岡本綺堂はどのような人だったか ◆綺堂は厳しい人でした 綺堂の養子である岡本経一氏はつぎのように語っている。
「江戸っ子は他国の土を踏まないのを一種の誇りとしているので、大体に旅嫌いである……。」 旅ということではないだろうが、綺堂は病弱であったため、近郊の温泉場には出かけて療養している。また、松島や水戸などにも旅したことがある。そして、イギリスやヨーロッパを視察して訪れている。 写真で見ると、痩せ型のようであるが、どのように外見は見えたのだろうか。
◆俳優とは私的な付き合いはしなかった 綺堂は、川上音二郎や市川左団次、その他の歌舞伎役者のために作品を多く書いたが、個人的な付き合いはほとんどなかったようだ。
◆文字通り、書斎人 綺堂「私の机」(という随想があるらしいのだが、未読のため、下記からの引用による)
―岡本経一「解説」岡本綺堂『ランプの下にて』383頁(岩波文庫)より引用 身近にいた人から見てもつぎのようであった。
「プロ意識の強い彼は追い込まれるのが嫌いで、いつでも締め切りの二、三日前には仕上げ、きまって締切り前日に速達便で発送する」 ―岡本経一「解説」『半七捕物帳』(旺文社文庫) ◆作家としてのモデルはいた?! 綺堂に劇作家としてのモデルとなるような先人がいたかどうかわからないし、また、独立的な性格の人物らしいので、あえてそれを詮索することに意義があるとも思えないが、交流を探る上ではさけられない。 新聞劇評の先輩の作家や記者たちが周りにいた。たとえば、条野採菊や塚原渋柿園、それに若い時代には築地の家に通ったという、福地桜痴らがいた。 とくに福地桜痴とは、明治22年歌舞伎座が開場した後に、父とともに団十郎の楽屋で会っており、そのときに作家志望の話をしている。 (岡本綺堂『ランプの下にて 明治劇談』「歌舞伎座の新開場」(岩波文庫)136頁) また、桜痴居士の作家のスタイルとして、つぎのように記述している。
―岡本綺堂『ランプの下にて 明治劇談』岩波文庫175頁 ◆劇作家の家庭 ・関東大震災で家、蔵書など焼失 大正12年の関東大震災で、元園町の旧居は、一日の深夜に、5千余冊の蔵書とともに焼け失せた。その後に、元のところに新居が完成して、夫人、書生一人、女中二人の閑居な生活であるとされている。 ・麻布の家 大正13年1月15日に再度の強震によって倒れかかった。そこで、大久保に貸家を捜した。 ・大久保百人町の家 大正13年3月18日引越。 9畳、8畳、四畳半2間、3畳2間の平屋、庭が百坪(家賃130円、敷金1000円) 玄関脇の3畳が岡本経一氏の書生部屋だったという。 ・執筆は、2階でしていた。 川上音二郎が綺堂の自宅を訪ねて、芝居の原稿の執筆を依頼しに来るとき、2階へ汗を拭きふき、上ってきたとある。このときの家は元園町1丁目19番地だったと思われる。「綺堂マップ」の項、参照 | 勧進帳 市川団十郎と左団次 |