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 綺堂ディジタル・コレクション

つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
『青蛙堂鬼談』の第12話目の作品です。フィルムに写った不思議な像……福島の不思議な池にまつわる伝説。秀衡から明治、福島から中国と時代と場所は変転する。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




龍馬《りゆうめ》の池《いけ》 ――『青蛙堂鬼談』より
                   岡本綺堂
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      一

 第十二の男は語る。

 わたしは写真道楽で――といっても、下手の横好きのお仲間なのですが、ともかく道楽となると、東京市内や近郊でばかりパチリパチリやっているのではどうしても満足が出来ないので、忙しい仕事の暇をぬすんで各地方を随分めぐり歩きました。そのあいだにはいろいろの失策談や冒険談もあるのですが、今夜の話題にふさわしいお話というのは、今から四年ほど前の秋、福島県の方面へ写真旅行を企てたときの事です。
 そのときに自分ひとりで出かけたのですが、白河《しらかわ》の町には横田君という人がいる。わたしは初対面の人ですが、友人のE君は前からその人を知っていて、白河へ行ったならば是非たずねてみろと言って、丁寧な紹介状を書いてくれたので、わたしは帰り路にそこを訪ねると、横田君の家は土地でも旧家らしい呉服屋で、商売もなかなか手広くやっているらしい。わたしの紹介された人はそこの若主人で、これも写真道楽の一人ですから、初対面のわたしを非常に歓待してくれまして、別棟になっている奥座敷へ泊めていろいろの御馳走をしてくれる。まったく気の毒なくらいでした。
 日が暮れてから横田君はわたしの座敷へ来て、夜のふけるまで話していましたが、そのうちに横田君はこんなことを言い出しました。
「どうもこの近所には写真の題になるようないい景色のところもありません。しかし折角おいでになったのですから、何か変ったところへ御案内したい。これから五里半以上、やがて六里ほどもはいったところに龍馬の池というのがあります。少し遠方ですが、途中までは乗合馬車がかよっていますから、歩くところはまず半分ぐらいでしょう。どうです、一度行って御覧になりませんか。」
「わたしは旅行馴れていますから、少しぐらい遠いのは驚きません。そこで、その龍馬の池というのは景色のいいところなんですか。」
「景色がいいというよりも、大きい木が一面に繁っていて、なんだか薄暗いような、物凄いところです。昔は非常に大きい池だったそうですが、今ではまあ東京の不忍池《しのばずのいけ》よりも少し広いくらいでしょう。遠い昔には龍が棲んでいた。――おそらく大きい蛇か、山椒《さんしよう》の魚《うお》でも棲んでいたのでしょうが、ともかくも龍が棲んでいたというので、昔は龍の池と呼んでいたそうですが、それが中ごろから転じて龍馬の池ということになったのです。それについて一種奇怪の伝説が残っています。今度あなたを御案内したいというのも、実はそのためなのですが……。あなたはお疲れでお眠くはありませんか。」
「いえ、わたしは夜ふかしをすることは平気です。その奇怪な伝説というのはどんなことですか。」と、わたしも好奇心をそそられて訊きました。「さあ、それをお話し申しておかないと、御案内の価値がないようなことにもなりますから、一応はお耳に入れておきたいと思います。」
 今夜も十時を過ぎて、庭には鳴き弱ったこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]の声がきこえる。九月の末でも、ここらでは火鉢を引寄せたいくらいの夜寒《よさむ》が人に迫ってくるように感じられました。横田君は一と息ついて、さらにその龍馬の池の秘密を説きはじめました。
「なんでも奥州の秀衡《ひでひら》の全盛時代だといいますから、およそ八百年ほどもまえのことでしょう。かの龍の池から一町あまりも離れたところに、黒太夫という豪農がありました。九郎というのではなく、黒と書くのだそうです。御承知の通り、奥州は馬の産地で、近所の三春には大きい馬市が立っていたくらいですから、黒太夫の家にもたくさんの馬が飼ってありました。それからまた、龍の池のほとりには一つの古い社《やしろ》がありました。いつの頃に建てられたものか知りませんが、よほど古い社であったそうで、土地の者は龍神の社とも水神の社とも呼んでいましたが、その社の前に木馬《もくば》が立っていました。普通ならば御神馬《ごしんめ》と唱えて、ほんとうの生きた馬を飼っておくのですが、ここのはほんとうの馬と同じ大きさの木馬で、いつの昔に誰が作ったのか知りませんが、その彫刻は実に巧妙なもので、ほとんど生きているかと思われるほどであったそうです。したがって、この木馬が時どきに池の水を飲みに出るとか、正月元日には三度いななくとか、いろいろの噂が伝えられて、土地の者はそれを信じていたのです。
