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きどう散歩 足跡をたづねて

岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。

ご案内

その1
 1.本郷・春木座 (のち、本郷座)  綺堂少年、芝居修行の地
 2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺とその前の借家

その2
 3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門
 4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水

その3: (このページ)
 5.高輪 東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地
 6.浅草、三囲神社
  (以下は作成予定)




5.高輪 東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地

 【交通】高輪の東禅寺は臨済宗の禅寺という。品川駅より徒歩10分ほど。高輪3丁目の表示がある。

文久元(1861)年(明治維新まであと7年) 水戸浪士ら、東禅寺の襲撃

高輪・東禅寺には、英国公使館が置かれていた(麻布・善福寺に米国公使館など)。その当時の公使がオールコックである。英国公使オールコックは、1858年(安政5)に初代の駐日総領事、翌年初代の公使となった。

オールコック一行は、1858年5月上旬、富士山登山をした後、同月28日(旧暦)江戸へ帰り、公使館である東禅寺に入った。福地源一郎は幕府の外国方として東禅寺に前日から詰めていた。外国方の詰所は、本館から40間ばかり離れた中門内右側の塔中にあった。むろん幕府の警衛を勤める別手組20数人が中門内外を警備していた。この他、一説によると郡山・西尾両藩役200名も警備にあたっていたという(武田勝蔵・風呂と湯の話(1967、塙新書)197頁)。後述のワーグマンの絵によると滑腔式の軍用長身銃であるマスケット銃(musket)を装備しているようである。厳重な警護といってよい。

夜十時過ぎ、騒ぎが起こり、水戸・攘夷党のローシの討ち入りであることが分かった。兇徒10数名は討ち取られたり、後に刑に処せられた。公使関係者のうち、モリソン長崎領事は軽傷、オリファン氏が重傷を負ったとある(「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース1861年10月12日号、金井円編描かれた幕末明治(訂正2刷・1974、雄松堂書店)70頁)。公使オールコックは、寺の風呂場の風呂桶の中に隠れて、難を逃れたという(武田・前掲書197頁)。また、たまたまここに詰めていた、特派画家兼通信員のチャール・ワーグマンも、本堂の床下に隠れて戦闘を見ていた。このときの素描がいくつか残っている。浪士の方は、ワーグマンの記述によると、5人死亡、7人重傷、翌日品川で3人自殺とある。

刀傷や銃弾の跡のついた鴨居や柱は今日でも見ることが出来るというが、未確認。この英国公使館の書記として勤務していたのがアーネスト・サトウである。後に英国公使として赴任するのだが、この時はまだだが日本人妻と子があった。サトウはこの第1回東善寺襲撃が1861年7月(太陽暦)と手短に記している(サトウ・一外交官の見た明治維新・上(岩波文庫)76頁)。



福地源一郎(桜痴居士)、生首にたじろぐ!

別手組の一人が、福地源一郎のいる詰所に、血刀を下げ、生首を縁側に置いて、

 「何の某なり敵を討取たり、一番首の高名御記して下さるべし」

と息せき切り、口上した。
源一郎、「此時二十歳、生まれて初めて人間の生首を見て実に驚愕して為すべき所を知らず、御主任早く御請取下されよ」と先方に改めて言われて、やっとのことで生首を受け取ったのは「我ながら恥しき次第にてありき。」
(いずれも、桜痴居士 福地源一郎「懐往事談」(原作は、明治27年3月)柳田泉編『福地桜痴集』(明治文学全集11、昭和41年、筑摩書房)284頁より))

現在の東禅寺の門(左)と幕末の頃の東禅寺(右)
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左図では中門と思われる左右はすでに人家になっており、かつては寺内だったと思われる。福地源一郎がいた外国方の詰所や警護の詰所などはない。左右の仁王像が印象的だ。英国公使館だった旨の表示が右側の石柱にある。 右図では山門が聳えて存在しているが、現在は失われているようだ。左手に警備の侍3名がおり、寺の周囲は警備のため竹矢来で囲んである。右手の平屋が警備の屯所のようだ。外国方のはこの山門の奥にあったと思われる。

