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きどう散歩 足跡をたづねて

岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。

ご案内

その1:(このページ)
 1.本郷・春木座 (のち、本郷座)  綺堂少年、芝居修行の地
 2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺とその前の借家

その2
 3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門
 4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水

その3
 5.高輪・東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地
 6.浅草、三囲神社

その4
 7.新富町・新富座
 8.築地・築地小劇場

 (以下は作成予定)

その5
 9.博多 川上音二郎の生誕地
 10.猿若町(芝居三座)と宮戸座

その6
 11.明治座 日本橋久松町
 12.水天宮 日本橋牡蠣殻町

その7:  new !
 13.真砂座 中洲・日本橋



1.本郷・春木座 (のち、本郷座)  綺堂少年、芝居修行の地

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春木座(のち本郷座)は、本郷・春木町1丁目8番地から同13番地までと、金助町38−44番地までにまたがってあった。明治23年6月に類焼にて焼失したが、翌年、洋風館にて新築した。しかし、再び明治31年に大火にて焼失した。残念ながら綺堂少年が通った春木座は焼失したが、写真は明治34年に再築した当時の本郷座(『風俗画報』358号(明治40年2月25日刊)より)



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左の地図は、明治29年の東京市本郷区全図の一部である。この地図から判断して、現在の地図に引きなおすと、本郷3丁目14番地あたりであるようだ。他の人もここだと比定しているわけではないが、旧町名の案内板には、やはり春木座のいわれが書かれているので、ここら辺にあったことは間違いない。やや見にくいのですが、左の地図の中央の「春木」という字の下方に「春木座」とあるのが見える。

現在、春木町などという町名はない。むごく本郷3丁目なのである。一律に本郷3丁目にしたところで、いかにも市街・行政区としても広すぎる。本郷春木○丁目ぐらいの下位の町名は保存する必要があるように思う。行政の便宜と横暴さを感じてしまう。でも、春木町をのこせば、なんで俺らんとこの金助町は残らねのか、っう話になるんだもんね。町名変更は、まず震災後の復興局によって行われたが、その無知と横暴への絶望的悲鳴にも似た声は、三田村鳶魚「新生の東京と其の町名」『女性』9巻3号259頁(大正15年3月1日号)に詳しい。
さて、本郷2丁目の交差点に立って、見渡したところ、わずか寿司屋の名前にあったくらいである。

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モニュメントもない。あるいは大理石に、旧春木座・本郷座跡、なんていう碑があることを期待したが、そんなものもなかった。さびしい限りである。本郷菊坂に住む樋口一葉夏子と、麹町からはるばる芝居見物にきた岡本綺堂敬二が、行き逢ったかもしれない場所なのだが。

交通】 地下鉄丸の内線本郷3丁目駅を降りて、本郷通りへ出て、東京大学とは反対の方向に歩き、壱岐坂上の交差点を過ぎて、本郷2丁目交差点に出る。そこから、消防署前通りと呼ばれている通りへ向かう。その中ほど左側に東京三菱銀行の建物があり、そのちょうど、道路を隔てた反対側に日本ビクター・JVCの建物がある。左の写真の奥の白い背の高いビルがそうである。ここが春木座が所在したと考えられる場所である。そこは本郷3丁目14番地。地下鉄駅から所要時間15分ほど。

しかし、この建物の前の、現在の道路は狭い。明治の写真(写真一番上)ではもっと広いような感じなのだが。ちょっとこのあたりが場所的に正しいかどうか不安になるが、震災・戦災後の区画整理などの影響もあったのかと思う。現在の地図と較べると当時よりはるかに狭くなっているようだ。

昼時になったので、近くのサラリーマン中年の、絶大な信頼を受けている?らしい、手打ち蕎麦屋に入ってみた。入り口は、手打ち蕎麦屋に似つかわしくない?サッシのドアで、気取らないそれを気に入ったつもりで入ると、中では27−30人くらいのおじさんたちがひしめいて、ひやし系のそばを啜っていた。私は中でも一番若い方だったろうし、女性客は一人もいなかった。東京のランチはどこでも食って、出る、それだけのことのようだ。