 ところがその木馬がある時どこへか姿を隠してしまった。前の伝説がありますから、おそらくどこへか出て行って、再び戻って来るものと思っていると、それが三月たっても半年たっても再び姿をみせない。元来が小さい社で神官も別当もいるわけではないのですから、馬がどうして見えなくなったか、その事情は勿論わからない。まさか盗まれたわけでもあるまい。盗んだところでどうにもなりそうもない。霊ある木馬はこの池の底へ沈んでしまったのではあるまいか、という説が多数を占めて、まずそのままになっていると、その年の秋には暴風雨があって、池の水が溢れ出して近村がことごとく水にひたされる。そのほかにも悪い病いが流行《はや》る。かの木馬の紛失以来、いろいろの災厄がつづくので、土地の者も不安に襲われました。
 とりわけて心配したのはかの黒太夫で、なにぶんにも所有の土地も広く、家族も多いのですから、なにかの災厄のおこるたびに、その被害が最も大きい。そこで村の者どもとも相談して、黒太夫の一手でかの木馬を新しく作って、龍神の社前に供えるということになりました。しかしその頃の奥州にはとてもそれだけの彫刻師はいない。もちろん平泉《ひらいずみ》には相当の仏師もいたのですが、今までのが優れた作であるだけに、それに劣らないような腕前の職人を物色するということになると、なかなか適当の人間が見あたらない。
 これには黒太夫も困っていると、ある晩にひとりの山伏が来て一夜のやどりを求めたので、黒太夫もこころよく泊めてやる。そうして、なにかの話からかの木馬の話をすると、山伏のいうには、それにはいいことがある。今度奥州の平泉に金色堂というものが出来るについて、都から大勢の仏師や番匠《ばんじよう》やいろいろの職人が下って来る。そのなかに祐慶という名高い仏師がいる。この人は仏ばかりでなく、花鳥や龍や鳳凰や、すべての彫刻の名人として知られているから、この人の通るのを待ち受けて、なんとか頼んでみてはどうだ。わたしは宇都宮で逢ったから、おそらく一日二日のうちにはここへ来るだろうというのです。
 それをきいて黒太夫は非常によろこびました。山伏はあくる朝、ここを立ってしまいましたが、黒太夫はすぐに支度をして、家内の者四、五人を供につれて、街道筋へ出張って待ちうけていると、果してその祐慶という人が通りかかりました。黒太夫が想像していたのとは違って、まだ二十四五の若い男で、これがそれほど偉い人かと少しく疑われるくらいでしたが、ともかくも呼びとめて木馬の彫刻をたのみますと、祐慶は、先をいそぐからというので断りました。それをいろいろに口説いて、なにしろその場所を一度見てくれといって、無理に自分の屋敷まで連れて来ることになったのです。
 祐慶は案内されて、かの龍神の社へ行って、龍の池のあたりを暫く眺めていましたが、それほどお頼みならば作ってもよろしい。しかし馬ばかり作ったのでは再び立去るおそれがあるから、どうしてもその手綱《たづな》を控えている者を添えなければならないが、それでも差支えないかと念を押したそうです。
 もちろん、差支えはないと言うほかないので、万事よろしく頼むことになりますと、祐慶は彫刻をするために生きた人間と生きた馬を手本に貸してくれという。つまり今日《こんにち》のモデルといったわけです。前にも申した通り、黒太夫の家にはたくさんの馬が飼ってある。その中から裕慶は白鹿毛《しろかげ》の大きい馬を選び出しました。そこで、その綱を取っている者は誰にしたらいいかという詮議になると、祐慶は大勢の馬飼いのうちから捨松というのを選びました。
 捨松はことし十五の少年で、赤児のときに龍神の社の前に捨ててあったのを黒太夫の家で拾いあげて、捨て子であるから捨松という名をつけて、今日まで育てて来たので、ほんとうの子飼いの奉公人です。そういうわけで、親もわからない、身許も判らない人間ですから、黒太夫も不便を加えて召使っている。当人も一生懸命に働いている。また不思議にこの捨松は馬をあつかうことが上手で、まだ年もいかない癖に、どんな悍《かん》の強い馬でも見ごとに鎮めるというので、大勢の馬飼《うまかい》のなかでも褒め者になっている。それらの事情から祐慶もかれを選定することになったのかも知れません。いずれにしても、青年の仏師は少年の馬飼と白鹿毛の馬とをモデルにして、いよいよかの木馬の製作に取りかかったのは、旧暦の七月の末、ここらではもうすっかりと秋らしくなった頃でした。」

