでたずねて来たことを話した。お春が手土産の菓子をくれたこと、見事な花環をくれたことも申し立てた。もちろん、露骨にはなんにも言わなかったのであるが、その子細ありげな口ぶりと、宿の女子(おなご)たちの噂などを総合して、巡査もまずお春に疑いの眼を向けたらしく見えた。だんだん調べてみると、ここにもう一つ怪しい事実を発見した。
 それはこの宿に奉公しているお留という今年十八の女が、きのうの朝お春が富子に別れて帰るのを店の外まで追って出て、往来でなにかひそひそと立ち話をしていたというのである。宿の二階には、富子一人が八畳の座敷を借りていて、その他の者は次の間の十畳と下座敷の八畳とに分かれてたむろしていたが、お留は富子の座敷の受持ちで、しばしばそこへ出入りしていた。それらの事情をかんがえると、お留はふだんから心安いお春に頼まれて、なにかの毒剤を富子の飲食物の中へ投げ込んで置いたかとも見られるので、彼女はすぐに下座敷で厳重な取り調べを受けた。
「おまえは堀江屋の娘と心安くしているのか。」
「はい、堀江屋の姐さんはふだんからわたくしを可愛がってくれます。」と、お留は正直そうに答えた。
「じゃあ、なぜ堀江屋へ行かないで、ここの家(うち)にいつまでも奉公しているのだ。」
「同じ町内でそんなことも出来ませんから。」
「お前はきのうの朝、堀江屋の娘と往来でなにを話していた。」
「別になんということも……。」と、お留は少し口ごもっていた。「唯いつもの話を……。」
「いつもの話とはなんだ。」
「なんでもありません。ただ、時候の挨拶をしていたんです。」
「往来のまん中まで追っかけて行って時候の挨拶をする……。」と、巡査はあざ笑った。「嘘をつかないで正直にいえ。堀江屋の娘に何か頼まれたろう。」
 お留は黙っていた。
「なにか頼まれたことがあるだろう。」
「いいえ。」と、彼女は低い声で言った。
「隠すな。きっとなんにも頼まれないか。」
 お留はまた黙ってしまった。からだこそ大きいが、近在から出て来た田舎者で、見るから正直そうな彼女がとかくに何か隠し立てをするのが、いよいよ相手の注意をひいた。巡査はおどすように言った。
「隠すとおまえのためにならないぞ。ここで嘘をいうと懲役にやられるぞ。お父(とつ)さんにもおっ母さんにも当分逢われないぞ。」  お留はしくしく泣き出した。それでも、なんにも頼まれた覚えはないと強情を張るので、巡査もすこし持て余して、いずれ叉あらためて警察の方へ呼び出すかも知れないからと言って、宿の主人に彼女をあずけて帰った。

