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きどう散歩 足跡をたづねて

岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。

ご案内

その1
 1.本郷・春木座 (のち、本郷座)  綺堂少年、芝居修行の地
 2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺とその前の借家

その2: (このページ)
 3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門
 4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水

その3
 5.高輪・東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地

 6.雑司が谷・鬼子母神稲荷ほか (以下は作成予定)




3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門

motozo27.jpg写ってはいないが、写真右手が麹町小学校で、現在は工事中のようだった(2000年秋頃)。現・麹町2丁目10番地あたりで、画面中央の白いマンションのある辺りが綺堂宅があったところと思われる。当時の地名で、元園町1丁目27番地。守田勘弥、川上音二郎、市川左団次、お弟子さんたちが訪れた。奥の方の建物の向こう側が半蔵門・麹町通になる。自宅前の道路は手前にかけて緩やかにスロープになっている。

江戸の頃は、薬園で、のちに馬場(調練場)となって、ほぼ草地であったところである。綺堂が住んだ明治初めの頃も、草原で、蛇、狐、兎が出たとある。明治18−9年頃までは、1丁目19番地の角には、名物の汁粉と牡丹餅を出す、おてつ茶屋があったらしい。昭和になって、「元園町」の名前が消えたので、未練はなくなったとして、上目黒に転居した。近くの某会館の庭先の古木の枝振りよりほかに昔をしのぶといったよすがもない。

明治の番町学校の絵(平出・東京風俗誌より、洗耳による)
明治時代の麹町付近の地図とその頃の綺堂の生活空間についてはこちらも参照下さい。

麹町を舞台にした作品には、「村井長庵」や随筆でも、「湯屋」や三遊亭円朝の寄席に出かけたことを書いたものがある。

ついでに、英国大使館(旧英国公使館)を廻って、半蔵門の前に出る。

kosikan1.jpg今は通りの両サイドはホテルになっているが、ちょっと入り組んだ変則な路地は昔の地図のままで、現・英国大使館前に、といっても裏手のようだが、出る。ユニオン・ジャックが翻っている。綺堂も少年の頃から、この付近で遊んだり、凧上げをしたりしているので、毎日のようにこの風景を眺めていたに違いない。一人で、あるいは弟子の、額田六福さんたちと散歩した場所でもある。大使館の周りは一種懐かしいような、そんな気がする。

麹町の大通りの方へ右折して、半蔵門前に出る。堀端にそって緩やかにカーヴし、下り坂になっている三宅坂を望むことができる。今は車が轟音を立てて走る幹線道路に過ぎないが、三宅坂は、綺堂が銀座の新聞社までほとんど毎日のように通ったところである。やまと新聞社時代には、やはり番町に住んでいた、若い永井荷風と肩を並べて、新聞社を往きかえりしたこともあった。綺堂は寡黙であったと書いている。

この辺りを何度もぐるぐる廻って歩いているので、麹町の喫茶だったか、総菜屋だったか、ウインドウの中で店の準備をしているお姉さんと何度か目が合ってしまった。生来の方向感覚が悪いため、地図を持っていても反対に行ってしまう。

【交通】地下鉄半蔵門駅で降りるとすぐ。15−20分ほどで廻れる。



4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水

平河神社は、綺堂の自宅からも近いので、夏祭りには、家族も出かけた。大きな石の碑がある。鉄の鳥居もあるが、古いものらしい。もうビルの間に、この神社の空間があり、空が望めて、開けているという風情である。社の周りの石塀に寄進者名を刻んだのが懐かしい。子どもの声がする。綺堂は、このほんの先の平河小学校に通った。若い二人が神社を背景に写真に撮っていたが、どのような理由なのかはわからない。

綺堂は、この辺りも作品にしている。この近くの魚屋が登場する、半七捕物帳の「吉良の脇指」である。

   「麹町の平河天神前に笹川という魚屋がある。……」

また、歌舞伎作品では『村井長庵』がある。

hirakawa.jpg地下鉄の出口から麹町の大通を後ろに、平河町の方へ歩き出すと、やはり緩やかだが下り坂になっている。麹町あたりは台地なのだろう。平河町といえば、樋口一葉で有名な……と云った方がよい、半井桃水の居宅もあった。

