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きどう散歩 足跡をたづねて

岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。

ご案内

その1
 1.本郷・春木座 (のち、本郷座)  綺堂少年、芝居修行の地
 2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺とその前の借家

その2
 3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門
 4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水

その3
 5.高輪 東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地
 6.浅草、三囲神社

その4
 7.新富町・新富座
 8.築地・築地小劇場

その5:
  9.博多 川上音二郎の生誕地
 10.猿若町(芝居三座)と宮戸座

その6:
 11.明治座 久松町
 12.水天宮 日本橋

その7: (このページ) new !
 13.真砂座 中洲・日本橋
 14.深川 深川座・洲崎
  
 (以下続く予定)



13.真砂座 中洲
(現・中央区日本橋中洲4、5丁目)

【交通】地下鉄だと、水天宮駅が一番近い。人形町駅からだと水天宮駅前を通って、水天宮から歩く。○通に出て、角にある有馬小学校まで出る。立体交差のある、高速道路の高架下を潜る。約15分くらい。

nakazu-masagoza02.jpg左は明治30年代の頃の中洲の地図である。真砂座という地名が、三角形の下の方、中央に見える(34と35番地との間である)。そして、中洲の中央にはまだ道路は貫通していない。中の地図や今日にある清洲橋へ通じる、横断した道路はまだない。それに、どう探してみても、真砂座の写真や絵がないのは残念である。
nakazu-s4c.jpg左の地図は、昭和4年のもので、ほぼ今日の地図とも近い。地図の三角の形をしているのが中洲で、その底辺の方、つまり南の方(箱崎寄り)の橋が女橋で、少し斜めに渡されている。
onnabasi.jpg左の写真は、今日のものだが、やはり斜めの道路となっているのが分かる。中洲方面を望んでいる。おそらく、このあたりが女橋であって、その下には海水が流れていて、周辺には船が停泊したり、行き交っていたものと考えられる。ただ、牡蠣殻町とも、また南の箱崎とも陸続きとなってしまって、水路はない。


探していたのは、右へうねったような道、である。これが中洲へ通じた日本橋側の橋の跡である。その昔、その名を「女橋」といったと、明治期の地図にあった。北の方に「男橋」があったはずだ。女坂・男坂は緩やかなものかが指標となるが、どんないわれがあるのだろう。昭和期の地図によると、島の中ほど、清洲橋につづく道路は幅広く、浜町・牡蠣殻町との間にかかっているのが、菖蒲橋である。都合、この3つの橋で繋がっていることになる。

そして、この橋の下は、海だったはずだ。しかし、埋め立てられたか、暗渠になっていて、今は道路となっている。 中洲は、鉛筆のキャップみたいで、女橋の方が底で幅が広く、男橋の方が尖がっていて細くなっているような形で、陸地に寄り添っていたはずである。

この鉛筆のキャップの形をした島の円周を道路が回っている。そして、ブルーの色の清洲橋へ通じる道路が真横に島の真中を切り抜くように貫通している。そして、縦に十字架のようにクロスするようにメイン道路が走っている。これらの道路に面して、ほぼマンションが林立していると思えばよい。中には昔の家を思わせる家が数軒存在している。今は昔、中洲の橋からは深川へ通う渡し舟の渡船場があったはずである。

現在では、古いものを頼るよすがとなるものを探すことさえ難しいようだ。わずかにあったのは、清洲橋へ通じる道路の傍にあった、金刀比羅宮くらいである。今となっては珍しい?、葭町芸妓組合の寄進を示す石標があった。ちょっと新しい、というか古くないのが気になるが、戦後のものであろうか。

