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きどう散歩 足跡をたづねて

岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。

ご案内

その1
 1.本郷・春木座 (のち、本郷座)  綺堂少年、芝居修行の地
 2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺とその前の借家

その2
 3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門
 4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水

その3
 5.高輪 東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地
 6.浅草、三囲神社

その4
 7.新富町・新富座
 8.築地・築地小劇場

その5: (このページ) new !
 9.博多 川上音二郎の生誕地
 10.猿若町(芝居三座)と宮戸座
 11.(以下は作成予定)




9.博多 川上音二郎の生誕地

【交通】福岡市の地下鉄中洲川端駅で降りると、博多座がある。その博多座の横をすり抜けて北へ、海(むろん見えない)の方へ行く。昭和通りの大きな通りを越えるとすぐで、地下鉄から4ー5分で沖浜稲荷神社。

中対馬小路

hakata-m10b.jpg 博多座の角を抜けて、海の方へつまり北の方へ行くと、大きな昭和通がある。これを越えたところが、現在の古門戸町である。やはり、そのまま北へまっすぐしばらく歩くと、右手に沖浜稲荷神社があった。奥に神社があった。左手に川上音二郎生誕の地の大きな碑があり、右手には旧対馬小路という石標があった。生家跡は、現在、福岡市博多区古門戸町3−7、かつては「福岡区中対馬小路37番地」である。博多山笠の夏祭りが行われる地区の一つである。

 左は明治10年頃の博多の地図であるが、右の赤い印を付けたところに「中対馬小路」の地名が見える。左手下の赤い点あたりの通りが、福岡市の中心・繁華街「天神の町」(「天神ノ丁」と記されている)である。現在は天神と短縮で呼ばれるが、土地の古い人は「天神の(町)丁(ちょう)」と呼んでいた。

川上音二郎(1864、文久4年生まれ)が博多とは何か関係があるらしいとはうすうす聞いてはいたが、直接に結びつけて考えたことはなかった。何度か博多・福岡を訪れたことはあったが、玄洋社だとか中野正剛だとか政治関係の話が多かった。博多は黒田藩なので、私のわずかな幕末・明治維新の視野からもほとんど外れていた。博多湾に浮かぶ小島に流されていた野村望東尼くらいであろうか。むろん、川上のかの字も聞いたことはなかった。彼はすぐ隣にいたのであった。

博多ッ子と呼ばれる人たち、とくに男性は気風がいいということである。物事にこだわらない、天性の陽気さと物怖じせず行動する勇気を持った人たちとでも言うべきだろうか。一般に、九州の人たちは昔からそうらしいが、とにかく元気が良い。ややステレオタイプといえば言えるが、小説や漫画の作品にもそのような性格を持った人物として描かれる。川上音二郎の略歴を少し読むと、やはりそんな気にもなる。東京へ東上する前の、小田原や横浜での土地の壮士らとの争闘に及ぶいきさつは、彼の気分やその当時の書生たちの行動のありようをとくに示しているように思われる。

対馬藩の屋敷がここにあった関係で、対馬小路(つま しょうじ)と呼んだらしい。町名変更で、この名は上の石標と古い地図や記憶の中にしかないのだろう。川上の実家は、問屋を営んでおり、比較的裕福であった。父親はご多分に漏れず、博多ッ子で、近くの中洲で遊んだらしい。また、博多で所演した時以来の、市川権十郎のちの9世団十郎の贔屓であったという。このラインが、新派の音二郎が東上した時に、団十郎を後に結び付ける機縁にもなった。

ここは中洲にも、そしてその横を流れる那珂川とも、そして那珂川が流れ込む博多湾にも近い。歩いてもほんの4―5分である。沖につけた船から、小舟が出て船から荷を下ろしたのが、那珂川岸の船だまりではなかったかと思う。今も問屋街といった町の印象に近いようだが、荷役人の姿や声はなく、人通りも少ない。博多にいる大勢の人たちの眼もこちらには向かない、南隣の中洲のネオンに向いている。私も、久しぶりで中洲の博多弁の、綺麗なお姉さんたちと盛り上がって、知人とともにトークショウだった。


生誕地跡の顕彰碑

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 生誕地跡の旧対馬小路
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「新演劇祖 川上音二郎」の碑文
斜め向かいにも、黒田神社という無人の社があり、わずかにさびている。見渡したところ、この辺りの建物に古いものがないのは、戦災で焼失したものが多かったためではないか。
櫛田神社に大きな碑があるそうだが、日没のため、出向かなかった。