なお、この後、御殿山に英国公使館が建築されるが、ほどなく焼討ちにあって焼失した。1863(文久2)年12月12日(太陽暦1月31日)の夜である。長州の井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)らによる。後の外相、総理大臣である。この頃も、今でいう相次ぐテロであったようだ。

1864(元治元)年の8月、オールコックは、フランス、アメリカ、オランダの3国の代表とともに四国連合艦隊による下関遠征を企て、攘夷の急先鋒であった長州藩を武力によって屈服させた。いわゆる馬関戦争である。「大君の都 TheCapital of the Tycoon」(1863)の著書がある。



綺堂の父、品川に遊び、後に英国公使館勤務

岡本綺堂の父、武田敬之助は、奥州二本松の藩士武田芳忠の3男であった。江戸藩邸へ出て、御家人岡本家(百二十石取)と養子縁組したのか、株を買ったのかわからないが、岡本の姓を名乗る。

敬之助の妻、つまり綺堂の母幾野(きの、弘化3年生まれ)は、芝の商家の出で、三田の薩摩藩や永田町の二本松藩邸などで御殿女中を勤めた経験がある。当時の教育といってよい。その縁で知合った、ないしは紹介されたものと思われる。結婚は文久・元治の頃で、敬之助30前後、幾野18、9歳であったろうという。

慶応4年(明治元年)5月15日、上野の戦で敗れた岡本敬之助は、彰義隊の戦に参加した。壊走して、奥州白河で戦うも負傷。郷里二本松藩も近いが、江戸へ戻った。敗残兵であるから、官軍の目をかいくぐっての帰京でなければならなかった。横浜に潜伏していたようだ(恩赦令は明治3年1月、賊名が赦される)。

慶応3年、英国公使としてパークスが来日した。東禅寺の公使館を嫌って、幕府に対して泉岳寺前に公使館の新築を要請した。そこに2棟の平屋が完成して、これが英国公使館になった。この泉岳寺前の公使館に勤務したのが、岡本敬之助であった。

岡本敬之助は、神奈川の英国商人のブラウンの紹介で、英国公使館に日本語書記(ジャパニーズライター)として勤務することになったのであった。なおサトウとブラウンは知り合いでもあった(サトウ・74頁)。英語の分からない日本人を雇うのは考えにくいことだが、かえって英語を分からないことが都合がよかったようだ。

勤務に便利なように、住居を「泉岳寺ほとり」に置いた。江戸の与力高井蘭山の住居を賃借したものという。蘭山の家がどこにあったものか分かればよいが、残念ながら現在のところ突き止められなかった。港区の案内表示にもないようだ。誰か教えてくだされ。
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この家で、明治3年には長女、つまり綺堂の姉の梅が生まれる。ついで明治5年、敬二(綺堂)が生まれた。
明治6年の6月下旬、昼間寝かされていた赤ん坊の綺堂の枕もとまで黄てんが縁側から入って来たという逸話も伝えられている。また、綺堂の作品「穴」には、姉や父母から聞いた不思議な話が描かれている。後ろが崖、高台になっており、前庭の方は広かったらしい。この辺りも当時は寂しい所であったし、官軍入都後は、武家屋敷など持ち主は逃げたりして、荒廃していたようだ。明治6年、英国公使館が牛込・飯田町移転するまで、ここに住んだという。

当時、品川は色街でも有名な宿場町でもあった。さらにちょっとその昔、安政2(1855)年、父純(きよし、幕府瓦解後改名)はときどきはこちらへも遊びに行っていたようだ。父から聴いた話しとして、7月10日過ぎの蒸し暑い夜10時頃、右手には八ッ山の暗い山陰、左手には凪いだ品川の黒い海、父が高輪から品川の浜をとぼとぼと詩吟を謳いながら帰っていると、若い女に出会った。幼子を背負っていたが、その小さな手には盆提灯が握られていた。追い抜かれざま見ると、若い女の顔は、のつぺらぼう、だった!女と幼子は品川の方へ消えていった。翌朝、品川の浜に女の死体が引き上げられた……。

