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きどう散歩 足跡をたづねて

岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。

ご案内

その1
 1.本郷・春木座 (のち、本郷座)  綺堂少年、芝居修行の地
 2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺とその前の借家

その2
 3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門
 4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水

その3
 5.高輪 東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地
 6.浅草、三囲神社

その4: (このページ)
 7.新富町・新富座
 8.築地・築地小劇場

(以下は作成予定)




7.新富町 新富座 築地 築地小劇場

【交通】地下鉄有楽町線、新富町駅下車1分。築地橋を渡らずに、左折すると、向かい側に白っぽい四角のビルがあり、そこが京橋税務署である。ここが新富座の跡地である。

sintomi1.jpg<図>新富座跡地の京橋税務署と新富座跡地の案内板

京橋税務署になっているということは、ここが国有地であろうし、守田勘弥の新富座が立ち行かなくなった明治中期に、差し押さえでもされたのであろうか。どのような経緯で国有地になったかは興味がある。

それは閑話休題(さておき)。

<図>shintomicho02b.jpg明治19年の地図

築地川・掘割があり、まだ埋め立てられていない。火災や震災の後の瓦礫で埋めたという。
図の中の緑の線は、荷風の明治41年頃の電車路線を示す。赤い印を付けた所が新富座、オレンジ色の印が歌舞伎座、紫色の印が、築地小劇場のあったところ。

 永井荷風は、四谷見付から築地両国行の市外電車に乗ったときの随筆・紀行文「深川の唄」の中で、つぎのように嘆いている。

年の暮れの街の中を、銀座4丁目、歌舞伎座前と過ぎて、築地川と呼ばれる掘割にかかる祝橋を越える。と、左折して築地の瓦の家並みを抜けて、築地橋を渡る。

「 折もよく海鼠壁(なまこかべ)の芝居小屋を過ぎる。しかるに車掌が何事ぞ、
 「スントミ町。」と発音した。
  …   …   …
 電車は桜橋を渡った。掘割は以前のよりもずッと広く、……」


(『すみだ川・新橋夜話』(岩波文庫、1987・第1刷)17頁)

これは明治41年12月の風景である。東北訛のある車掌の声はつぎのように聞こえたのではないか。都市は変化するものだが、この時期あるいはずっと早く明治の初め頃から東京の周囲から、多くの人口流入があり、東京とそのコアをなす”江戸”もすっかり、あるいは徐々に変わり果てようとしていたのである。そのように荷風には聞こえた、といってよいだろう。

なまこ壁の新富町の前を電車は走っていたのである。当時の電車経路図によると、掘割があったので、電車はこの掘割にかかる築地橋を渡って新富町に入ってきたのである。電停は、新富町6丁目と3丁目との交差点あたりにあった。なお、現在の築地橋は空橋で、陸橋のようになっている。

この新富座は、守田勘弥の持座であり、新時代を風靡した、明治歌舞伎の黄金期の一時期を席巻した名座といえる。明治5(1872)年、それまでの江戸三座の故郷、浅草猿若町の旧森田座から、より便利な土地を求めて、京橋区新富町6丁目9番に移転して、75年に新富座と改称した。類焼の後、仮小屋で開場したが、1878年6月に本建築がなり、開場した。明治前・中期の日本を代表する劇場となり、「新富座時代」ともいうべき時代を築いた。洋の鹿鳴館に対して、和の文明開化の社交場を志向した。その後、負債のため座主名義の変更や座主の交代があり、猿若座、桐座、深野座、都座などと座名も変わった。1897年に新富座に復名した。ここにこそ団十郎が、菊五郎が、左団次が集い、開化はしてもなおどこかに東京=江戸の余韻の残る庶民の熱気が昇華して、江戸歌舞伎の最後の花が開いたのである。

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なめこ壁の外観、紫色のはっぴの出方ら。まだ電車は通っていない頃の様子と思われる。内部様子と席。猿若座とあるも新富座が名を借りたもののようだ。また上部には明治15年(1882)年6月とある。


明治22年11月、木挽町の歌舞伎座の開場とともに衰退していった。守田も失意であったろう。1923年に関東大震災で焼失した。


8.築地 築地小劇場

【交通】地下鉄新富町駅を出て、すぐ右手の築地橋という空橋を渡ると、道路の左手に望める第一勧業銀行築地支店の裏手、NTT○○のところに記念碑が建っている。築地本願寺の方から出かけると、その交差点を過ぎて、左側にあるスターバックスの角(築地2丁目12)の小路を左折すると中ほど右手にある。

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小劇場の跡地を示すレリーフがある。この劇場の名は日本史で習ったくらいである。

長谷川時雨は日本橋生まれで、またほぼ同年代の市川左団次(2世)の幼い時のことをつぎのように書いている。

2世左団次、若い頃は芝居が下手だったらしい。
「少年時代の彼はへたくそ――だが、一体に少年期に大成するものは、早くのびが縮まるようだ。……自分でも少々悲観していたのをしっている。舞台へ出るときまりわるがって、うつむいて、モゾモゾとものを言う。まっすぐに述べてしまうとまっすぐにひっこんでゆく――見物は気の毒そうな顔をする。」

そこで、やはり「舞台では睨みのきく眼が、慈眼というように柔和になって……そのころの、あまりこすくない銀行頭取の面影をもった」父の初代左団次は、息子を銀行家にするつもりであったらしい。(引用はいずれも、長谷川時雨「旧聞日本橋」323頁。)

2世左団次は、先代のときからの演劇指南役であった、元新聞記者で劇作家でもある松居松葉とともに、明治39年から1年ばかり西洋演劇研究・修行のために渡欧する。父の初代左団次から受け継いだ明治座の興行がうまく行かず、左前になった後の起死回生の一手だったと言ってもよい。座主が一年あまりも持ち座を空けるというのも異常といえば異常であったろう。それほどに逼迫した状況だったと言ってよい。渡欧計画が、どちらから、あるいは川上音二郎あたりから、持ち出されたものかはわからない。

帰朝後の第1回興行は、左団次、松居、岡鬼太郎らが綿密に計画するも、歌舞伎興行の大胆な改革を伴なっていたために、妨害もあって、失敗。不運は重なる。この左団次ブレーンと川上音二郎との間に何があったかは知らないが、川上が彼等の困窮を見かねたか、救済に乗り出す。左団次らが書生芝居の川上を基本的に嫌っていることは然りである。また、川上の提案に乗ったとしても、旧劇から左団次が身を売ったと非難されても致し方ない状況であった。何度か述べるように、川上は、東京日日新聞社の記者であって、やはり基本的には川上とその芝居を軽蔑していた、岡本綺堂の自宅へと人車を急がせることになる。左団次と綺堂連携の直接のきっかけを作り出したのは、川上音二郎であった。

左団次は、演劇好きだったらしく、旧劇の歌舞伎は、松居、岡、そして岡本綺堂とともに進めて行った。新劇というか西洋劇をこちらの築地小劇場で、小山内薫とタイアップして行った。さぞや多忙を極めたことと思う。新しい芝居・演劇の実験工場といえたのだろうか。その背後には新しく流入した人達、旧劇には飽き足らぬ新しい東京の人達の存在があったのだろう。

9.(以下は作成予定)



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