川上音二郎は、密航する。密航して博多を飛び出したのである。前年に母を亡くし、翌明治10年、西南の役の軍隊を目撃した、この年である。時に14歳。

余談だが、川上音二郎といえば、泉岳寺の首洗い井戸の石柱に、その名が刻んであったように思う。彼が寄進したものだろう。

自由童子

jiyudoji.gif 東京、芝・増上寺、そこへ来ていた、福沢諭吉と出会う。書生(塾僕)として寄宿舎に入れてもらうが、関西・京都へ向かう。京都で巡査となる。これも辞して、大阪の落語家の桂門下に入門、自由亭○○(まるまる)と名乗る。自由党の機関紙の発行に携わる。

成島柳北の「朝野新聞」には、つぎのような記事が見える。逮捕歴など160回を超えるとかいう。
















オッぺケーペー節

川上といえばこれだが、オッぺケーペー節を愚劣と評する者は多いようである。演劇史などを読んでいると、実際軽蔑的に書いていある。たとえば、

 「愚劣なものであるが、これに拍手を送つた当時の政治思想、当時の民衆の幼稚さも推察するに難くない。かやうにして演劇といふよりも、川上自身が命名したやうに最初は「書生仁輪加」として、横浜から東京へあらはれたが、首尾よく失敗したので、一旦大阪に舞戻り、同志を募つて「書生芝居」と銘打つに至つた。……」毎日新聞社編・明治大正史X芸術編150頁(土岐善麿編著、1931.2)

オッペケペー節と河上革新劇については こちらを参照

私にはそうは思えない。今でも当てはまりそうな意味内容である。いかにもバタ臭い、舶来っぽいところが、旧劇系には嫌われたのかも知れない。多少あざとい歌詞ではあるが、明治の時代の一面を切りとっているのではないかと感じられる。

岡本綺堂はつぎのように観ている、

  「もう一つ、この一座の賣物は、座長の川上音二郎が舞臺でオツペケペー節を唄ふことであつた。即ち舞臺には金屏風を立て廻し、川上は黒木綿の筒袖に、木綿の袴をはいて、陣羽織をつけ、白のうしろ卷をして敷皮の上に坐り、大きい陣扇をかざして唄ふのである。唄の文句は時事を主題としたもので、國會が開けたから國民も奮起しろと云うやうなことを述べ、唄の最後にオツペケペツポーポーといふ。これも勿論、幼稚な非藝術的なものであるが、觀客は譯も無しに喝采した。」
  (岡本綺堂「綺堂一夕話 ―歌舞伎と新派と―」「新潮」昭和9年1月1日(第31年1)号103−111頁)

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上図 豊原国周筆、明治27(1894)年頃刊

川上音二郎、博多の人、苛烈に生きた、風雲児というよりほかはない。あれほど川上を嫌っていた岡本綺堂も彼の勇気と行動力には舌を巻いているのである。当時、新聞記者であった岡本綺堂を劇作家としてデビューさせたのは、川上である。

 なお、綺堂と音二郎や明治座の左団次との関係については別に触れたのでこちら(「綺堂の師たち」)を参照

市川左団次(2世)や明治座の起死回生の、川上革新劇旗揚げやその後の地方興行のときに、川上は、まめに手紙や葉書を綺堂のもとへ送ってきたとある。彼の繊細な一面とも思える。

演劇改良にも力があった。観劇の弊風を改めるなど、旧劇ではできない改革をやってのけた。また、興行師としての才覚にも見るべきものがあるように思われる。

やや好人物過ぎるほどに描いてしまったかも知れないが、川上の数度に渡る洋行や妻でもある貞奴についてはほとんど触れなかった。いずれ機会があれば調べたい。

川上音二郎関連リンク

  (準備中)
 ・現代でもオッペケペー節が聴ける:


10.猿若町(芝居三座)と宮戸座

猿若町 昔、歌舞伎の震源地

【交通】浅草松屋前の6号線という墨田川沿いの通を言問橋まで行き、この大きな言問通を渡ると、浅草6丁目5−1、つまり右から2つ目の小路、が目的地。
あるいは、浅草雷門前の通りである馬道(通)をしばらく行き、言問通の交差点に突き当り、言問橋の方へ(つまり右へ)4つ目の小路が目的地。いずれも松屋前から10分前後。

入ると問屋街のようなたたずまい。アパートなんかもある。私が立っているこの通りというか小路が、猿若町のメインストリートで、江戸時代に浮世絵にまで描かれたとはとても思えない雰囲気である。言問通の入り口の左手に区の案内板が立っており、ここがかつて猿若町であったと沿革を書いている。

少し踏み入って右側の2、3軒に「藤浪小道具」という看板を掛けた問屋風のビルがあり、そこは歌舞伎座などへ歌舞伎の道具類を卸しているお店だそうである。芝居らしいといえばこれくらいだろうか。あっけないくらいである。

