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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆  10 尾 上 伊 太 八   『創作の思ひ出』より

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 震災で参考書類を一切焼いてしまつたので、鳥渡さがし出すことが出来ないが、尾上伊太八の心中はたしか延享三年十二月の出来事であつたやうに記憶してゐる。心中を相対死(あいたいじに)といふ名にあらためたのは八代将軍吉宗の時代で、その相対死を仕損じた男女を日本橋へ晒し物にすることに定められたのは、享保七年のことであるから、それから廿四年後に心中を企てた尾上と伊太八は無論――晒し物の懲罰をうけたのである。おなじやうなお仲間には彼の音羽丹七などもある。
 丹七は町人であるから別として、江戸時代忙も武士の心中はすくない。武士の心中で最も有名なのは、尾上と伊太八、藤枝外記と大麦屋綾衣、鈴木生水と橋本屋白糸などで、第一と第二は新内節で知られ、第三は節で知られてゐるが、主水と白糸のことは実録でないらしい。確かに実録と認められる伊太八と外紀も、その有名になつたのは彼等が武士であるといふ為ではない。まつたく新内節のおかげである。音羽と丹七も新内で有名になつた。
 勿論、新内の方では本名を唄つてゐない。綾衣と外記も柴野屋早衣、藤の屋喜之助といふことに作りかへられてゐる。有名なる「藤かづら」がそれで、岡鬼太郎君が「薩摩歌」のなかにこの新内を取入れてゐる。この新内は江戸時代に広く行はれたもので、かの「浮世床」のなかにも、「サア山城屋を語れの、藤かづらが聞きてえの」と書かれてある位であるが、どういふものか何時か廃れてしまつて、専門家以外はこの浄瑠璃も多く知られないやうになつた。それに連れて、早衣喜之助の名も忘れられてしまつた。
 それに引きかへて、江戸から東京へわたつて古今その流行の変わらないのは尾上伊太八の「帰咲名残の命毛」である。これも武士を町人にかき直して環屋伊太八といふことになつてゐるが、かの蘭蝶や明鳥と共に今もその流行をほしいまゝにして、殆ど新内節の代表作であるかのやうに見られてゐるのは、その文章が巧妙に出来てゐるせゐであらう。由来、清元や新内のたぐひは女のクドキが有名になつてゐるのであるが、尾上伊太八や花咲綱五郎などは男のクドキが有名になつてゐて、伊太八の「送つて出やる肌薄な――」網五郎の「勘当うけしは一昨年の――」それが一曲の生命になつてゐる。おなじく武士の心中を書きながら、早衣喜之助が早くおとろへ、尾上伊太八が依然として廃れないのは、自然の運不運とはいひながら、前に云つた通り、その文章の巧拙もよほど與つてカあるらしい。さかひ屋尾上、たまき屋伊太八の「帰咲名残の命毛」は新内節中の傑作で、「送つて出やる」の一節のごときは、まさに鎮魂蕩魄の趣がある。
 そこで、どういふ縁か、わたしは先に外記と綾衣の心中をかいた。「箕輪の心中」三幕がそれである。後にまた尾上と伊太八の心中を書くことになつた。今度の歌舞伎座に上演せれる「尾上伊太八」三幕がそれで、東京では大正七年九月の明治座が初演である。横濱や京阪の地方興行は別として、東京における再演はやほり明治座で、大正十年の五月興行と記憶してゐる。かう書いて来ると、私は兎かくに新内の上などりをしてゐるやうで、まことに智慧のないことにもなり、また一面には甚だ遊蕩気分に浸つてゐるやうにも見られるかも知れないが、私がさうした気分でこれらの芝居を書いてゐるので無いことだけは何分御賢察を願つて置く。
 新内の伊太八があまり有名になつてゐるので、わたしも伊太八の名を用ゐたが、その本名は原田伊太夫であるか.伊太夫は奥州津軽の藩士で、よし原堺屋の遊女尾上と心中を謀つたのは、男が廿八歳、女が廿二歳の冬である。刃物は小刀の一種さすが[※「さすが」に傍点]を用ゐたことは、その申渡書にも記されてゐる。遊女屋の二階には大小を佩びてゆくことが出来ないので、よんどころなく小刀を用ひたのであらう。ニ人ともに喉を突いても死に切れなかつたので、法のごとくに晒し物の生恥を見ることになつたのである。その以後のことはよく判つてゐないが、男も女もその後間もなく病死したらしい。外記と綾衣は廓をぬけ出して田圃の農家で死んだのであるから、武士の刀で見ごとに心中を遂げ得たのであるが、伊太夫と尾上は遊女屋の二階で小刀などを用ゐた為に、あたら仕損じて恥に恥をかさねることになつたのであらう。さういふわけであるから、心中以後のことは全くわたしの空想に出でたもので、なんらの拠り所があるのではない。
 初演のときは、伊太八が兇暴を逞しうして最後まで改悟しないと云ふので、検閲官から叱られたが、幸ひにその諒解を得て再演の際にもとゞこほりなく通過した。今度もおそらく無事であらうと思つてゐる。なにか書けといふ御証文をうけて、こゝまで書いて来たが、もう別に云ふこともない。その余のことは舞台の上を見て頂くのほかは無い。但し役々の台詞などは初演常時のものを多少訂正して、拙著「綺堂戯曲集」第八巻に改め、今度もそれに拠つて演ずるはずであるから、それと封照して舞台の上を観てくだされば更に幸ひである。
 序にいふが、この戯曲が初めて上演されたときに、尾上伊太八を一人の名と思つた人があるといふ笑ひ話が伝へられてゐる。なるほど新内を知らない人としては無理もない間違ひで、尾上は伊太八の姓かとも思はれる。由来、心中物に女の名を先にいふのは何時の頃から始まつたのか、私もたしかに知らない。近松時代の心中は大抵男の名を先にして、忠兵衛梅川、治兵衛小春といふことになつてゐる。それが後には梅川忠兵衛、小春治兵衛と、女を先にいふことになつたのは、おそらく語呂の都合からで、別に意味のあるわけでは無いらしい。したがつて、安珍清姫や権八小紫は、いつの代になつても男の名を先にしてゐる。尾上伊太八もやはりその一例で、伊太八尾上では語呂が悪いからであらう。後にはそれが自然の例となつてすべて女の名を先にいふことになつてしまつた。私もそれにしたがつた迄のことで、特別の意味があつて女の名を頭に置いたのではない。
                             (大正一四・一一)




底本:岡本綺堂 「甲字楼夜話」綺堂劇談
  青蛙房 昭和31年2月10日
入力:和井府 清十郎
公開日:2010年1月1日

おことわり: 一部旧漢字になっていない箇所があります





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