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綺堂という人物

岡本綺堂はどのような人だったか

◆綺堂は厳しい人でした

綺堂の養子である岡本経一氏はつぎのように語っている。
    「(綺堂は)若いときから癇癪持ちで議論好きで、喧嘩っ早かった。……折り目を正す、筋を通すという段になると、決して妥協しなかった。誰からも、いい人だと褒められるようではダメだ、敵もあれば味方もあるという張りがなければ。……一身のほかに味方なしという信条は、自分自身にも甘えないという剛毅ある姿勢を崩さなかった」
    「なればこそ孤独だった。むしろ孤独を楽しむ強さがあった。下戸だから酒の上の失敗がない。旅が嫌い、会合が嫌い、徒党が嫌い、スポーツもギャンブルも嫌い、映画が嫌い、書画骨董あつめや、稀書珍籍をあさるのも嫌い、イデオロギーとセンチメンタル大嫌い、嫌い嫌いで艶聞もなし」   ―岡本経一「解説」『半七捕物帳』旺文社版
    「『師匠の家へ、着流しで来るバカがあるか』そう言って弟子を追い返したりする。ケジメを付けることに厳しかった。」 ―岡本経一「遠い思い出」大衆文学大系(講談社、1971・10)第7巻月報1頁
ちなみに旅嫌いについて、半七捕物帳の『蝶合戦』には、つぎのようなくだりがある、
 「江戸っ子は他国の土を踏まないのを一種の誇りとしているので、大体に旅嫌いである……。」
 旅ということではないだろうが、綺堂は病弱であったため、近郊の温泉場には出かけて療養している。また、松島や水戸などにも旅したことがある。そして、イギリスやヨーロッパを視察して訪れている。

写真で見ると、痩せ型のようであるが、どのように外見は見えたのだろうか。               
    「劇評家狂綺堂主人の若き日の風貌を仲間は揃って”若旦那“と見たてている。見出しなみもきっちりと礼儀正しく、色白で痩せぎすの長身であった。この若旦那は潔癖で孤独癖で、そしてことによると議論好きだったらしい。」  ―岡本経一「解説」岡本綺堂『ランプの下にて 明治劇談』382頁(岩波文庫)

◆俳優とは私的な付き合いはしなかった

 綺堂は、川上音二郎や市川左団次、その他の歌舞伎役者のために作品を多く書いたが、個人的な付き合いはほとんどなかったようだ。
    「俳優とは私的な附き合いをせず、楽屋へ出入りもしなかった。劇作家綺堂になってからも、俳優と公的な附き合いだけだったのは、自らの信念だったのだろうか。新作上演のときでも、舞台稽古に立ち会って、初日を見るだけであった。最もコンビを謡われた二代目の左団次とさえ私の交流をしなかった。」         ―同上383頁

◆文字通り、書斎人

 綺堂「私の机」(という随想があるらしいのだが、未読のため、下記からの引用による)
    「わたしは自宅にいる場合、飯を食う時のほかは机の前を離れたことがありません。読書するとか原稿を書くとかいうのではなく、唯ぼんやりとしている時でも必ず机の前に座っています。鳥でいえば一種の止まり木とでもいうのでしょう、机の前を離れると、なんだかぐらついているようで、自分のからだをもてあましてしまうのです。」
    ―岡本経一「解説」岡本綺堂『ランプの下にて』383頁(岩波文庫)より引用

身近にいた人から見てもつぎのようであった。
    「その身辺といい机の上など整然として一点の塵はおろか、筆一本紙一枚取り散らかしてある形跡は見えなかった」
    「プロ意識の強い彼は追い込まれるのが嫌いで、いつでも締め切りの二、三日前には仕上げ、きまって締切り前日に速達便で発送する」
    ―岡本経一「解説」『半七捕物帳』(旺文社文庫)


◆作家としてのモデルはいた?!

綺堂に劇作家としてのモデルとなるような先人がいたかどうかわからないし、また、独立的な性格の人物らしいので、あえてそれを詮索することに意義があるとも思えないが、交流を探る上ではさけられない。

新聞劇評の先輩の作家や記者たちが周りにいた。たとえば、条野採菊や塚原渋柿園、それに若い時代には築地の家に通ったという、福地桜痴らがいた。

とくに福地桜痴とは、明治22年歌舞伎座が開場した後に、父とともに団十郎の楽屋で会っており、そのときに作家志望の話をしている。                (岡本綺堂『ランプの下にて 明治劇談』「歌舞伎座の新開場」(岩波文庫)136頁)

また、桜痴居士の作家のスタイルとして、つぎのように記述している。
    「桜痴居士は行儀のいい人であった。どんな暑中でも膝をくずさずに、かならず机の前に端座して筆を執っていた。」
    ―岡本綺堂『ランプの下にて 明治劇談』岩波文庫175頁
この時代の人の姿勢のよさ、潔癖、簡潔さには、私の机の周りを思うと、感服してしまう。幸田露伴の書斎での写真を見ると、畳に机でひどく簡素だったことを思い出す。

◆劇作家の家庭

・関東大震災で家、蔵書など焼失

 大正12年の関東大震災で、元園町の旧居は、一日の深夜に、5千余冊の蔵書とともに焼け失せた。その後に、元のところに新居が完成して、夫人、書生一人、女中二人の閑居な生活であるとされている。

・麻布の家
 大正13年1月15日に再度の強震によって倒れかかった。そこで、大久保に貸家を捜した。

・大久保百人町の家
 大正13年3月18日引越。
 9畳、8畳、四畳半2間、3畳2間の平屋、庭が百坪(家賃130円、敷金1000円)
 玄関脇の3畳が岡本経一氏の書生部屋だったという。

・執筆は、2階でしていた。

 川上音二郎が綺堂の自宅を訪ねて、芝居の原稿の執筆を依頼しに来るとき、2階へ汗を拭きふき、上ってきたとある。このときの家は元園町1丁目19番地だったと思われる。「綺堂マップ」の項、参照

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  勧進帳 市川団十郎と左団次



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