小説家半井冽(桃水)の、平河町の家は実は2ヶ所あり、一つが隠れ家だという。おそらく、執筆したり、個人的な生活をするための家だったのだろう。一つは、一葉の日記から住所を拾うと、「麹町平川(ママ)町3丁目15番地」とある(「につ記」明治25年2月9日付。出典、『一葉全集』第3巻(1954年、筑摩書房)ただし、同4版・1955年版による)。これがどちらの方かはわからない。贅沢といえば贅沢である。ただし、森まゆみ『一葉の四季』(2001、岩波新書)30頁は、「麹町区平河町2丁目2番地と15番地」としている。また、15番地の方を「隠れ家」としている。2丁目か3丁目か?一葉の誤記なのか、説明がほしいところである。
    注記: 前田愛編『全集樋口一葉』3巻日記篇(1979・小学館)62−63頁では、注として「小田久太郎宅」とあり、「平河町2丁目15は小田の持家」としている。やはり「2丁目」説である。(追記 6/16/2001)
     塩田良平『樋口一葉研究』(中央公論社、1956年)309頁では「平河町は三丁目二番地、一丁ばかり手前のうら屋といふは十五番地である。……」として、「三丁目」説である。「うら屋」は隠れ家の方を指すものであろう。
     微照庵さん(下掲)からは、古い資料には2丁目と3丁目を誤記した可能性があるのではとの示唆をいただいた。そうかも知れないとも思うが、塩田氏などの研究は、第一次資料の日記や書簡をベースにしているとも考えられるので、疑問は解けないでいる。日記や書簡の写真でも閲覧できれば一挙に解決だろうが。
    なお、小田久太郎は、半井桃水の弟子で、「果園」とも称した。(追記 7/06/2001)
当時の地図(ただし、明治19年作製)で見ると(現在もほぼそうなのだが)、平河天神(1丁目)の裏手が平河2丁目、さらにその奥、紀尾井町と接しているのが3丁目ということになる。

30回以上も会っているという(前記・森まゆみ)うちのいずれかは知らないが、樋口一葉は恋人、桃水に会うために隠れ家の方を訪れた。その日は、明治25年2月4日である。主はまだ眠っており、一葉は起こさないように襖の外で息を潜めて待っている……。
    「ふすまの際に寄りて耳そばだつれば、まだ睡りておはすなるべし。いびきの声かすかに聞こゆる様なり」

ちょっと艶(なまめ)かしいのですが……。一葉は、帰りは人車で本郷菊坂まで送られている。一葉にとってはこれはこれで贅沢なことといってよい。

そんな、逢瀬の往き帰りに、平河町で、あるいは麹町の大通りで、一葉が綺堂青年と出会わなかった保証はない。絵の修行をしている友達の鏑木清方が、最近気に入っているといっている女流作家でもある。のちに清方は「一葉女史の墓」と題するイメージ画まで描いている。そんな友人の話から、綺堂も一葉女史の面影や話を聞いてもいただろう、と(強引に)推測する。

    * * *
すこし坂になった平河町の小路から人車が女を乗せて出てきた。
「おや、今時分、誰だろう。」
島田に結った黒髪、若い女にしては地味な着物、頭巾をかぶり、肩掛けで覆われているが、丸いような顔に細顎……。
ここらでは見かけないようだが、女は、降る雪にすこしうつむき加減だった。どこかで見たような、そんな旧式の感じの様子だった。
「樋口夏子、一葉かもしれない……。」
新聞社帰りの綺堂は、そうつぶやいた。桃水も東京朝日新聞の記者で新聞小説を書いている、いわば先輩の同業者であった。

いつぞやか、本郷の春木座へ行く途中、やはりそれらしき女とすれ違ったことがある。近くの文房具屋から出てきたらしかった女と似ているように思われた。

春まだ浅き堀端を、人車は急いでいるようだった。しだいに、夕闇に黒い小さな影となってゆく。


    * * *
――という光景がなかったとはいえませんね。

一葉も、平河天神社の前や横を、桃水との恋の期待に満ちて、あるいは、借金のことをどう切りだそうかと考えて、通りすぎたに違いないのである。

    樋口一葉の関連リンク:
    ・「微照庵」さんの樋口一葉研究と一葉日記の抜粋がある
    ・作家でもある杉山武子さんの「文学夢街道」 一葉研究本『夢とうつせみ』(一部公開)、「オンライン評伝―樋口一葉の十二ヶ月」などが詳しい。桃水の平河町の「隠れ家」の秘密が明らかにされている
【交通】地下鉄半蔵門駅で降りるとすぐ。国立劇場の反対側。


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