      二

「祐慶がどういう風にして製作に従事したかという事は詳しく伝わっていませんが、屋敷内の森のなかに新しく細工場を作らせて、モデルの捨松と白鹿毛のほかには誰も立入ることを許しませんでした。主人の黒太夫も覗くことは出来ない。こうして七、八、九、十、十一と、あしかけ五カ月の後に、人間と馬との彫刻が出来あがりました。時によると夜通しで仕事をつづけている事もあるらしく、夜ふけに鑿《のみ》や槌の音が微かにきこえるのが、なんだか物凄いようにも感じられたということでした。
 いよいよ製作が成就《じようじゆ》して、五カ月ぶりで初めて細工場を出て来た祐慶は、髪や髭は伸び、頬は落ち、眼は窪んで、にわかに十年も年を取ったように見えたそうですが、それでもその眼は生きいきと光りかがやいていました。モデルの少年も馬もみな元気がいいので、黒太夫一家でもまず安心しました。出来あがった木馬はもちろん、その手綱を控えている馬飼のすがた形もまったくモデルをそのままで、さながら生きているようにも見えたので、それを見た人々はみな感嘆の声をあげたそうです。
 黒太夫も大層よろこんで手厚い礼物《れいもつ》を贈ると、祐慶は辞退して何にも受取らない。彼は自分の長く伸びた髭をすこし切って、これをそこらの山のなかに埋めて、小さい石を立てておいてくれ、別に誰の墓ともしるすに及ばないと、こう言いおいて早々にここを立去ってしまいました。不思議なことだとは思ったが、その言う通りにして小さい石の標《しるし》を立て、誰が言い出したともなしにそれを髭塚と呼ぶようになりました。
 そこで、吉日を選んでかの木馬を社前に据えつける事になったのは十二月の初めで、近村の者もみな集まるはずにしていると、その前夜の夜半からにわかに雪がふり出しました。ここらで十二月に雪の降るのは珍しくもないのですが、暁け方からそれがいよいよ激しくなって、眼もあけないような大吹雪となったので、黒太夫の家でもどうしょうかと躊躇していると、ここらの人たちは雪に馴れているのか、それとも信仰心が強いのか、この吹雪をも恐れないで近村はもちろん、遠いところからも続々あつまって来るので、もう猶予してもいられない。午《ひる》に近いころになって、黒太夫の家では木馬を運び出すことになりました。いい塩梅に雪もやや小降りになったので、人々もいよいよ元気が出て、かの木像と木馬を大きい車に積みのせて、今や屋敷の門から挽き出そうとする時、馬小屋のなかでにわかに高いいななきの声がきこえたかと思うと、これまでモデルに使われていた白鹿毛が何かの物の怪《け》でも付いたように狂い立って、手綱を振切って門の外へ飛び出したのです。
 人々も驚いて、あれあれというところへ、かの捨松が追って来ました。馬は龍の池の方へ向ってまっしぐらに駈けてゆく。捨松もつづいて追ってゆく。雪はまたひとしきり激しくなって、人も馬も白い渦のなかに巻き込まれて、時どきに見えたり隠れたりする。捨松は途中で手綱を掴んだらしいのですが、きょうは容易に取鎮めることが出来ず、狂い立つ奔馬に引きずられて吹雪のなかを転んだり起きたりして駈けてゆく。ほかの馬飼も捨松に加勢するつもりで、あとから続いて追いかけたのですが、雪が激しいのと、馬が早いのとで、誰も追い付くことが出来ない。ただうしろの方から、おういおうい、と声をかけるばかりでした。
 そのうちに吹雪はいよいよ激しくなって、白い大浪が馬と人とを巻き込んだかと思うと、二つながら忽ちにその影を見失った。どうも池のなかへ吹き込まれたらしいのです。騒ぎはますます大きくなって、大勢がいろいろに詮議したのですが、捨松も白鹿毛も、結局ゆくえ不明に終りました。
 やはり以前の木馬と同じように池の底に沈んだのであろうと諦めて、新しく作られた木像と木馬を龍神の社前に据えつけて、ともかくもきょうの式を終りましたが、もしやこれもまた抜け出すようなことはないかと、黒太夫の家からは朝に晩に見届けの者を出していましたが、木像も木馬も別条なく、社を守るように立っているので、まず安心はしたものの、それにつけても捨松と白鹿毛の死が悲しまれました。
 誰が見ても、その木像と木馬はまったく捨松と白鹿毛によく似ているので、あるいは名人の技倆によって、人も馬もその魂を作品の方に奪われてしまって、わが身はどこへか消え失せたのではないかなどと言う者もありました。それからまた付会《ふかい》して、今度の木馬も時どきにいななくとか、木像の捨松が口をきいたとか、いろいろの噂が伝えられるようになりました。
 そこで、その名人の仏師はどうしたかというと、その後の消息はよく判りません。どうも平泉で殺されたらしいということです。なにしろここで木像と木馬を作るために五カ月を費したので、平泉へ到着するのが非常におくれた。それが秀衡の感情を害した上に、仕事に取りかかってからも、一向に捗《はか》がゆかない。まるで気ぬけのした人間のように見えたので、いよいよ秀衡の機嫌を損じて、とうとう殺されてしまったという噂です。彼が立ちぎわに髭を残して行ったのから考えると、自分自身にも内々その覚悟があったのかも知れません。かの池を以前は単に龍の池と呼んでいたのですが、この事件があって以来、さらに馬という字を付け加えて、龍馬の池と呼ぶようになったのだそうです。」
