logo.jpg

きどう散歩 足跡をたづねて

岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。

ご案内

その1
 1.本郷・春木座 (のち、本郷座)  綺堂少年、芝居修行の地
 2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺とその前の借家

その2
 3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門
 4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水

その3
 5.高輪 東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地
 6.浅草、三囲神社

その4
 7.新富町・新富座
 8.築地・築地小劇場

その5:
 9.博多 川上音二郎の生誕地
 10.猿若町(芝居三座)と宮戸座

その6: (このページ)
 11.明治座 日本橋久松町
 12.水天宮 日本橋牡蠣殻町
その7:
 13.真砂座 日本橋 新派の牙城
    (以下続く予定)




11.明治座・水天宮 日本橋

【交通】

11.明治座

千歳座(左)と今日の明治座(右)

左絵に見える掘割はもうなくなっており、道路となっているようだ。
chotoseza.jpgmeijiza-now.jpg
団菊左と並び称された市川左団次(初世)が、久松町の千歳座を買い取って、明治座と名付けた。左団次も歌舞伎の改良に熱心であった。彼は松井松葉の新聞連載作品(「悪源太」)を芝居化している。このため、素人作家の作品が旧劇・歌舞伎に採用された、その第一号の名誉を受けることになった。若い新聞記者であった岡本綺堂もずいぶんうらやましかったようであり、素人作家への道が開けたとも喜んでもいる。

市川左団次(2世)

後に音二郎、綺堂と組むことになる2世左団次は、若い頃は芝居がうまくなかったようで、大根と誹られもしたようだ。幼い頃の左団次は、父である初代左団次から、銀行家にでもするつもりと言われていた。また、長谷川時雨とは幼馴染のようだ。長谷川時雨・旧聞日本橋323頁(1983、岩波文庫)。

若い頃の芸名を市川松莚と云った2世左団次の課題は、父に与えられた名声・芸を継承して備えること、持座である明治座を経営すること、新しい歌舞伎への情熱を維持することではなかったろうか。若くしてなかなか難しい立場にあるものである。父は、松井松葉を座の運営と芝居の後見役に付けた。だが、前二つはうまくいかなかった。左団次と組んだ市川松蔦は、実妹である。
左団次と音二郎の組み合わせ、そして岡本綺堂の連携は、すでに述べた。
これは旧劇の改良派と新劇・興行師との組み合わせである。左団次は2つの顔を持っている。旧劇と新らしい劇である。後者の面では、小山内薫と組んで、森鴎外などの訳劇などを「自由劇場」で演じている。

小山内薫と左団次

ただ、もう一つ疑問なのは、左団次の新劇部門担当といってよい、小山内薫との出会いである。小山内は、東大の大学生の傍ら、明治40年近くまで、伊井蓉峰の新劇一座の脚本・演出家であった。そのホームグラウンドは、新劇のメッカの一つである中洲の真砂座であった。伊井一座を離れて、今度は旧劇の左団次と結び付いたというのであろう。誰かが仲介に立ったのであろうか。

左団次の旧劇部門の担当は、松井松葉である。父親の時代から顧問であった。明治39年からの渡欧しての西洋劇の修業の後、満を持しての、松葉と左団次の基調公演は失敗する。松葉は責任をとる形で、東京を離れる。左団次の旧劇の演劇担当は、岡鬼太郎であった。 岡本綺堂は、松井松葉とも記者仲間で、かつての同僚でもあった。岡鬼太郎もまた、新聞記者仲間で、若い頃、共同で歌舞伎狂言を書いて、上演までこぎつけた、演劇研究仲間であった。

<図、新聞記事 第一軍> 乾坤一擲、再起を期した左団次は、新派の川上音二郎と組んで、明治座復興のための芝居を打つ。旧劇からは、新派の軍門に下るのかとそしられたようだ。
川上の興行プランによると、第一軍が旧劇で、明治座を舞台として、左団次を中心とした歌舞伎であった。その脚本に使われたのが、新進の劇作家としてデビューすることになった岡本綺堂の『白虎隊』であった。これは受けたようだ。
 第二軍の方は、川上の妻である貞奴と川上一座の新派劇であった。
関西から九州まで地方興行を続けた。結果的に、大成功であった。

meijiza-kaijo02.jpg
 右図は明治座開業当時の錦絵

さて、明治座である。千歳座と呼ばれていた当時の絵、開業時の錦絵、そして今日の明治座をご覧いただきたい。歌舞伎座と覇を競った明治座も、今日では歌舞伎面に関する限り、その面影はない。2世左団次は、芝居に専念するために、父の代からの明治座を松竹に売却したのであった。

