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きどう散歩 足跡をたづねて

岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。

ご案内

その1:
1.本郷・春木座(本郷座) 綺堂少年、芝居修行の地
2.麻布十番 震災後の避難と光隆寺前の借家
その2
3.麹町 旧元園町27番地、19番地、半蔵門
4.平河町・平河天神社 綺堂、一葉、桃水
その3
5.高輪・東禅寺・泉岳寺 綺堂生誕の地
6.浅草、三囲神社
その4
7.新富町・新富座
8.築地・築地小劇場

その5
 9.博多 川上音二郎の生誕地
10.猿若町(芝居三座)と宮戸座
その6
11.明治座 日本橋久松町
12.水天宮 日本橋牡蠣殻町
その7:
13.真砂座 中洲・日本橋
14.深川・洲崎
その8:(このページ!) new !
15.伊豆 修善寺・修禅寺
16.(以下 予定)
















15.伊豆 修善寺・修禅寺

【交通】まだ行っていないので、さんぽの例外です。こちらが詳しいです。新井旅館さんのHPもあります。


1.岡本綺堂と修善寺テキスト

 岡本綺堂が修善寺(修禅寺を含む)について書いたものは、おおよそつぎの5編ではなかろうかと思う。

 1.修禅寺物語(戯曲)  2.秋の修善寺  「綺堂むかし語り」(光文社ほか) 「青空文庫」にテキスト・ファイルあり
 3.春の修善寺     同
 4.修禅寺物語(小説) 「修禅寺物語(物語)」光文社文庫、以下に抄出
 5.修禅寺物語(創作の思ひ出) 「猫やなぎ」(昭和12)、「綺堂劇談」ほか所収

ここの下記に掲げるのは、4の物語の一部です。5と少し重複した記述はありますが。

「修禅寺物語(創作の思ひ出)」は、随筆集『猫やなぎ』(昭和12)220−226頁に、『箕輪の心中』の創作の思い出ととも書かれている。この初出(「大正14」の年号の記録はある)は残念ながら分からない(調べていません)。
「創作の思ひ出」は、青蛙房の『綺堂劇談』(昭和31年刊)に、他の作品のそれとともに、再収録されている。


2.修善寺来訪

   右写真 (c)+ご提供 修善寺温泉・新井旅館さん

 綺堂は、修善寺を訪れたのは、明治29年6月(満24歳、『綺堂日記』12頁の自筆年譜による)、と、明治41年9月末(満36歳)、さらにその約10年後ということになろうか。むろん、これ以外にもあるかもしれない。
 明治41年9月というのは、同年7月に川上音二郎が元園町の綺堂宅を来訪して、(2世)市川左団次とその明治座の困窮を救うべく、「革新劇」のために脚本依頼をして、「白虎隊」「奇兵隊」を書き上げた直後の時期に当たり、まだ毎日新聞主催の文士劇若葉会が開催されている期間中である。左団次と川上音二郎の革新劇は地方を興行して廻っていた時期であろう。綺堂としては、文士劇や川上・左団次に脚本を供給し続けたため、夏季の休息をかねて、新しい素材を手に入れて、脚本を書こうとしていたのだろうと思われる。
興味深いのは、一部紹介されている、明治41年当時の日記の文体が、まだ文語体であることである。(下記参照)

戯曲の「修禅寺物語」は、文芸倶楽部1911年1月号に発表された。初演は、明治44年5月、明治座。主な配役は、
 夜叉王:2世市川左団次
 姉娘かつら:市川寿美蔵(のちの3世寿海)
 妹娘かへで:市川莚若(のちの3世市川松蔦)
 源頼家:15世市村羽左衛門ほか。

杏花(きようか)戯曲十種の一に数えられた。
好評であったし、岡本綺堂の傑作の一つに挙げられる。 2世左団次による夜叉王の芝居写真を見る
菊池寛の「藤十郎の恋」などとともに、当時の文芸思潮の一つであった芸術至上主義の影響があるといわれた。



3.記念碑建立

 綺堂の自筆になる「修禅寺物語」の一節の詞碑が建立されたのは、昭和16年6月で、伊豆修善寺町新井旅館の梅林である。同日・同所には、市川左団次の句碑も建立されたという。建碑の由来を伊原青々園氏が書いた。
 岡本えい夫人、岡本経一氏、岡鬼太郎、大谷竹次郎氏やお弟子さんらが駆けつけたようだ。参加した一人の岸井良衛氏によると、当日は強い雨で、川のようになった坂道をこわごわ降りてきたという。同・ひとつの劇界放浪記159頁