    * * *
綺堂少年は父に向って、「まじっーすか?!」 
父 「そうだ」 
綺堂少年 「それにしても、なんでまた、そんな時分に品川の方へ行っていなすッたんで?」
父 「う、うん、まあ……。」

父純(きよし)は二重の罪の苦しみの中にあった。一つは、武家の出でもあるにかかわらず、怪談めいた話をして聞かせていることは子どもの体面上よろしくない。二つ目の大罪は、若い頃の話とはいえ、品川女郎衆の所へ遊びに出かけたことを図らずも自白してしまったことだ。梅や敬二(綺堂の本名)それに妻の前で、だ。指紋なんか採られてなくてよかったよ(何だかどこかにもあったような……)。それにしても、綾菊は可愛かったな……。

母 「おとうちゃんたら、いややわ(夜話)!」


と関西弁やら現代弁で答えたかどうかは怪しいです(笑)。駄洒落はこれくらいにして。
    * * *
「その時親爺(おやぢ)は何処へ行く心組(つもり)であつたのか、この話を聞いたとき、尋ねてみましたが、言葉を濁して語らなかつたところをみますと多分品川あたりへ遊びにでも行く途中だつたのでせうが……」(岡本綺堂「綺堂夜話」文芸倶楽部1928年9月5日号99頁)
それにしても、そつがないですね、綺堂少年。

明治6年、綺堂一家は、英国公使館の麹町飯田町への移転に伴ない、飯田町二合半坂(綺堂のによると「牛込の中坂俗に二合半坂」)の旗本屋敷あとへと引っ越す。この町では、幼い綺堂が街で行方不明になって、翌日早朝には、30歳前後の羽織袴の男に手を引かれているのが発見され、連れ帰ったという話も、真偽は分からないがある(岡本経一「補遺」、岡本綺堂「明治劇談 ランプの下にて」305頁(昭和40年、青蛙房))。

明治8年秋、英国公使館は麹町5番町の旧大名屋敷跡地に移転、新築された。それに伴い、岡本一家も麹町元園町へ移転した。




6.浅草、向島三囲神社ほか
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歩いていると、ウオーキングの出で立ちの女性グループと出くわす。この辺りは今も散策路なのである。カメラを提げ、三脚をリュックに入れた男性の一団とも遭った。女性のグループはやや緩やかに、男性グループはややせっかちな歩き方が印象的だった。

浅草は綺堂の作品にもよく出てくる。まずは、半七老人と青年新聞記者の出会いを描いて、半七捕物帳のいきさつを説明する「半七紹介状」がある。浅草・岡田で出会う。この日、二人はよく歩いて、よく食している。

向島、三囲(みめぐり)神社は、大川の際、つまり墨提のほとりにある。黙阿弥の有名な「三人吉三」のうち大川端の段では、お嬢吉三がこの大川端で、通りがかりの女に聞いた行き先が小梅である。小梅という地名の町を過ぎて、すぐが三囲神社である。

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向こうから、半七老人と記者の青年が、ひょいと出てきそうな三囲神社内の門
江戸の風情を感じさせるようなさびがある。また、ここは句碑が多くある。


この三囲神社は、近松の「お染久松」の江戸版ともいえる歌舞伎、鶴屋南北作の「道行浮塒鴎(みちゆきうきねのともどり)」の舞台ともなっている。実はこの芝居があることがわかってやっと、綺堂のつぎの作品の流れがわかった。綺堂は三囲神社とお染とを、この芝居の話から結び付けているのである。どうしてお染めかぜと名付けられたのかはわからなかったが、大阪の近松の、お染久松の芝居が江戸でも人気があったぐらいにしか考えていなかったのだ。江戸では三囲神社とお染とは因縁が深いのであった。