私が探しているのは、真砂座の跡である。真砂座は新派劇の東の牙城であった。西のそれが、本郷の本郷座であった。両座は、新派の演劇を競っていたのである。明治30年代の話である。現在の地名では、中央区日本橋中洲4、5丁目西端あたりである。真砂座の位置は、左の写真で見ると、右手の茶色のマンションと左手のビル、それに真ん中の道路にまたがって所在したものと推定される。真ん中の道路は明治期の地図にはないが、昭和4年の地図には、現在と同じように箱崎から伸びて貫かれている。

masagoza.jpg 真砂座(中央区)があったことを示すいわれ書きなども一切なかった。本郷座の場合(文京区)と比べても、その差はひどい。

真砂座は、「どん帳」芝居と呼ばれた、むろん小劇場である。山本笑月は、旧劇をやっていたころの真砂座を懐かしんで、中村福円、坂東太郎がいたと書いている(明治世相百話84頁)。

明治半ばからは、新派のいわば名門の芝居場であった。伊井蓉峰が座頭であった。その下で、脚本や演出などを担当していたのが、若き、小山内薫であった。当時まだ東京帝大の学生であったはずである。伊井蓉峰は、写真家の息子で、依田学海の指導を受けて、明治24年11月、浅草・吾妻座で「済美団」の旗揚デビューを果した。「政党美談淑女操」が1番狂言であったが、不人気。

小山内と伊井蓉峰との関係は、森鴎外にあったようだ。鴎外と小山内の関係はまだわからないが、鴎外も演劇に関心を持っていたため、鴎外のもう一人の演劇部門担当者というべき評論家でもある実弟三木竹二を紹介され、三木が伊井蓉峰を紹介したものと考えられる。

小山内は、ここでの経験を生かして、次には市川左団次と結びつき、左団次の新劇部門の担当者として、自由劇場、築地小劇場などを舞台に活躍することになる。

伊井蓉峰と小山内薫との企画で、真砂座で所演された題目は、つぎの通りである。

小山内は、夏目漱石の「我輩は猫である」なども脚本化、所演している。

穂積歌子は、渋沢栄一の娘で、帝大の法学者穂積陳重夫人だが、明治38年(1905)6月14日の記述に、夫の陳重が「山田(三艮)仁井田(益太郎)の諸君の案内にてまさご(本郷)座夜芝居見物、十二時過ぎお帰り。」(穂積重行編穂積歌子日記1890−1906(1989、みずず書房)とある。伊井一座の『金色夜叉』(伊井の貫一、河合定雄のお宮役)を観たのであった。(「金色夜叉」は本郷座の記録にはあるのですが、真砂座にはないもあるので、確認します。上掲のリンクを参照。12/25/2002)
 追記、歌子自身がお供をした様子でもないこと、また「まさご座」と誤記しているため、編集者によって本郷座と訂正されている。したがって、この項は真砂座の話とは無関係であることがわかった。(12/26/2002)
 更なる追記、『金色夜叉』は、つぎの2座で上演されています。1.真砂座 明治38年6月上演(小栗風葉脚本)伊井一座、ついで、2.本郷座 明治38年7月上演 高田一座。穂積陳重らが観劇したのは、6月という時期からみて、真砂座の方であるといえよう。とすると、編注の「まさご(本郷)座」とするのはおかしく、まさに「真砂座」であったといわねばならない。穂積歌子の日記の記述は、正しかったといえよう。(1/08/2003)

永井荷風は、若いころ、近くの隅田川で、夏、泳いだ後の水着姿で、真砂座の芝居を見物している(「夏の町」荷風随筆集上巻119頁(1986、岩波文庫))。また、同じく「桑中喜語(大正十三年)」には、「中洲真砂座といふ芝居の横手の路地にも銘酒屋楊弓場軒を並べ、家名小さく書きたる腰高障子の間より通がゝりの人を呼び込む光景、柳原の郡代、芝神明、浅草公園奥山等の盛況に劣らず」と表現されている。

「中洲と箱崎町の出端(でばな)との間に深くつき入っている掘割はこれを箱崎町の永久橋または菖蒲河岸の女橋から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は……」と、ここが水路に囲まれて、船が行き来する様が描かれている(「日和下駄 第六 水 附渡船」荷風随筆集上巻50頁)。