岡本綺堂は、少年の頃、三崎町の原で野犬に吠え立てられながら、まだ薄暗い早朝に、日曜日ごとに通った。朝7時くらいには、もう人が並んでいて、木戸が開くのを待っていたとある。綺堂少年が通った春木座も明治24年には焼失した。明治35年に、西洋風建物として再建されている。料金が安いのと、画期的な商法で、「春熊芝居」として全盛を誇ったし、さらに川上音二郎ら新派劇の牙城となったこともあった。

余り芝居見物をした気配のない夏目漱石も、この洋風建物で「金色夜叉」を見た。一葉も本郷辺りの寄席に出かけたし、漱石も寄席のことを多く書いているような記憶がある。一葉の日記に出てくるのは、若竹亭(本郷区東竹町二)である。数ある中でも有名な寄席だった。




2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺の前の借家

9月1日夜、元園町の自宅を震災で焼け出されて、小林蹴月宅に避難していたが、2日には、目白にあった、弟子の額田六福邸に一家で身を寄せた。その間に知人の紹介によって借家をやっとのことで、麻布十番に見出す。

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【交通】 地下鉄で麻布十番の駅で降りる。麻布十番の商店街を抜けてゆくと、左手に暗闇坂(元麻布3丁目11)、右手の角に背の高い「麻布十番湯」というビルがある。暗闇坂の方に折れて、最初の四つ角を右に折れると、救世軍のビルが前方にあり、あとは細い一本道である。所要時間は地下鉄駅から15分ほど。

「麻布十番湯」の入口近くには、「越の湯」とも書いてあり、元の名前がこれだろうとわかる。綺堂が入浴に出かけた場所でもある。

その暗闇坂をすこし登って、最初の四つ角を右へ折れる(上の地図、参照。人物が立っているあたり)。この角を探すのに苦労した。暗闇坂を上まで登って行って違うところへ迷い込んだこともある。地図、といっても昔のものだが、図面と実際では大違いだ。

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さて、最初の四つ角を右へ曲がると、救世軍の建物が左手にあって、細い路地みたいな道路をすこし登ってゆく。
道はややゆっくりと右へカーブしたような道路だ。地図でもそのように書いてある。なるほどあの曲がりが、このような道なのだと実感する。

しばらく行くと、空き地が見えて、やはり、その先は崖になっている。綺堂が借家した家も庭の向こう側は斜面だったと書いているので、おそらくこのような地形なのだと認識した。丘と丘の間の開けた土地なのだろう。この辺りは元麻布3丁目10の住居表示がある。

今度、右手前方に寺の名前が書いてある白い看板が見える。○△寺、そして光隆寺。これだこれだ。間違いない。寺の赤い門があるはずだが、もうなかった。門らしい門はなく、ちょっとした広場になっていた。この辺りが元麻布3丁目9である。

koryujimae.jpgこの寺の前の家が、綺堂が借りた家であるはずだ。当時の番地でいうと麻布宮村町10番地であった。料理屋の看板が立っていた。右の写真の3軒のうちどちらかだと思うが、寺の門からしてその正反対側にあるのは、赤い屋根の家である。こんなところに……と思うくらい、ちょっと場末の感じだ。ここへは目白から、荷馬車で家財道具を運んで、引越した。右の写真にあるのはむろん、その当時の建物というわけにはいかない。余震で壊れそうになったので、さらに大久保へ引越したのである。ここでの見聞や随筆をまとめて、後に出版したのが『十番随筆』である。綺堂はつぎの句を詠んでいる。

    狸 坂 く ら や み 坂 や 秋 の 暮 

         (『随想 思い出草』「十番雑記」)
麻布十番の商店街まで、地図で眺めるよりも、はるかに近い。14−5分くらいだろうか。やはり実際に歩いて見ないとわからない。当時は、雨の後は道路がぬかるみ、また冠水して、十番の商店街へ出かけるのがはばかられるくらいであったとも書いている。

麻布明治座と呼ばれた芝居小屋も商店街の中ほどにあったようだが、今はどこらあたりかはわからない。やはり震災後に一時期、左団次もここ麻布十番に住んでいた。大正13年の正月には、めずらしく、綺堂は、妻のお栄さん、女中さんを引き連れて、左団次が演じる自作の芝居を麻布明治座へ見物に出かけている。こんなことはこの後もなかったのではないだろうか。
麻布のこの借家での日常については、こちらも参照下さい。

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