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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。「猿の眼」は『青蛙堂鬼談』シリーズの第4作品。いろんな本にも単独で収録されているもので、人気の高いと思われる作品です。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




猿《さる》の眼《め》  ――『青蛙堂鬼談』より

             岡本綺堂
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         一

 第四の女は語る。

 わたくしは文久《ぶんきゆう》元年酉歳《とりどし》の生れでございますから、当年は六十五になります。江戸が瓦解《がかい》とになりました明治元年が八つの年で、吉原の切解《きりほど》きが明治五年の十月、わたくしが十二の冬でございました。御承知でもございましょうが、この年の十一月に暦《こよみ》が変りまして、十二月三日が正月元日となったのでございます。いえ、どうも年をとりますとお話がくどくなってなりません。前置きはまずこのくらいに致しまして、本文《ほんもん》に取りかかりましょう。まことに下《くだ》らない話で、みなさまがたの前で子細らしく申上げるようなことではないのでございますが、席順が丁度わたくしの番に廻ってまいりましたので、ほんの申訳ばかりにお話をいたしますのですから、どうぞお笑いなくお聴きください。
 まことにお恥かしいことでございますが、その頃わたくしの家は吉原の廓内《くるわうち》にありまして、引手茶屋を商売にいたしておりました。江戸の昔には、吉原の妓楼《ぎろう》や引手《ひきて》茶屋の主人にもなかなか風流人がございまして、俳諧をやったり書画をいじくったりして、いわゆる文人墨客《ぶんじんぼつかく》というような人たちとお附合いをしたものでございます。わたくしの祖父や父もまずそのお仲間でございまして、歌麿のかいた屏風だとか、抱一《ほういつ》上人のかいた掛軸だとかいうようなのが沢山にしまってありました。
 祖父はわたくしが三つの年に歿しまして、明治元年、江戸が東京と変りましたときには、当主の父は三十二で、名は市兵衛と申しました。それが代々の主人の名だそうでございます。なにしろ急に世の中が引っくり返ったような騒ぎですから、世間一統がひどい不景気で、芝居町や吉原やすべての遊び場所がみんな火の消えたような始末。おまけに新富町には新島原の廓が新しく出来ましたので、その方へお客を引かれる。わたくしの父なぞは、いっそもう商売をやめてしまおうかなぞと言ったくらいでしたが、母や同商売の人にも意見されて、もう少し世の成行きを見ていようといううちに、京橋のまん中に遊廓なぞを置くのはよくないというので、新島原は間もなくお取潰しになりまして、妓楼はみんな吉原へ移されることになりました。
 これで少しは息がつけるかと思っていると、明治五年には前に申した通りの切解きで……。今までの遊女や芸妓は人身売買であるからよろしくないというので、一度にみんな解放を命ぜられました。こんにちでは娼妓《しようぎ》解放と申しますが、そのころは普通一般に切解きと申しておりました。さあ、これがまた大変で、早くいえば吉原の廊がぶっ潰されるような大騒ぎでございました。
 しかしその時代のことですから、何事もお上《かみ》のお指図次第で、だれも苦情の申しようはございません。勿論、それで吉原が潰れ切りになったわけではなく、ふたたび備えを立て直して相変らず商売をつづけて行くことになったのですが、前々から廃業したいという下心《したごころ》があったところへ、こんな騒ぎがまたも出来したので、父の市兵衛はいよいよ見切を付けまして、百何十年もつづけて来た商売をとうとうやめることに決心しました。さりとて不馴れの商売なぞうっかり始めるのは不安心で、士族の商法という生きた手本がたくさんありますから、田町《たまち》と今戸《いまど》辺に五、六軒の家作があるのを頼りに、小体《こたい》のしもた家幕らしをすることになりました。
 父は若いときから俳諧が好きでして、下手か上手か知りませんが、三代自夜雪庵の門人で羅香と呼んでおりまして、すでに立机《りうぎ》の披露も済ませているのですから、曲りなりぺも宗匠格でございます。そこでこの場合、自分の好きな道にゆっくり遊びたいというのと、二つには芸が身を助けるというような意味もまじって、俳諧の宗匠として世を渡ることにしましたが、今までとは違って小さい家へ引籠るのですから、余計な荷物の置きどころがないのと、邪魔なものは売払ってお金にしておく方がいいというので、不用のがらくたは勿論のこと、祖父の代から集めていました、書画や骨董のたぐいも大抵売払ってしまいました。