1898(明治31)年3月には、三遊亭円朝の「累ヶ淵後日怪談」が真砂座で初演されている。

徳田秋声の小説「仮装人物」の中にも真砂座の名前が登場する。

やや時代は下がるが、菊池寛も一高時代に、本郷から1時間あまり歩いて、この真砂座まで出かけて観劇している(同・半自叙伝)。

さて、岡本綺堂との関係を見ておくと、たぶんここの芝居小屋も訪れたことがあるのではないかと思うが、推測の域を出ない。真砂座へ出かけて芝居見物をしたなどの記述がない、というか、まだ目にしていない。
(記 12/21/2002)


14.深川 深川座・洲崎

◆ 深川 深川座

【交通】地下鉄を利用したので、東西線の門前仲町で降りる。

写真
新盛座ともいった。
河畔に在ったはずだが、例によって埋めたれられたか暗渠になっていて、○公園になっており、その上を高速道路が走っているという現代的な都市構図となっている。地図上では永代信金が目印であるが、一向に見あたらないので、うろうろ。人もあんまり歩いていないので、聞くわけにもいかず、動き回ってしまった。工事の白い大きな覆いが掛けられている一角が信金だったのである。やっぱり……。どうやら事業譲渡の案内書があり、撤収したらしい。
地図
 それはともかく、その区域のはずれの一角に深川座があったのである。写真で見るとこの辺りだったと思われる。奥の白い覆いのあるところが元信金で、手前の方の区画に深川座があった。ここは深川不動尊と門前仲町が圧倒的な知名度らしく、残念ながら、深川座があったところなどという案内や看板はなかった。

◆ 洲崎遊郭 

 岡本綺堂の江戸、明治の風俗にあってしかるべきなのに、触れてないのは芸娼妓・遊郭の類である。これらは「悪場所」の一つであるためであろうか。綺堂は芸娼妓や遊郭を舞台にした作品は書いているのである。
 この話題に触れるほどの意義を見出さなかったか、触れるのを避けたと見るべきかもしれない。岡本綺堂が、明治期の人として、これらに通わ(遊ばな)なかったとは考えにくい。現に親父を心配させることもした、と自白もしている。通ったとすれば、新聞記者時代である。しかも、(私のあてずっぽうの推測であるが)当然ながら、独身の若い時代で、かつ下宿時代ではなかったかと思われる。
 さらに、かりに通ったことがあるとして、地理的に洲崎遊郭ではなく、吉原であったろうと思う。文学や随想にも、吉原に触れたものは多いが、ここでは、どちらかといえば場末的な洲崎遊郭に対象を絞ってみた。歌舞伎や芝居、さらに大きくは明治や戦前までの日本社会の一面をどうしても触れておかざるを得ないものの一つだろう。

歴史

 さて、洲崎は、私は観てはいないが「洲崎パラダイス」の映画があったようだし、最近でも写真集などが出されてもいる。
 この辺りは、明治のこの当時から色街でもあった。その面影を偲ばせる写真集もあったように記憶している。根津の遊郭が、風致上、東京帝国大学の近くではまずいというので、明治21年、こちらの洲崎へ移転させられたのである。これが洲崎遊郭のはじまりである。遊郭を悪場所的に考えるのは、江戸幕府に引き続いて明治新政府の政策でもあったのだろう。

洲崎弁天町は、5万坪あるが、元は海で、埋め立てたものである。明治20年に深川区に編入された。近くにある洲崎弁天社の名前に因んで命名されたが、明治21年に1丁目、2丁目に分かたれて、遊郭とされた(「新撰東京名所」64号(東陽堂)による)。

「青楼綺閣縦横に連なり、遊客の昇に任す。その中最も大なるは八幡楼(大八幡という)にて楼前にて庭あり。蟠松(はんしよう)に松竹などを配して風趣を添えたるが如き新吉原に見ざる所なり。その他新八幡楼、甲子楼、本金楼等は廓中屈指のものなり。夜着の袖より安房上総を望み得る奇景に至っては、実に東京市中にありては本遊廓の特色なり。」(同・前掲書)