左写真(c)+ご提供 修善寺温泉・新井旅館さん

「佳詞絶調」と題された詞碑の自筆の文面は、夜叉王の台詞である:


幾たび打ち直してもこの面に、死相のあり/\と見えたるは、われ拙きにあらず、鈍きにあらず、源氏の將軍頼家卿が斯く相成るべき御運とは、今といふ今、はじめて覺った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、先づわが作にあらはれしは、自然の感應、自然の妙、技藝神に入るとはこの事よ。伊豆の夜叉王、われながら天晴天下一ぢゃなう。
                修禅寺物語の一節
                   岡 本 綺 堂 (落款) 


の箇所のようだ。ただし、上記引用文と詞碑の文面とは幾分、表現が異なっている。

新井旅館さんより、ご提供いただいた、梅林の中の詞碑の写真があるのでご覧ください(写真のご提供、感謝いたします)。綺堂が随筆などで「新井の主人」と書いているのは、三代目館主の相原寛太郎(沐芳)氏である。
「 句碑のあります修善寺梅林は、2月1日から3月10日まで梅祭りが開催され、多くの観光客でにぎわいますが、普段の日は静かな場所です。11月は紅葉が真っ赤になり、またすばらしいロケーションです。
 明治41年9月に夏休みを利用して修善寺温泉新井旅館に来られた綺堂氏は、当館三代目館主の相原寛太郎(沐芳)より、修善寺にまつわる源頼家の悲劇などの話を聞き「修禅寺物語」を執筆されたと伝わっております。」
(新井旅館さんから私宛メールより、承諾を得て引用)

まだ、訪れたことはありませんが、ぜひ機会を得たいようなところですね。


4.修禅寺物語(小説)

岡本綺堂  修禅寺物語(抄)

       一

 明治四十一年の秋に、わたしは伊豆の修善寺温泉へ行って、新井旅館に滞在していた。その当時の日記によると、わたしは九月二十七日の午前八時頃、焼松茸の秋らしい香に酔いながら朝飯を済ませて、それからすぐに宿を出て、源氏の将軍頼家の墓に詣ったのであった。
 日記にはこう書いてある。

 ――桂橋を渡り、旅館のあいだを過ぎ、射的場の間などをぬけて、塔の峯の麓に出づ。ところどころに石段あれど、路はきわめて平坦なり。雑木しげりて高き竹叢あり。僅の花の白くさける垣に沿うて、左に曲れば、正面に釈迦堂あり。頼家の仏果円満を願うがために、母政子の尼が建立せるものと伝えらる。鎌倉の覇業を永遠に維持する大目的の前に獅は、あるに甲斐なき我が子を犠牲にしたれども、さすがに子は可愛きものにてありけるよと推量れば、ひごろは虫の好かぬき驕慢の尼将軍その人に対しても、一種の同情をとどめ得ざりき。

 更に左へ折れて小高き丘にのぼれば、高さ五尺にあまる楕円形の大石に征夷大将軍左源頼家尊霊と刻み、煤びたる堂の軒には笹龍胆の紋を染めたる紫の古き幕を張り渡せり。堂の広さは一、聴を越ゆまじー、修禅寺の夢みおろして立てり。あたりには杉楓のたぐい枝をかわして生いたり。秋の日影冷たく、いずこにか蝉の声かれがれに聞ゆ。余りにすさまじき有様よとは思えども、これに比ぶれば範頼の墓は更に甚だしく荒れまさりぬ。叔父御よりも甥の殿こそ未だしもの果報ありけれと思いつつ、香を手向けて去る。入れ違いに来たりて馨を打つ参詣者あり。
 頼家の墓所、予は単に塔の峯の麓とのみ記憶していたりしが、ここにて聞けば、このところを指月ケ岡というとぞ。頼家討たれし後、母の尼ここへ来たり弔いて、空ゆく月を打ち仰ぎつつ、「月は変らぬものを、かわりはてたるは我が子の上よ。」と、月を脂さして泣きければ、人びともおなじ涙に暮れ、爾来ここを呼んで指月ケ岡というとぞ。蕭条(しようじよう)たる寒村の秋の雄一義なき我が子の墓前に立ちて、一代の女将軍が月下に泣けるさまを想い見よ。まことに画くべく歌うべき悲劇にあらずや。彼女がかくまでに涙を呑んで経営したる覇業も、源氏より北条氏に移りて、北条もまた亡びたり。これを思えば、秀頼と相抱いて城と共にほろびたる淀君こそ、人の母としては却って幸いなりけれ。感多くして立つこと多時。――