 御承知でもございましょうが、明治初年の書画骨童ときたらほんとうの捨て売りで、菊池容斎や渡辺崋山の名画が一円五十銭か二円ぐらいで古道具屋の店ざらしになっている時節でしたから、歌麿も抱一上人もあったものでございません、みんな二束三文に売払ってしまったのでございます。その時分でも母などは何だか惜しいようだと言っておりましたが、父は思い切りのいい方で、未練なしに片っぱしから処分しましたが、それでも自分の好きな書画七、八点と屏風一|双《そう》と骨董類五、六点だけを残しておきました。
 その骨董類は、床の置物とか花生けとか文台とかいうたぐいの物でしたが、そのなかに一つ、木彫りの猿の仮面《めん》がありました。それは父が近いころに手に入れたもので、なんでもその前年、明治四年の十二月の寒い晩に上野の広小路を通りますと、路ばたに薄い筵《むしろ》を敷いて、ちっとばかりの古道具をならべている夜店が出ていました。芝居に出る浪人者のように月代《さかやき》を長くのばして、肌寒そうな服装《みなり》をした四十恰好の男が、九つか十歳ぐらいの男の子と一緒に、筵の上にしょんぼりと坐って店番をしています。
 その頃にはそういう夜店商人がいくらも出ていましたので、これも落ちぶれた士族さんが家の道具を持出して来たのであろうと、父はすぐに推量して、気の毒に思いながらその店をのぞいて見ると、目ぼしい品はもう大抵売尽してしまったとみえて、店には碌な物も列《なら》んでいませんでしたが、そのなかにただ一つ古びた仮面がある。それが眼について父は立止りました。
「これはお払いになるのでございますか。」
 相手が普通の夜店商人でないとみて、父も丁寧にこう訊《き》いたのです。すると、相手も丁寧に会釈して、どうぞお求めくださいと言いましたので、父はふたたび会釈してその仮面を手に取って、うす暗い燈火《あかり》のひかりで透かしてみると、時代も相応に付いているものらしく、顔一面が黒く古びていましたが、彫りがなかなかよく出来ているので、骨董好きの父はぶらぶらと買う気になりました。
「失礼ながらおいくらでございますか。」
「いえ、いくらでもよろしゆうございます。」
 まことに士族の商人《あきんど》らしい挨拶です。そこへ付け込んで値切り倒すほどの悪い料簡もないのと、いくらか気の毒だと思う心もあるのとで、父はそれを三歩《ぶ》に買おうと言いますと、相手は大層よろこんで、いや三歩には及ばない二歩で結構だというのを、父は無理にすすめて三歩に買うことにしました。なんだかお話が逆《さか》さまのようですが、この時分にはこんなことが往々あったそうでございます。
 いよいよ売買の掛合いが済んでから、父は相手に訊《き》きました。
「このお面は古くからお持ち伝えになっているのでございますか。」
「さあ、いつの頃に手に入れたものか判りません。実はこんなものが手前方に伝わっていることも存じませんでしたが、御覧の通りに零落《れいらく》して、それからそれへと家財を売払いますときに、古長持の底から見つけ出したのです。」
「箱にでもはいっておりましたか。」
「箱はありません。ただ欝金《うこん》のきれに包んでありました。少し不思議に思われたのは、猿の両眼を白い布《きれ》で掩って、その布の両端をうしろで結んで、ちょうど眼隠しをしたような形になっていることです。いつの頃に誰がそんなことをしておいたのか、別になんにも言い伝えがないので、ちっとも判りません。一体それが二歩三歩の値のあるものかどうだか、それすらも手前には判らないのです。」
 売る人はあくまでも正直で、なにもかも打ち明けて話しました。
 それだけのことを聞かされて、その仮面を受取って、父は吉原の家へ帰って来ましたが、あくる日になってよく見ると、ゆうべ薄暗いところで見たのとは余ほど違っていて、かなりに古いものには相違ないのですが、刀の使い方もずいぶん不器用で、さのみの上作とは思われません。これが三歩では少し買いかぶったと今さら後悔するような心持になったのですが、むこうが二歩でいいと言うのをこちらから無理に買上げたのですから、苦情の言いようもありません。「こんなものは仕方がない。まあ、困っている士族さんに恵んであげたと思えばいいのだ。」
 こう諦めて、父はその仮面を戸棚の奥へ押込んでおいたままで、自分でももう忘れてしまったくらいでしたが、今度いよいよ吉原の店をしまうという段になって、いろいろの書画骨董類を整理するときに、ふと見つけ出したのが彼《か》の仮面で、もちろんほかの品々と一緒に売払ってしまうはずでしたが、いざという時になると、父はなんだか借しくてならぬような気になったそうです。
 そこで、これはまあこのままに残しておこうと言って、前に申した通り、五、六点の骨董のうちに加えて持ち出すことになったのでした。なぜそれが急に惜しくなったのか、自分にもその時の心持はよく判らないと、父は後になって話しました。
 とにかくそういう訳で、わたくし共の一家が多年住みなれた吉原の廊を立退きましたのは明治六年の四月、新しい暦では花見月の中項でございました。今度引移りましたのは今戸の小さい家で、間かずは四間《よま》のほかに四畳半の離屋《はなれや》がありまして、そこの庭先からは、隅田川がひと目に見渡されます。父はこの四量半に閉じこもって、宗匠の机を据えることになりました。