 ここまで話して来て、富寿は更にわたしにこう言った。
「ねえ、あなた、いくら当人が知らないと強情を張ったって仕様がないじゃありませんか。堀江屋のお春さんに頼まれて、なにか悪いことをしたに相違ないと思われるでしょう。こうなると、わたくしも面(つら)が憎くなって、どうかして証拠を見つけ出してやろうと思って、そっとお留の様子を見ていますと、その日のもう夕方近い頃でした。洋服を着た一人の男が宿の裏口へ来て、それから横手の塀の外へ廻って、人待ち顔にうろうろしていると、いつの間にかお留がぬけ出して行ったんです。」
 それは廿八九の色白の男で、金ぶちの眼鏡をかけていた。お留は何かささやいていたかと思うと、そのまま大通りの方へ駈けて行った。男はいつまでも塀の外に立っていた。やがてお留が息を切って帰って来て、再びなにかささやいているうちに、堀江屋のお春が忍ぶようにあとから来た。お春は男の腕に手をかけて親しげに又ささやいていた。
 富寿は二階の肱掛け窓からじっとそれを見おろしていると、そこへさっきの巡査が再び来て、少し離れて立っているお留をなにか調べているらしかった。巡査はさらにお春にむかっても取り調べをはじめると、洋服の男もそばから口を出して今度は洋服の男と巡査との問答になった。
「往来じゃいけない。ともかくも内へはいりましょう。」と、洋服の男は激したように言った。
 その声だけは二階の富寿にもはっきりと聞こえた。そうして、かれと巡査とお春とお留とが一緒につながって宿へはいって来た。
 一種の好奇心も手伝って、富寿はそっと二階を降りて来ると、下座敷のひと間にかの四人が向かい合っていた。宿の主人や番頭も廊下に出て不安らしく立ち聞きをしていた。
「一体このお春という婦人がお留にたのんで、富子とかいう義太夫語りに毒を飲まぜたとかいうには確かな証拠でもありますか。」と、洋服の男はいよいよ激昂したように言った。「確かな証拠もないのに、往来でむやみに取り調べるなぞとは不都合じゃありませんか。」
「いや、お留を取り調べようとするところへ、丁度お春も来ていたのです。」と、巡査は言った。「それであるから一緒に取り調べたまでのことです。いずれにしても、あなたには無関係であるから、構わずお引き取りください。」
「いや、そうはいきまぜん。あなたがこの二人の女に対してどんな取り調べ方をするか、わたくしはここで聴いています。」
「それはいけません。あなたがお春という女にどういう関係があろうとも……。」と、巡査は意味ありげに言った。「こちらで無関係と認める人間を立ち会わせるわけにはいきません。早くお帰りなさい。」
「帰りません。」
「あなたの身分を考えて御覧なさい。」と、巡査はほほえみながら諭すように言った。
「身分なんか構いません。免職されても構いません。」と、男は真っ蒼になって唇をふるわせていた。
「あなた、あなた。」
 お春は小声で男をなだめるように言った。彼女の細い眼にも感激の涙が浮かんでいるらしかった。
「わたくしは全くなんにも覚えのないことですから、どんなに調べられても怖いことはありません。どうぞ心配しないで帰ってください。」
 お留もうつむいて眼を拭いていた。巡査は黙って三人の顔を見つめていた。そのうちに興奮した神経も少し鎮まったらしく、かれは努めて落ち着いたような調子で巡査に言った。
「では、どうでしょう。わたくしも少し思い付いたことがありますから、その富子という人に逢わせてくれませんか。」
 巡査は別に故障を唱えなかった。かれは宿の番頭を呼んで、誰かこの人を富子の座敷へ案内しろと言い付けたので、丁度そこに立っていた富寿がその男を二階へ連れて行った。あたまから衾(よぎ)を引っかぶっていて、誰にもみにくい顔をみせまいと泣き狂う富子をすかして、ようように袋を少しばかり引きめくると、男はその顔をじっと見つめてうなずいた。
「判りました。わかりました。」と、かれは俄かに喜びの声をあげた。「わたしはこれを研究しているんです。あなたはこっちへ来てから庭や畑へ出たことがありますか。」
「そんなことは一度もありません。」と、富寿は代って答えた。
「そうですが。」と、男はしばらく考えていた。「それじゃあその花環というのは何処にあります。」
「芝居の表にかざって置きましたが、今は休みですから下の座敷に持って来てあります。」
「そうですか、一緒に来てください。」
 かれは富寿を急がせて再び二階を降りた。花環を入れてある下座敷の前に来たときに、かれはまた立ち停まった。
「あなた一人じゃいけない。警官を呼んで来てください。ほかの人もなるたけ大勢呼んでください。」
 どやどや集まって来た人達と一緒に、かれはその座敷へ踏み込んで花環の前に立った。そうして、しおれかかった花を子細に検査していたが、やがて跳り立って声をあげた。
「これだ、これだ。御覧なさい。」
 彼は手をのばして、その花の一つをむしるようにゆすぶると、白い菖蒲の花のかげから二、三匹の紫色の小さい蝶がひらひらと舞い出した。かれは持っているハンカチーフで、すぐにその一匹を叩き落とした。

「それは台湾蝶というものなんだそうです。」と、富寿は説明した。「毒のある蝶々で、それに刺されるとひどく腫れ上がって熱が出ることがあるんだそうです。何処にでもいるという訳じゃないんですが、ここらでは時々に見掛けることがあるので、その人は頻りにそれを研究していたんだということです。」
「すると、お春という女からくれた花環のなかに、ちょうど台湾蝶が棲んでいたんですね。」と、わたしは訊いた。
「お春さんも無論知らない。富子さんも知らないで、うっかりとその花環をいじくっているうちに、いっかその毒虫に刺されたんです。こう判ってみれば何でもありませんけれど、前の事情があるからどうしてもお春さんを疑うようにもなりますわ。その男の人というのは、その町の中学の理科の教師だそうでした。」
「お春とは関係があったんですね。」
「そうでしよう。」と、富寿はうなずいた。「お春さんも自分の家へ引っ張り込むのは奉公人なんぞの手前もあるので、わたくし達の泊まっていた宿屋を出逢い場所にして、いつもお留という女中がその使いをしていたらしいんです。お留がお春さんのあとを追っかけて行って、なにか内証話をしていたのもその相談だったんでしょう。けれども、巡査にむかって正直にそれを言うわけにもいかないので、お留も困ったに相違ありません。それだけに又余計な疑いがかかったという訳で、かんがえて見ると可哀そうでしたが、まあ、まあ、無事に済んでようござんした。」
「しかしもう一つ疑えば、お春が男の知恵をかりて、台湾蝶を花環の中へわざと入れてよこしたんじゃないかしら。」
「あなたも疑いぶかい。そんなことをいえば際限がありませんわ。病気の原因が判ったので、富子さんはその手当てをして、その後間もなく癒りました。」


底本:岡本綺堂読物選集第6巻 探偵編
昭和44年10月10日発行 青蛙房
入力:和井府 清十郎
公開:2002年11月4日





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