なるほど魅力的に書かれてはいるが、木村壮八はつぎのようにも書いている。「東京も川を向こうへ渡れば別世界で、遊廓も洲崎は東京をかまわれた東京者の行くところである。従って気風が荒く、娼妓などもそれに相応した渡り者が陣取っていて……」(『新編東京繁昌記』(1993、岩波文庫)254頁)としたところが、もっとも実感に近いところではなかったろうか。この辺りの感覚というものが、同時代にいなかったものとしてはわからない。
さて、洲崎に入ってみよう。
入り口の橋の写真
大八幡楼の写真(風俗画報より)
「青楼綺閣縦横に連なり……」というが、どのような町の構成になっていたのだろうか。幸いにも明治26年の遊郭の地図が残っていた。左の配置図である(東京朝日新聞明治26年11月28日)。ほぼ網羅的に当時の遊郭の配置と茶屋などの配置が見て取れる。しかし、火災の記事とはいえ、見取り図まであるというのはなんという親切!

洲崎の眺め

当時の洲崎の花柳界の描写は、荷風先生にお願いしよう。

「 夏中洲崎の遊廓に、燈籠の催しのあった時分、夜おそく舟で通った景色をも、自分は一生忘れまい。苫のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸体の船頭を照す。川添いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身(ほりもの)した裸体(はだか)の男と酒を呑んでいるのが見える。水門の忍返しから老木の松が水の上に枝を延(のば)した庭構え、燈影(ほかげ)しずかな料理屋の二階から芸者の歌う唄が聞える。月が出る。倉庫の屋根のかげになって、片側は真暗な河岸縁(かしぶち)を新内のながしが通る。水の光で明く見える板橋の上を提灯つけた車が走る。それらの景色をばいい知れず美しく悲しく感じて、満腔(まんこう)の詩情を托したその頃の自分は若いものであった。」(ルビ、一部省略)   −「深川の唄」(明治41年12月作)『すみだ川・新橋夜話』20−21頁(岩波文庫)

江戸趣味でなくとも、なんとも、人々の生活の見える、情緒あふれる描写ではないか。木村壮八のいう「東京をかまわれた東京者の行くところである。従って気風が荒く、娼妓などもそれに相応した渡り者が陣取っていて……」(下記)という景色が覗けないでもない。

 この洲崎遊郭のことを書きたくなったのも、実は、わずかながらいくつかの資料が手元にあったことと、永井荷風のこの文章と描写を読んだからであった。なかなか荷風の思い入れが入ってそうな文章である。水辺の光と空間、夕闇の明るさ、闇を照らし出す堤燈の橙い光、男と女のきれいではない声、よくもなく、むしろ現世的で悪いのだが、半陰影的な毎日の生活、女たちの境遇。率直にいって、よく当時の風俗や遊郭を舞台にした生活が視覚的にまた、その臭が窺えるのではないかと思っている。いつになくビビッドな描写である。個人的なことを言えば、荷風の作品はほとんど読んだことはないが、上に引いた文章と、あまり評価されることない習作のような作品である「雪の日」(『荷風随筆』)だけは個人的には好きな作品であるし、気に入っている。
洲崎遊郭が舞台の作品

 私は花柳文学には興味があまり無い方なのだが、洲崎を舞台にした作品をちょっとご紹介しようと思う。いずれ花柳文学研究がクローズアップされる日も近いかもしれない。広津柳浪と、柳浪を師と仰いで、ただ一人柳浪門下になった永井荷風である。いわば師弟の揃い踏みといったところ。

