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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、岡本綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 春錦亭柳櫻、神田伯山、柳亭燕枝の作品が芝居化された話。円朝、小さんより他に知らない私は、勉強になりました。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 六  柳櫻と燕枝

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 黙阿彌の作で屡々上演を繰返される世話狂言の一つに「髪結新三」がある。五代目菊五郎が初演以來の當り狂言で、六代目も幾たびか舞台の上に復活してゐる。書きおろしは明治六年、中村座の六月興行で、名題は「梅雨小袖昔八丈」といふ。原作は四幕十一場であるが、大詰の町奉行所などは初演だけに留まつて、再び舞台に上らない。  誰も知るごとく、この劇の見せ場は二幕目の深川富吉町新三宅の場で、菊五郎の新三と中村仲藏の家主長兵衛が大好評を博したのである。作としても黙阿彌の作中で屈指の傑作と称せられてゐる。而もこれは黙阿彌の創作ではなく、やはり寄席の高坐から移植されたもので、春錦亭柳櫻の人情話である。
 柳櫻は名前を柳叟と云つたやうに記憶してゐる。江戸末期から明治の中期にわたる人情話の眞打株で、圓朝ほどに華やかな人気はなかつたが、江戸以來の人情話の本道を傳へてゐるやうな剛手堅い話し口であつた。したがつて、一部の人からは旧いとも云はれたが、その「四谷怪談」の如き、圓朝とは又別種の凄味を帯びてゐた。かの「髪結新三」も柳櫻が得意の讀物であつた。私は麹町の萬長亭で、柳櫻の「髪結新三」を聴いたことがあるが、例の鰹の片身を分けるといふ件は、芝居と些つとも違はなかつた。して見ると、この件は黙阿彌の創意をまじへず、殆ど柳櫻のロ演をそのまゝ筆記したものらしい。ひとり圓朝ばかりでなく、昔の落語家で眞打株となるほどの人は、皆このくらゐの才能を所有してゐたのであらう。
 私は明治五年に生まれたのであるから、固より「髪結新三」の初演を知らない。五代目菊五郎の新三を初めて観たのは明治二十六年五月の歌舞伎座である。書きおろしの仲藏は長兵衛と彌太五郎源七の二役を勤めたのであるが、この時は初代左團次が源七を勤め、松助が長兵衛をつとめてゐた。左團次の源七は不評であつたが、松助の家主は仲藏以來の出來と称せられて、やはり富吉町の新三宅が呼び物となつてゐた。而も私は世評の高い割合に、この場を面白いとは感じなかつた。先入主の關係があるのかも知れないが、私には高坐で聴いた柳櫻の話の方が面白いやうに思はれてならなかつた。新三と家主との鰹の対話の呼吸などは、柳櫻の方が確かに巧かつた。かう云ふと、私は黙阿彌の作にケチを附け、併せて菊五郎と松助の技藝にケチを附けるやうに思はれるかも知れないが、ともかくも春錦亭柳櫻といふ落語家がなければ、この當り狂言は生まれ出なかつたであらうと云ふことだけをはつきりと云つて置きたい。落語家の柳櫻は薄暗いランプの寄席で一生を終つて、今はその名を記憶する者も少ない。黙阿彌や、菊五郎や、松助や、いづれも名人の誉れを後世に残してゐる。それに対して一種の感慨がないでも無い。
 大岡政談の中で最も有名なのは天一坊であらう。これも黙阿彌作の「扇音々(あふぎびやうし)大岡政談」によつて今も屡々上演を繰返されてゐるが、その原作は神田伯山の講談である。伯山はこの講談の創作に苦心し、殊に紀州調べに遣はしたる家來等が容易に歸らず、百日の期日が尽きんとして越前守が切腹を覚悟するところへ、白石治右衛門、吉田三五郎の二人が馳せ着ける一節は、大いに肺肝を砕いたと傳へられる。舞台で観てもこゝが一日の見せ場である。私は高坐で伯山の「天一坊」を聴いたことが無いので、高坐と舞牽との間にどれだけの違があるかを知らないが、物が物だけに、これは「髪結新三」たどの世話物とは蓮つて、原作以上に劇化されてゐるものと察せられる。  この狂言を初演の當時、越前守を勤める坂東彦三郎と作者黙阿彌とのあひだに衝突あり、黙阿彌は脚本を取返して立歸ろうとするのを、座主の守田勘彌が仲裁して無事に納まつたといふ。彦三郎が座頭の位地と人気を恃んで、脚本改竄の我儘を主張したが爲である。彦三郎といへども黙阿彌には敵し得ない。結局屈伏して原作の通りに上演することになつたが、この狂言は非常の好評であつた云へば、彦三郎もいよ/\屈伏したであらう。黙阿彌も定めて痛快を感じたであらう。この初演は明治八年一月の新富座で主なる役割は大岡越前守(坂東彦三郎)天一坊、白石治右衛門(尾上菊五郎)山内伊賀之助、吉田三五郎(市川左團次)等であつた。