「で、その木像と木馬も今も残っているのですか。」と、わたしはこの話の終るのを待ちかねて訊きました。
「それにはまたお話があります。」と、横田君は静かに言いました。「あとで聞くと、その祐慶という仏師は日本の人ではなく、宋から渡来した者だそうです。日本人ならば髪を切りそうなところを、髭を切って残したというのから考えても、なるほど唐《から》の人らしく思われます。それから七八百年の月日を過ぎるあいだに、土地にもいろいろの変遷があって、黒太夫の家は単に黒屋敷跡という名を残すばかりで、とうの昔にほろびました。龍馬の池も山崩れや出水のためにいくたびかその形をかえて、今では昔の半分にも足らないほどに小さくなってしまいました。それでも龍神の社だけは江戸の末まで残っていたのですが、明治元年の奥羽戦争の際には、この白河が東軍西軍の激戦地となったので、社も焼かれてしまいました。もうその跡に新しく建てるものもないので、そこらは雑草に埋められたままです。」
「そうすると、かの木馬も一緒に焼けてしまったのですね。」
「誰もまあそう思っていたのです。したがって、そのゆくえを詮議する者もなかったのですが、それからおよそ四十年ほども過ぎて、日露戦争の終った後のことです。この白河出身の者で、今は南京に雑貨店を開いている堀井という男が、なにかの商売用で長江《ちようこう》をさかのぼって蜀《しよく》へゆくと、成都の城外と言っても、六、七里も離れた村だそうですが、その寂しい村の川のほとりに龍王廟というのがある。その古い廟の前に大きい柳が立っていて、柳の下に木馬が据えてある。木馬はともかくも、その馬の手綱を控えている少年の木像が確かに日本人に相違ないので、堀井も不思議に思いました。
 もちろん堀井は明治以後に生れた男で、龍馬の池の木像も木馬も見たことはないのですが、かねて話に聴いているものによく似ているばかりか、その木像の顔容《かおだち》や風俗が日本の少年であるということが、大いに彼の注意をひきました。土地の者についていろいろ聞合せてみましたが、いつの頃にどうして持って来たのか一向にわからない。
 結局、不得要領で帰って来たそうですが、どうしてもそれは日本のものに相違ないと堀井は主張していました。もし果してそれが本当であるとすれば、木馬や木像が自然に支那まで渡ってゆくはずがありませんから、戦争のどさくさまぎれに誰かが持出して、横浜あたりにいる支那人にでも売渡したのではあるまいかとも想像されますが、実物大の木像や木馬をどうして人知れずに運搬したか、それが頗る疑問です。それを作った仏師が支那の人であるからといって、木像や木馬が何百年の後、自然に支那へ舞い戻ったとも思われません。なにしろ堀井という男は龍馬の池の実物を見ていないのですから、いかに彼が主張しても、果してそれが本物であるかどうかも疑問です。」
 それからそれへと拡がってゆく奇怪の物がたりを、わたしは黙って聞いているのほかはありませんでした。横田君は最後にまたこう言いました。
「今まで長いお話をしましたが、近年になって、かの龍馬の池に新しい不思議が発見されたのです。」
 まだ不思議があるのかと、わたしも少し驚いて、やはり黙って相手の顔をながめていました。二人のあいだに据えてある火鉢の火がとうに灰になっているのをお互いに気がつかないのでした。
「あなたを御案内したいというのも、それがためです。」と、横田君は言いました。「今から七年ほど前のことです。宮城県の中学の教師が生徒を連れて来たときに、龍馬の池のほとりで写真を撮ってあとで現像してみると、馬の手綱を取った少年の姿が水の上にありありと浮かび出しているので、非常に驚いたといいます。その噂が伝わって、その後にもいろいろの人が来て撮影しました。東京からも三、四人来ました。土地でも本職の写真師は勿論、我れわれのアマチュアが続々押掛けて行って、たびたび撮影を試みましたが、めったに成功しません。それでは全然駄目かというと、十人に一人ぐらいは成功して、確かに馬と少年の姿が浮いてみえるのです。」
「なるほど不思議ですね。」と、わたしも溜息をつきました。「そうして、あなたは成功しましたか。」
「いや、それが残念ながら不成功です。六、七回も行ってみましたが、いつも失敗を繰返すので、わたくしはもう諦めているのですが、あなたのお出になったのは幸いです。あしたは是非お供しましよう。」
「はあ、ぜひ御案内をねがいましょう。」
 わたしの好奇心はいよいよ募って来ました。もう一つには、十人に一人ぐらいしか成功しないという不思議の写真を、見ごと自分のカメラに収めてみせようという一種の誇りも加わって、わたしはあしたの来るのを待ちこがれていました。