 わたしはその晩、旅館の電燈の下で桂川の水の音を聴きながら、頼家の最期を戯曲に編もうと企てた。その明くる日、修禅寺の宝物に頼家の仮面があるということを宿の主人から聞いて、すぐに修禅寺へ行った。仮面の作人は誰だか判らなかった。戯曲の腹案はここにいる間に大抵まとまって、東京へ帰ってから筆を執った。あくる年の春に脱稿したのが「修禅寺物語」で、それが初めて明治座に上場されたのは明治四十四年の五月であった。書きおろし以来、しばしば市川左団次君によって上演されて、松莚(杏花)戯曲十種の一つに数えられている。
 それから十年目で、今年の正月、わたしは重ねて修善寺へ行った。十九日の午後、寒い風の吹く日、桂川を渡って、頼家の墓に詣でると、あたりの光景はよほど変わっていた。その晩、わたしはこんなことを書いて読売新聞社へ送った。

  ――修善寺の宿に着くと、あくる日はすぐに指月ケ岡にのぼっ打、頼家の墓に参詣した。わたしの戯曲「修禅寺物語」は十年前の秋、この古い墓の前に額ずいた時に、わたしの頭に湧き出した産物である。この墓と会津の白虎隊の墓とは、わたしに取って思い出が多い。その後にわたしはどう変わったか、自分にはよく判らないが、頼家公の墓はよほど変わっていた。
 その当時の記憶によると、岡の裾には鰻屋が一軒あったばかりで、岡の周囲にはほとんど人家が見えなかった。墓は小さい堂のなかに祀られて、堂の軒には笹龍胆(ささりんどう)の紋を染めた紫の幕が張り渡されていて、その紫の褪(さ)めかかった色がいかにも品の好い、而も寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するかのように見えたのが、今もありありとわたしの眼に残っている。ところが、今度かさねて来て見ると、堂はいつの間にか取り払われてしまって、懐かしい紫の色はもう尋ねるよすがもなかった。なんの掩いをもたない古い墓は、新しい大きい石の柱に囲まれていた。いろいろの新しい建物が岡の中腹までひしひしと押し詰めてきて、その中には遊芸稽古所などという看板も見えた。
 頼家公の墳墓の領域がだんだんに狭まってゆくのは、町がだんだんに発展してゆく標(しるし)である。紫の古い色を懐かしがるわたしは、町の運命になんの交渉をもたない、一個の旅びとに過ぎない。十年前にくらべると、町は、著しく栄えてきた。多くの旅館は新築したのもある。建て増したのもある。温泉倶楽部も出来た。劇場も出来た。こうして年ごとに繁昌してゆーこの町のまん中にさまよって、昔のむらさきを偲んでいる福の貧しい旅びとのあることを、町の人たちは決して眼にも留めないであろう。わたしは冷たい墓とむかい合って暫らく黙って立っていた。
 それでも墓の前には三束の線香が供えられて、その消えかかった灰が霜柱のあつい土の上に薄白くこぼれていた。日あたりが悪いので、黒い落葉がそこらに凍り着いていた。墓を拝して帰ろうとしてふと見かえると、入口の古い柱のそばに一個の箱が立っていた。箱の正面には「将軍源頼家公おみくじ」と書いてあって、そのそばの小さい穴の口には「一銭銅貨を入れると出ます」と書き添えてあった。
 源氏の将軍が予言者であったか、売卜者(ばいぼくしや)であったか、わたしは知らない。しかしこの町の人たちは果たして頼家公を霊なるものとして、こういうものを設けたのであろうか。或いは湯治客の一種の慰みとして設けたのであろうか。わたしは試みに一銭銅貨を入れてみると、からからという音がして、下の口から小さく封じた活版刷りのお神籔が出た。あけて見ると、第五番凶とあった。わたしはそれが当然だと思った。将軍にもし霊あらば、どのお神籔にもみな凶が出るに相違ないと思った。――

 こんな苦い心持を懐きながらも、半月ばかり滞在している間、毎日散歩に出るたびに、落葉と霜柱を踏みながら、わたしはきっと頼家の墓に参詣した。そうして、自分の古い作の「修禅寺物語」について考えた。香の煙りにつつまれながら静かにその墓に向かっていると、史実と空想とが一つにもつれ合って、七百年前の鎌倉の世界がまぼろしのようにわたしの眼の前に開かれた。
 第一の幻影は、うち綾の小桂を着た二十歳前後の若い局ふうで、すぐれて美しい顔のどこやらに暗い影を宿している女であった。

   二 [以下、略]

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底本 岡本綺堂 修禅寺物語 光文社時代文庫 1992年3月20日
※二以下、略
入力:和井府清十郎
公開:2003年5月12日



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