 明治以後の黙阿彌作として最もよく知られてゐるものに「河内山」がある。明治十四年三月の新富座初演で、名題は「天衣紛(くもにまがふ)上野初花」と云ふことになつてゐるが、黙阿彌は明治七年十月の河原崎座で「雲上野三衣策前(さんえのさくまへ)」名題の下に同じ題材を取扱つてゐる。要するに「上野初花」は「雲上野」の改作である。これも原作は松林伯圓の講談であるが、舞台と高坐とは大いに相違し、単に原作の人名と略筋を借りただけで、殆ど黙阿彌の創作と云つて好いほどに劇化されてゐる。今日屡々繰返される大口の寮の場の如きは、たとひ寺西閑心や鳥目の一角の焼き直しであろうとも、講談以外の創作であることを認めなければならない。この作がこれほど有名になつたのは、、新富座の初演當時、河内山宗俊(團十郎)片岡直次郎(菊五郎)金子市之丞(左團次)大口屋の三千歳(岩井半四郎)といふ顔ぞろひで、いづれも好評を博したと云ふことも確かに一つの原因であつて、もし第二流の俳優によつて上演せられ、その當時さしたる評判もなくて終つたらば、恐らく舞台の上に長い生命を持続し得なかつたであらう。
 黙阿彌の作としては蝕りに高く評価すべき種類のもので無い。
 落語界に於て三遊亭圓朝に封時したのは柳亭燕枝である。圓朝一派を三遊派といひ、燕枝一派を柳派と称し、明治の落語界は殆どこの二派によつて占領されてゐるやうたな観あつた。殊に燕枝は非常な好劇家で、常に團十郎の家にも出入し、團十郎の俳名團洲に模して、みづから談洲楼と號してゐた。圓朝は温順な人物であつたが、燕枝は江戸子肌の暴つぽい人物で、高坐における話し口にもよくその性資をあらはしてゐた。好劇の結果、彼は落語家芝居をはじめ、各劇場で幾たびか公演して人気を取つたこともある。  燕枝も圓朝と同様、文字の素養があつて俳句などをも善くした。したがつて、自作の績き話も多かつたが、速記本などには余り多く現はれてゐないやうである。彼が得意とする人情話には、悪侍や無頼漢が活動する世界が多く、何となく圓朝は上品、燕枝は下品であるかのやうに認められたのは、彼とし三割方の損であつたかも知れない。燕枝は明治三十三年二月十一日、六十八歳を以て世を去つた。彼は圓朝よりも五歳の兄で、圓朝と同年に死んだのである。三遊派も柳派も同時にその頭領をうしなつて、我が落語界も漸く不振に向ふこととなつた。
 燕枝の人情話の中で、彼が最も得意とするのは「嶋千鳥沖津白浪」であつた。大坂屋花鳥に佐原喜三郎を配したもので、吉原の放火や、傳馬町の女牢、嶋破りや、人殺しや、その人物もと趣向も彼に適當したものである。これは明治二十二年六月、大坂屋花鳥(坂東家橘)梅津長門(市川猿之助)佐原の喜三郎(中村駒之助)等の役割で、通し狂言として春木座に上演された。
 以上のほかにも、講談又は人情話の劇化されたものは澤山ある。こゝでは最も有名た物のみを紹介したに過ぎない。劇場で講談又は人情話を上演するのは、あながちに題材に窮した爲ではなく、寄席の高坐で売込んだものを利用するといふ一種の興行策である。講談師や落語家も自分の讀み物を上演されることを喜んだ。これも一種の宣傳になるからである。要するに、寄席と芝居と、たがひに持ちつ持たれつの関係で、高坐の話が舞台に移植されたのである。それも前に云ふ通り、圓朝、燕枝等の歿後は殆ど絶えた。  今日では寄席の高坐が映畫館のスクリーンに変つて、映畫のストーリーが舞台に屡々移植されるやうになつた。これも時代の変化である。唯それを劇化する人女が如何なる態度を以てそれに臨むか。映畫をそのまゝに傳へるか、或は自己の創意を加へるか。それに因つて劇作家の価値もおのづから定まるであらう。        (昭和10・舞台)



底本:岡本綺堂 歌舞伎談義 青蛙房
   1957年 発行
入力:和井府 清十郎
公開:2004年1月13日




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