      三

 あくる朝は幸いに晴れていたので、わたしは早朝から支度をして、横田君と一緒に出ました。横田君も写真機携帯で、ほかに店の小僧ひとりを連れてゆきました。池の近所に飯を食わせるような家はないというので弁当やビールなどをバスケットに入れて、それを小僧に持たせたのです。
 三里ほどは乗合馬車にゆられて行って、それからは畑道や森や岡を越えて、やはり三里ほども徒歩でゆくと、だんだんに山に近いところへ出ました。横田君や小僧は土地の人ですから、このくらいの途は平気です。わたしも旅行慣れているので、別に驚きもしませんでした。小僧は昌吉といって、ことし十六だそうです。年の割には柄の大きい、見るから丈夫そうな、そうしてなかなか利口そうな少年でした。したがって、若主人の横田君にも可愛がられているらしく、横田君がどこへか出る時には、いつも彼を供に連れてゆくということでした。 「この昌吉も、ゆうべお話をした木像のモデルと同じような身の上なのです。」と、横田君はあるきながら話しました。「これも両親は判らないのです。」
 昌吉という少年も、やはり捨て子で、両親も身もとも判らない。それを横田君の家で引取って、三つの年から育ててやったのだということでした。それを聴かされて、わたしもかの捨松という馬飼のむかし話を思い出して、きょうの写真旅行に彼を連れてゆくのも、なんだか一種の因縁があるように感じられましたが、昌吉はまったく利口な人間で、途中でも油断なく我れわれの世話をしてくれました。
 午《ひる》に近い頃に目的地へゆき着きましたが、横田君の話で想像していたのとは余ほど違っていて、なるほど大木もありますが、昼でも薄暗いというような幽暗な場所ではなく、むしろ見晴らしのいい、明るい気分のところでした。
「また伐ったな。」と、横田君はひとりごとのように言いました。近来しきりにこの辺の樹木を伐り出すので、だんだんに周囲が明るくなって、むかしの神秘的な気分が著しく薄れて来たとのことでした。どこでも同じことで、これはやむを得ないでしょう。しかし龍神の社の跡だというところは、人よりも高い雑草にうずめられて、容易に踏み込めそうもありませんでした。三人は池のほとりの大樹の下に一と休みして、それから昌吉が尽力して午飯《ひるめし》の支度にかかりました。横田君はいろいろの準備をして来たとみえて、バスケットの中から湯沸《ゆわか》しを取出して、ここで湯を沸かして茶をこしらえるというわけです。朝から晴れた大空は藍色に高く澄んで、そよとの風もありません。梢の大きい枯葉が時どきに音もなしに落ちるばかりで、池の水は静かに淀んでいます。岸の一部には芦や芒が繁っているが、ほかに水草らしいものも見えず、どちらかといえば清らかな池です。これがいろいろの伝説を蔵している龍馬の池であるかと思うと、わたしは軽い失望を感じて、なんだか横田君にあざむかれているようにも思われました。
「水を汲んで来ます。」
 こう言って、昌吉は湯沸しを提げて行きました。池の北にある桜の大樹の下に清水の湧く所がある。その水がこの池に落ちるのだそうで、夏でも氷のように冷たいと、横田君は説明していました。
「さあ、茶の出来るあいだに、仕事をはじめますかな。」
横田君は写真機を取出しました。わたしも機械を取出して、ふたりはいろいろの位置から四、五枚写しましたが、昌吉はなかなか帰って来ません。
「あいつ、何をしているのかな。」
 横田君は大きい声で彼の名を呼びましたが、返事がない。そのうちに気がつくと、かの湯沸しはバスケットの傍においてあって、中には綺麗な水が入れてありました。我れわれが写真に夢中になっているあいだに、昌吉はもう水を汲んで来たらしいのですが、さてその本人の姿が見えない。いつまで待ってもいられないので、横田君はそこらの枯枝や落葉を拾って来る。わたしも手伝って火を焚いて、湯を沸かす、茶を淹れる。こうして午飯を食い始めたのですが、昌吉はまだ帰らない。ふたりはだんだんに一種の不安をおぼえて、たがいに顔を見合せました。
「どうしたのでしょう。」
「どうしましたか。」
 早々に飯を食ってしまって、ふたりは昌吉のゆくえ捜索に取りかかりました。ふたりは池を一とまわりして、さらに近所の森や草原を駈けめぐりました。龍神の社の跡という草むらをも掻きわけて、およそ二時間ほども捜索をつづけたのですが、昌吉はどうしても見付かりません。横田君もわたしもがっかりして草の上に坐ってしまいました。
「もう仕様がありません。家へ帰って出直して来ましょう。」と、横田君は言いました。
 バスケットなどはそこにおいたままで、ふたりは早々に帰り支度をしました。日の暮れかかる頃に町へ戻って来てそのことを報告すると、店の人々もおどろいて、店の者や出入りの者や、近所の人なども一緒になって、二十人ほどが龍馬の池へ出てゆきました。横田君も先立ちになって再び出かけました。
「あなたはお疲れでしょうから、風呂へはいってゆっくりお休み下さい。」
 横田君はこう言いおいて出て行きましたが、とても寝られるわけのものではありません。私もおちつかない心持で捜索隊の帰るのを待ち暮らしていますと、夜なかになって横田君らは引揚げて来ました。
「昌吉はどうしても見つかりません。」
 その報告を聴かされて、私もいよいよがっかりしました。それと同時に、昌吉のゆくえ不明は、かの捨松とおなじような運命ではあるまいかとも考えられました。