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左図は言問通方向を望む、中の図は、芝居小屋があった2・3丁目方面を望む。右図は、2丁目の右手の建物の端に、昔猿若町だったことを示す碑が立っている。
往時を偲ぶよすがとか、建物などもとうにない。新しい碑が建てられているだけである。
この石碑は先ほどの小路を1ブロックほど奥へ行き、次のブロックにはいると右手のビルの前にある。当時と比べて、この小路がもっと幅の広かったものかどうかもわからない。

少年綺堂、市村座で劇作家を決心

江戸期の地図を見ると、猿若町は、中央を貫く道路の両側を、浅草に近い方から1丁目、2丁目、3丁目となっている。
浅草寺に近い、1丁目に中村座、つぎに2丁目に市村座、3丁目に守田座という配置であった。これらの座には公認されているので、絵を見ると、櫓が描かれている。
河原崎座は中村座の代座であるので、いつも所演しているのではなく、中村座に故障があるときだけ開場するのである。
また、メイン道路を挟んで、1丁目に薩摩座、2丁目に結城座、いずれも人形芝居である。
明治維新になって、猿若町を最初に飛び出すのは、守田座である。これは守田勘弥の才覚であったといわれている。新富町の新富座となる。
中村座は、その後、浅草・鳥越に移るが、明治24年には、東上した川上音二郎一座が、最初に書生芝居を打った、老舗の座である。
2丁目の市村座は明治25年までは、この地にあったようだ。それが、明治の人たちにとっては江戸の名残の猿若町をしのばせるものであったらしい。座主は、中村善四郎であった。しかし、「市村座は遠いので困ると、誰もが言っていた。」(岡本綺堂・明治劇談 ランプの下にて117頁(岩波文庫)。)

明治21年7月の薮入り、その江戸の名残を示す市村座で劇作家となることを確信したのが、少年綺堂、16歳の夏であった。母と姉と一緒に一番目狂言の「妹背山」を観たが、市川新蔵のお三輪に感激して、

「薮入り小僧たちの扇のざわついている土間のまん中で、わたしはいよいよ劇作家たるべき決心を固めた」(同書119頁)

という、綺堂の中では、節目となる場所であった。

また、河竹黙阿弥は、この近くの浅草寺の仲見世近くに住んでおり、幕末・維新の頃には、その持ち長屋には、仮名垣魯文、福地源一郎なども住んでいたことがあるようだ。

<茶屋から芝居小屋を眺めた錦絵>

芝居見物するには、芝居茶屋に一旦入らねばならなかった。休息したり、芝居小屋に案内されたり、食事をしたりしたようだ。不便にも遠くから、しかもグループで出かけてきて、また朝早くからの一日芝居では、休息所が必要であったのであろう。客はそれぞれ贔屓の茶屋に休んだ。下の浮世絵はそのような茶屋からの眺め、あるいは茶屋風景を描いたものである。

中の絵では、芝居茶屋の奥に下足棚のようなの様なものが置かれている、また、中央には、茶屋から出てきたらしい5人ほどを婦人を芝居小屋へ案内しているらしい人物も描かれている。

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作者・不明、天保13(1842)年作
本文説明のように、左手前が中村座、市村座。右手前が薩摩座である。大きな画像(約36KB)
歌川広重作・江戸名所 猿若町繁昌の図。1847年以降か
大きな画像(約41KB)
江戸名所 猿若三座。歌川広重作・安政5(1858)年か?
大きな画像(約34KB)

宮戸座跡

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浅草寺の裏手の言問通を渡ってすぐ、浅草3丁目22番地あたり。柳町(?)通りという現代名称が与えられ、本当に柳のか細い若木が並木になっていて風情がある。宮戸座跡の石碑は、料亭らしい店構えの一角にあった。右の写真が、明治の頃の宮戸座。このあたりの大川を宮戸川と呼んでいたので、これに因んだものらしい。出所は、『風俗画報』東都名所図会・浅草之部だったと思う。

宮戸座は、小芝居小屋である。説明によると、大正12年の大震災で焼け落ちたらしい。その後も昭和3年(?)頃まではあったそうだ。私が少年時代、テレビの時代劇に渋いヒーロー役で主役を取っていたのは中村竹弥さんだったが、以前はこの宮戸座で芝居をやっておられたのだという。台詞を喋るときの、低いどちらかといえばだみ声っぽい、言い回しの口元が目に浮かぶようである。

二銭団洲と綽名されて、明治20年代半ば頃にその名を博した坂東又三郎が、向う柳原の柳盛座から、格上がりの形でこの宮戸座に出演した。団十郎のまね芝居であったが、人気を博したという。岡本綺堂・ランプの下にて254頁(岩波文庫)。

永井荷風の小説の舞台にもなっていて、そのとき掛かっていたのは、黙阿弥の「十六夜清心」で、小芝居小屋の熱い雰囲気が伝わってくる。なるほど、主人公の少年が、向島から、月夜に言問橋を渡ってきて、この芝居小屋へ出かけた地理が呑み込めるであろう。



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