      二

 それから小《こ》ひと月ばかりは何かごたごたしていましたが、それがようよう落着くと五月のなかばで、新暦でも日中はよほど夏らしくなってまいりました。
 父は今まで世間の附合いを広くしていたせいでございましょう、今戸へ引移りましてからも尋ねて来る人がたくさんあります。俳諧のお友だちも大勢みえます。吉原を立退いたらばさぞ寂しいことだろうと、わたくしも子供心に悲しく思っていたのですが、そういうわけで人出入りもなかなか多く、思ったほどには寂しいこともないので、母もわたくしも内々よろこんでおりますうちに、こんな事件が出来《しゆつたい》したのでございます。
 前にも申した通り、今度の家は四間で、玄関の寄付きが三畳、女中部屋が四畳半、茶の間が六畳、座敷が八畳という間取りでございまして、その八畳の間に両親とわたくしが一緒に寝ることになっていました。そこへ一人の泊り客が出来ましたので、まさかに玄関へ寝かすわけにもいかず、茶の間へも寝かされず、父が机を控えている離れの四畳半が夜は明いているので、そこへ泊めることにしたのでございます。
 その泊り客は四谷の井田さんという質屋の息子で、これも俳諧に凝《こ》っている人なので、タ方からたずねて来て、好きな話に夜がふける。おまけに雨が強く降って来る。唯今とちがって、電車も自動車もない時代でございますから、今戸から四谷まで帰るのは大変だというので、こちらでもお泊りなさいと言い、井田さんの方でも泊めてもらおうということになったのです。
 女中に案内されて、井田さんは離れの四畳半に寝る。わたくし共はいつもの通りに八畳に寝る。女中ふたりは台所のとなりの四畳半に寝る。雨には風がまじって来たとみえて、雨戸をゆするような音も聞えます。場所が今戸の河岸《かし》ですから、隅田川の水がざぶんざぶんと岸を打つ音が枕に近くひびきます。なんだか怖いような晩だと思いながら、わたくしは寝床へはいっていつかうとうとと眠りますと、やがて父と母との話し声で眼がさめました。
「井田さんはどうかしたんでしょうか。」と、母が不安らしく言いますと、「なんだかうなっているようだな。」と、父も不審そうに言っています。
 それを聴いて、わたくしはまたにわかに怖くなりました。夜がぶけて、雨や風や浪の音はいよいよ高くきこえます。
「ともかくも行ってみよう。」
 父は枕もとの手燭《てしよく》をとぼして、縁側へ出ました。母も床の上に起き直って様子をうかがっているようです。離れといっても、すぐそこの庭先にあるので、父は傘もささないで出て行って、離れへはいって何か井田さんと話しているようでしたが、雨風の音に消されてよくも聞えませんでした。そのうちに父は帰って来て、笑いながら母に話していました。
「井田さんも若いな。何かあの座敷に化物《ばけもの》が出たというのだ。冗談じゃあない。」
「まあ、どうしたんでしょう。」
 母は半信半疑のように考えていると、父はまた笑いました。
「若いといっても、もう二十二だ。子供じゃあない。つまらないことを言って、夜なかに人騒がせをしちゃあ困るよ。」
 父も母もそれぎり寝てしまったようですが、わたくしはいよいよ怖くなって寝られませんでした。ほんとうにお化けが出たのかしら。こんな晩だからお化けが出ないとも限らない。そう思うと眼が冴えて、小さい胸に動悸を打って、とても再び眠ることは出来ません。
 早く夜が明けてくれればいいと祈っていると、浅草の鐘が二時を撞く。その途端に離れの方では、何かどたばたいうような音がまた聞えたので、わたくしははっと思って、髪のこわれるのもいとわずに、あたまから夜具を引っかぶって小さくなっていますと、父も母もこの物音で眼をさましたようです。
「また何か騒ぎ出したのか。どうも困るな。」
 父は口《くち》叱言《こごと》を言いながら再び手燭をつけて出ましたが、急におどろいたような声を出して、母をよびました。母もおどろいて縁側へ出たかと思うと、また引っ返してあわただしく行燈《あんどん》をつけました。どうも唯事ではないらしいので、わたくしも竦《すく》んでばかりいられなくなって、怖いもの見たさに夜具からそっと首を出しますと、父は雨にぬれながら井田さんを抱え込んで来ました。