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左の写真は、今戸からこの三囲神社下に通う渡舟で、竹屋の渡と呼ばれたところ。手前に屋形船と大川の中に渡し舟が幾艘か見える。明治20年代に描かれた新聞(東京朝日新聞)挿絵の竹屋の渡はこちら(KB)。猪牙舟(?)あたりで夜陰に逃げる絵のようである。

綺堂の作品の「お染風」には、再び三囲神社はつぎのような形で登場する。叔父の武田悌吾と少年綺堂とがやはりこの辺り・梅屋敷に出かけてきたとき、三囲神社の近くの農家の娘が「久松留守」というおんな文字で張り紙をしているところを実際に見たらしい。「久松留守」の張り紙こそ、今でいうインフルエンザの予防のためのまじないだったのである。「お染かぜ」と言い習わされている流行風邪が蔓延しているので、お染が惚れた久松がいないということにしておけば、風邪に罹るのを予防できるという信仰である。いまでいうと、まあマスクをしているようなものでしょうかね。はやり風邪にお染と名づけるセンスを綺堂は感心している。そして、風邪よけに「久松留守」と書く文化・教養である。この話は、明治23、4年頃としている。父と何の用だったのかはわからないが、府立一中卒業か東京日日新聞社入社の頃である。

ほんとうにお染風邪と呼ばれていたかの調査については、こちら(「綺堂作品紀聞 その2」)を参照。



荷風の宮戸座、三囲神社

また、この辺りで、夏、通りがかりの路から人家の庭先で婦人の水浴をのぞいているのは、永井荷風の小説「すみだ川」(明治42年作)に出てくる俳諧師の松風庵蘿月(らげつ)である。

    「掘割づたいに曳船通から直ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先の分からないほど迂回した小径が三囲稲荷の横手を巡って土手へと通じている。……いかにも田舎らしい茅葺の人家のまばらに立ちつづけている処もある。それらの家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見えることもあった。蘿月宗匠はいくら年をとっても昔の気質は変わらないので見て見ぬように窃(そつ)と立ち止まるが、大概はぞっとしない女房ばかりなので、落胆したようにそのまま歩調(あゆみ)を早める。」

しかし、いつも裏切られるらしく、若い美人の女の沐浴場面に出くわさなかったようだ。水浴というのが夏の風物詩でありえた頃の話である。

蘿月を叔父に、母を常磐津の師匠に持つ中学生の長吉は、幼馴染でいまは芸妓になったお糸に恋心をいだいているが、ある時、小芝居の宮戸座へ芝居を見に出かけた。黙阿弥作の「十六夜清心」である。

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     「しばし佇む上手より梅見返りの舟の唄。忍ぶなら忍ぶなら闇の夜はお置かしやんせ」 「……去年の夏の末、お糸を葭町(よしちよう)へ送るため、待合(まちあわ)した今戸の橋から眺めた彼(あ)の大きな円い円い月を思い出すと、もう舞台は舞台でなくなった。」

    「着流し散髪の男がいかにも思いやつれた風で足許危く歩み出る。女と摺れちがいに顔を見合して、
    「十六夜か。」
    「清心さまか。」
    女は男に縋(すが)って、「逢ひたかつたわいなア。」
    見物人が「やア御両人。」「よいしょ。やけます。」なぞと叫ぶ。笑う声。「静かにしろい。」と叱りつける熱情家もあった。」

一種の劇中劇である。当時の小芝居の雰囲気がなんとなく偲べると思いませんか。「待ち合わせた」ではなく、「した」なんですね。私、清十郎さまはまだ冬の今戸橋を独りで渡ったのでした。出合ったのは、黒いゴールデンレトリバーとその飼い主である婦人だけでした。大川の水は眺めるとちょっと恐い感じですね。

さくら餅でも有名な長命寺には成島柳北の碑があるが、荷風先生は、柳北に私淑していたらしい。この長命寺までしばしば散歩したという。

この後、私の方は、白髭神社まで行くつもりが、道を間違えたらしい。行きつ戻りつ、あきらめた。地図を持っていないのである。案内板があるかなぁと期待したが。このつぎに、廻しましょう。

宮戸座跡:http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/miyatoza.html


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