今日、歌舞伎興行が歌舞伎座中心だけでよろしかろうはずはない。もう少し、場所的にも、俳優的にも、競争的環境が欲しい。俳優もどこか雇われ的で、その分安定的ではあるものの、往時(とはいっても私は明治の頃やその前の時代を知らないが…)の気概がないように見えるのは残念である(と、偉そうに…)。

強大なビルを眺めていると、芝居か公演がはねたところらしい。たくさんの年配の人たちが中から出てきた。地下鉄へ続く道には、せんべい屋、菓子屋、それに三味線屋などがあり、久しぶりに生の三味線を店先で聞いた。下町という風情である。

綺堂も、自作の芝居の度に何度も足を運んだ場所の一つであった。「綺堂歌舞伎」の聖地ともいえるだろう。

12.水天宮

suitengu.jpg
日本橋牡蠣殻町。名前がいい。水天宮は、由来書きによると有馬藩の藩屋敷内にあった。やはり、女性の参詣者や、生まれて間もない乳飲み子を抱いた母親(娘の)・娘(新母親)という人たちが多かった。このあたりの初々しさが、人生の花というべきであろう。思い返せば(個人的には)だいぶ昔のことになってしまった。今度は孫連れという次第だろうか。

この水天宮は、河竹黙阿弥の「水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがは)」に登場する。私はこれを読んで知った。岡本綺堂自身は、水天宮に参詣したかどうか知らないが、この場所を知らないはずはなかったろう。牡蠣殻町には、米穀取引所があり、相場を電話で伝えてくるので、受けるのが若い記者で、相場の値段を聞き取るのに苦労したという(岡本綺堂「職業についた頃」『風俗明治東京物語』126頁以下)。電話が登場してきたものの、かなりのノイズで聞き取りにくかったものだろう。

suitengu-e.jpg豊原国周筆「水天宮利生深川」(明治18年)中央が尾上菊五郎の幸兵衛、その右隣の女性は「おむら」役の坂東志う調で、赤子を抱いている。

ところで、どうして主人公である筆売幸兵衛は、水天宮にお参りに行ったのだろうか。娘2人の目が見えないことに対する祈願のためのお参りであったのだろうか。水天宮のご利益(りやく)はよく効くと、あとで云っている。

幸兵衛が貧苦と悲嘆に暮れて、絶望の余り発狂して飛び込んだ大川も近くに見えないとおかしいはずだが、今は埋め立てられて、箱崎と陸続きとなり、歩いてはいけそうにもない遠いところにある。
江戸期の地図を見ると、水天宮のすぐ横には掘割があり、暫く歩くと大川で箱崎との間は橋で繋がれているに過ぎない。

黙阿弥のこの作品は「散切物」と呼ばれる作品の一つであるが、個人的には良く出来ていると思う。前半の息を呑むよなストーリー展開に比べると、やや後半が分別臭くてよくないとは思うが。

綺堂は、この作品は明治時代とするべきではないという。むしろ、江戸時代に置くべきものと主張している。正宗白鳥もそのような見解だ。

この水天宮をすぎて箱崎方面へ行くと、箱崎○ターミナルというのが見えた。私が初めて外国へ出かけるために、成田空港へ行くときに寄った・寄らざるを得なかったターミナルで、たしかここの窓口で真新しいドルと交換したことも覚えている、懐かしいところである。いま、成田へ出る時にここへ寄ることはないのではなかろうか。バスもそんなに出入りしているとは思えなかった。
実は、その先の中洲へ出かけたかったのである。私が用意した安物の地図では肝心のところが書いてない。くすんで古そうな民家に「茶道教授致します」の懐かしい看板がみえた。松本清張の小説を思い出してしまうほどだ。戦前か戦後あたりの造りのビルが外装を生かされ改装されて、ちょっとモダンに見えた。

帰る歩道には枯葉が散り、遠くに望む臨む水天宮の灯明にはもう灯りが入っているようだ。もう灯ともし頃だ。

    (清元)「吹けよ川風、揚がれよすだれ、中の小唄の顔見たや……」

    (幸兵衛)「……富限者と塀を隔ててこの裏家に、貧苦に迫る此の幸兵衛、同じ世界のひとなれど身の盛衰と貧福は、こうも違うものなるか。」

               ―河竹黙阿弥「水天宮利生深川」

富める者と貧困なる者、奪う国家よ奪われる民よ。いつの世も前者のための明日なのか。デフレ、リストラ、経済再建……、なさるがいいのだ。すっかり奪われてしまっているのだ。

初冬の夕日も早く、私もなんとなく不安な気持ちでここを去る。これで大川の黒い川面を見たら、なおさら憂鬱になってしまうかもしれない。それで、中洲はまたの機会に…。



(c) 2002 Waifu Seijyuro. All Rights Reserved.

綺堂事物ホームへ
inserted by FC2 system