大久保のつつじと三浦老人 logoyomu.jpg

大久保の躑躅(つつじ)



三浦老人の住居
 『三浦老人昔話』では、江戸末期には大家(おおや)だった三浦老人が、明治半ば頃には、大久保(現新宿区)に住んでいる。この三浦老人は半七親分と一廻り年上で、隠居しているのである。ここを訪ねて、昔話を聞く、聞き手の記者も三浦老人が亡くなった後(関東大震災以後)にやはり大久保に居を構えることになる。

綺堂一家の大久保への引越
 綺堂一家も、大震災によって1923(大正12)年9月1日麹町の元園町の家を焼失し、紀尾井町の親戚の小林蹴月方に避難したが、翌2日、目白高田町大原の、弟子・額田六福方に引き移った。10月12日には、麻布宮村町10番地の借家へ引き移っている。この家へ、後の「三浦老人昔話」を執筆してもらうべく訪うたのが川口松太郎である。しかし、この古家も翌大正13年の1月15日の強震のために倒れかかって、ようやく探し当てたのが、大久保百人町の貸家である。9畳8畳4畳半2間、3畳2間の平屋で、庭が百坪ばかりあり、桜の古木があった。
 ここへは3月18日に引き移った。「市外大久保百人町」に移り、「初めての郊外生活となる」としている。この年に「三浦老人昔話」が「苦楽」誌上に連載はじまるから、書籍や資料を失い、また、仮住まいを余儀なくされながらも執筆に専念するには大きな努力を必要としたと思う。
 なお、1925年6月には、麹町一丁目一番地に移った(半蔵門外)から、大久保百人町には、約1年3ヶ月ばかり住んだことになる。随筆『郊外生活の一年』には、綺堂自身の大久保百人町での生活が描かれており、射撃場の音、列車の音、井戸や泥棒にあった話、玉蜀黍などを植えた話など、当時の生活ぶりが窺えて興味深い。
 なお、青空文庫の「綺堂が見た、東京の明治・大正・昭和」コーナーでダウンロード・入手できる。

綺堂と三浦老人の大久保百人町
 大久保に移った綺堂がここを舞台として「三浦老人昔話」を書いたことはわかったが、もう一つの疑問は、綺堂が住んだ大久保百人町と三浦老人が住んでいた大久保とは一致するかである。むろん、三浦老人の住居は小説上の架空の話しではあるが…。これは、すでに今井金吾「『半七捕物帳』江戸めぐり」193頁(1999・ちくま文庫)にその比定が試みられている。それによると、山手線新大久保駅を降りて、中央線大久保駅に向かう大通り(大久保通り)の二つ目の角を右折して、元の戸山が原に突き当たる、その境目の左側の家が綺堂が借家した住まいであると言う(岡本経一「解説」・「魚妖・置いてけ堀」(1976・旺文社文庫)でも同じ)。三浦老人宅は、それから一筋違いの小路で、旧日の出園と万花園の間の小路の中ほど、としている(今井・前掲書)。

『三浦老人昔話』の大久保百人町
 当時、大久保は、大久保の躑躅、亀戸天神の藤、堀切の菖蒲 と江戸の三大花の名所となっている。

大久保は、江戸時代、鉄砲隊百人同心が組屋敷を造っていた所である。三浦老人が隠居所としている家も、元百人組の組屋敷を修理したものである。杉の生垣があるとしている。

三浦老人昔話では、大久保は江戸の領域ではないと断わりがある。

「粟津の木曽殿で、大変でしたろう。なにしろここらは躑躅《つゝじ》の咲くまでは、江戸の人の足踏《ぶ》みするところじゃありませんよ。」
 まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。

      (「鎧櫃の血」『三浦老人昔話 第2篇』)


明治になって、16年に元躑躅園、数年後に、南躑躅園ができた。36年子の年には、7園に増え、花の種類7000、株数は一万を越えるといわれた。
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大久保の躑躅園三景

上の画は、「風俗画報」の「新撰東京名所図会」(1896・明治29―1911・明治44年)から山本松谷によるもので、躑躅園の3景をまとめたもの。なお、同誌の編集長は、山下重民という人で、彼も旧幕臣で、ほろびゆく江戸の面影を記録にとどめるために企画したものだと言う。

しかし、中央線の前身である甲武鉄道敷設のために閉園が決まり、躑躅は開園した日比谷公園に移されたという。このあたりの解説は、「権十郎の芝居」『三浦老人昔話 第3篇』にもある。


「三四郎」の大久保
 大久保を舞台にした文学作品は他にもあると思うが、漱石もここをちょっとした舞台にしている。甲武鉄道などが実際に出てくる。しかも、どうやら、綺堂が郊外生活をした大久保百人町とごく近いところだったように思う。『三四郎』である。帝大の理科大学で光の圧力を実験している野々宮を、本郷に下宿する三四郎が日曜日に訪問する場面である。野々宮は、寺田虎彦がモデルといわれている。
     野々宮の家《いへ》は頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。何でも停車場の近辺と聞いてゐるから、探《さが》すに不便はない。……
    甲武《かふぶ》線《せん》は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗つた。
     大久保の停車場《ステーション》を下りて、仲百人《なかひやくにん》の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れるとほとんど三尺許りの細い路になる。それを爪先上りにだら/\と上ると、疎《まばら》な孟宗《もうそう》藪《やぶ》がある。其藪《やぶ》の手前と先に一軒づつ人が住んでゐる。野々宮の家《いへ》は其手前の分であつた。小《ちい》さな門《もん》が路の向に丸で関係のない様な位置に筋違に立つてゐた。

     ―漱石全集「三四郎 (三)」
小泉八雲の西大久保
 大久保といえば、この人を忘れるわけにはいかない。ラフカディオ・ハーン、小泉八雲である。彼は、東京に住むのを元々嫌っていたが、昔の日本の面影の残るところとして、西大久保に居を構えた。明治35年3月19日である。通称「こぶ寺」という自証寺の裏手である。ここをよく散歩した。

また、八雲自身は人で混んでいるので歌舞伎を見には行かなかったらしいが、奥さんの節子夫人には団十郎の芝居が好いといって、出かけるように勧めている。

  西大久保の八雲邸(小泉八雲全集 別巻(1927)より)
 明治中期の西大久保の様子がわずかながら偲べるかもしれない。

怪談に興味のあった八雲が、大久保で岡本綺堂と出会うことはなかった(八雲は、西大久保の自宅で明治37年9月26日に死去)のだが、八雲の節子夫人は、神田の古書街にも怪談本を求めて捜し歩いたとある。綺堂は英語も読めるし、出会っていたならば、面白いことになっていただろうと思う。
 
江戸期の百人町(番衆町)
地図の上の緑部分が瘤寺


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