 わたしはその翌日もここに滞在して、昌吉の行く末を見届けたいと思っていますと、きょうは警察や青年団も出張して、大がかりの捜索をつづけたのですが、少年のゆくえは結局不明に終りました。いつまでもここの厄介になってもいられないので、わたしは次の日に出発して、宇都宮に一日を暮らして、それから真っ直ぐに帰京しましたが、何分にも昌吉のことが気にかかるので、横田君に手紙を出してその後の模様を問いあわせると、二、三日の後に返事が来ました。その文句は大体こんなことでした。
 

     前略、折角お立寄りくだされ候ところ、意外の椿事出来《しゆつたい》のために種々御心配相掛け、なんとも申訳無御座候。昌吉のゆくえは遂に相分り申さず、さりとて家出するような子細も無之、唯々不思議と申すのほか無御座候。万一かの捨松の二代目にもやと龍馬の池の水中捜索をこころみ候えども、これも無効に終り申候。
     ここにまた、不思議に存じられ候は、当日小生が撮影五枚のうち、一枚には少年のすがた朦朧とあらわれおり候ことに御座候。それは影のように薄く、もちろんはっきりと相分り兼ね候えども、それがどうも昌吉の姿らしくも思われ申候。
     貴下御撮影の分はいかが、現像の結果御しらせ下され候わば幸甚《こうじん》に存じ候。

まずこんな意味であったので、わたしも取りあえず自分の撮影した分を現像してみましたが、どこにも人の影らしいものなどは見いだされませんでした。横田君の写真にはどういう影があらわれているのか、その実物を見ないのでよく判りません。

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底本:岡本綺堂 岡本綺堂怪談集 影を踏まれた女 光文社 昭和63年10月20日 初版第1刷発行
入力:和井府 清十郎

※今日の人権意識からすると不適切と思われる語句や表現が見受けられますが、時代的な背景と作品の価値に鑑み、また原文の同一性を保持・尊重する立場からそのままとしました。



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