 広津はいうまでもなく、硯友社派の一角を占める。いまでこそあまり読まれている風ではないが、この作品の頃は、売れっ子で、東京を席捲していた人気作家であった。「今戸心中」ですね。どういう次第でか、岡本綺堂とも知りあいであったようだ。広津側の記述は確認していないが、明治26年頃には、数人とであろうが、飯坂温泉に出かけている。この目的が何であったかわからないが、綺堂の「飯坂温泉」の記事を読むとわかるかもしれない。残念ながら、入手していないので未読。広津も晩年は人気も衰えて、寂しかったらしいが、明治○年○月には、綺堂はわびしい雨の中を、広津の葬儀に参列している。(リンク「綺堂書簡」参照)

 広津柳浪「浅瀬の波」(明治29年11月作)は、「今戸心中」の後の作品なので、遊郭を舞台とした作品である。洲崎の万字楼のお勝は、恋人の三吉に頼まれた5円の金策をするために同じ万字楼の弁三と会う。弁三は、自分と三吉が万字楼のお勝にうまくあしらわれていると人づてに聞き、嫉妬のあまり怒る。そして、お勝が惚れている三吉が、実はお勝と河岸(かし)の東雲(しののめ)という遊女とをうまく扱っているという噂を、お勝に暴露する。お勝は動揺する。ところが、三吉の方は、恋人のお勝が自分を裏切り、弁三とうまくやっているものと思い込み、石で撲殺してしまう。
 4人4様の相関図といったところであるが、廓の中の男女の情交と金銭の絡みが一晩のうちに殺人を引起してしまうというストーリーのようだ。誰にも同情的になれないのが、欠点である。

 永井荷風「夢の女」(明治36年5月8日 新声社)

「深川、洲崎……。」
「へえ? 洲崎に……?」
「老婢(ばあや)。恥ずかしいものに成つ了つたんだよ。」とお浪は叫んだ儘、膝の上に置いた絹のハンケチで暫くは其の顔を蔽ひ隠した。」

 ―同『荷風全集』第3巻69頁(1993、岩波書店)

荷風は、明治33、4年頃、吉原洲崎へしばしば通ったとあるので、この頃の経験が生かされた作品かと思う(摘録・断腸亭日乗(上)109頁)。
 各作品のあらすじと評

花柳文学

 荷風は、花柳文学にも当然ながら関心をもっていたようで、作品も書きはしたが、岡本綺堂の盟友ともいうべき岡鬼太郎も花柳文学の作品といえる小説を何編か書いている。読みたいと思っているのだが、ほとんどの図書館にはないようである。岡も、花柳界に入り浸った生活をしていたようだ。そこから、演劇指導に出かけることも多々あたらしい。荷風は、同じ江戸気分でも、岡本綺堂よりは岡鬼太郎と付き合いの方が深かったようだ。日記あたりへの登場回数も岡の方が多いからである。綺堂は話しかけてもあまり話さなかったようだが、その点岡鬼太郎の方が、江戸気分・趣味が色濃く、演劇指導なども手がけて、荷風の興味を満たしたようだ。

夏目漱石全集には、1箇所だけ州崎が登場する。明治44年の7月26日の日記である。「台風のために洲崎堤防破壊、貸座敷一戸を倒す、娼妓一五六名死す、兵客の死体も続々出る。」となんとも痛ましい記事の記録である。コンクリート護岸ではなかったのだろう。

洲崎暴行事件(大正3年9月3日)

 芸娼妓の解放、いわゆる廃娼運動は、日本政府の表向きの政策であるが、その実はサボタージュか事実的な肯定であった。洲崎遊廓の貸座敷業者の組合である洲崎遊廓内三業組合は、洲崎芸娼妓の解放を訴えている救世軍と衝突し、洲崎病院に入院中の2名に娼妓による救済の訴え(自廃申請)を応援しょうとした救世軍の大尉を襲撃した。警察署に赴かんと洲崎中通花咲楼前に差し掛かったところで、大尉と2人の娼妓は50数名から殴打による負傷を受けた。
左図は、中外新聞大正3年9月4日の記事


参考:
木村壮八・新編東京繁昌記(1993、岩波文庫)


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