 井田さんは、真っ蒼になって、ただ黙っているのですが、離れから庭へころげ落ちたとみえて、寝衣の白い浴衣が泥だらけになっています。母は女中たちを呼びおこして、台所から水を汲んで来て井田さんの手足を洗わせる。ほかの寝衣《ねまき》を着かえさせる。暫くごたごたした後に、井田さんもようよう落ちついて、水を一杯くれという。水を飲んでほっとしたようでしたが、それでも井田さんの顔はまだ水色をしていました。
「おまえ達はもういいから、あっちへ行ってお休み。」
 父は女中たちを部屋へさがらせて、それから井田さんにむかって一体どうしたのかと訊きますと、井田さんは低い声で言い出しました。
「どうもたびたび、お騒がせ申しまして相済みません。さっきも申した通り、あの四量半の離れに寝かしていただいて、枕についてうとうと眠ったかと思いますと、急になんだか寝苦しくなって、誰かが髪の毛をつかんで引抜くように思われるので、夢中で声をあげますと、それがあなた方にも聞えまして、宗匠がわざわざ起きて来て下さいました。宗匠は夢でも見たのだろうとおっしやいましたが、夢か現《うつつ》か自分にもはっきりとは判りませんでした。それから再び枕につきましたが、どうも眼が冴えて眠られません。幾度も寝がえりをしているうちに、またなんだか胸が重っ苦しくなって、髪の毛が掻きむしられるように思われますので、今度は一生懸命になって、からだを半分起き直らせて、枕もとをじっと窺いますと、暗いなかで何か光るものがあります。はて、なにか知らんと怖ごわ見あげると、柱にかけてある猿の面……。そのニつの眼が青い火のように光り輝いて、こっちを睨みつけているのでございます。わたしはもう堪らなくなりましてあわてて飛び出そうとしましたが、雨戸の栓がなかなか外《はず》れない。ようようこじ明けて庭先へ転げ出すと、土は雨に濡れているので滑って倒れて……重ねがさね御厄介をかけるようなことになりました。」
 井田さんの話が嘘でないらしいことは、その顔色を見ても知れます。
 洒落や冗談にそんな人騒がせをするような人でないこともふだんから判っているので、父も不思議そうに聴いていましたが、ともかくも念のために見届けようと言って起《た》ちあがりました。母はなんだか不安らしい顔をして、父の袂をそっと引いたようでしたが、父は物に屈しない質《たち》でしたから、かまわずに振切って離れの方へ出て行きましたが、やがて帰って来て、うなるように溜息をつきました。
「どうも不思議だな。」
 わたくしはまたぎょっとしました。父がそういう以上、それがいよいよ本当であるに相違ありません。母も井田さんも黙って父の顔をながめているようでした。
 仮面は戸棚の奥にしまい込んでおいたのを、今度初めて離れの柱にかけたのですが、誰も四畳半に寝る者はないので、その眼が光るかどうだか、小ひと月のあいだも知らずに済んでいたのですが、今夜この井田さんを寝かしたために、初めてその不思議を見つけ出したというわけです。木彫りの猿の眼が鬼火のように青く光るとは、聞いただけでも気味のわるい話です。
 なにしろ夜が明けたらばもう一度よく調べてみようということになって、井田さんを茶の間の六畳に寝かし付けて、その晩はそれぎり無事にすみましたが、東が白んで、雨風の音もやんで、八幡さまの森に明鴉の声がきこえる頃まで、わたくしはおちおち眠られませんでした。

      三

 夜が明けると、きょうは近頃にないくらいのいいお天気で、隅田川の濁った水の上に青々した大空が広くみえました。夏の初めの晴れた朝は、まことに気分のさわやかなものでございます。
 ゆうべろくろく寝ませんので、わたくしはなんだか頭が重いようでございましたが、座敷の窓から川を見晴らして、涼しい朝風にそよそよ吹かれていますと、次第に気分もはっきりとなって来ました。そのうちに朝のお膳の支度が出来まして、父と井田さんとは差向いで御飯をたべる。わたくしがそのお給仕をすることになりました。
 御飯のあいだにもゆうべの話が出まして、父はあの猿の仮面を手に入れた由来をくわしく井田さんに話していました。 「あなた一人でなく、現にわたくしも見たのですから、心の迷いとか、眼のせいだとかいう訳にはいきません。」と、父は箸をやすめて言いました。「それで思いあたることは、あの面を売った士族の人が、いつの頃に誰がしたのか知らないが、猿の面には白布をきせて目隠しをしてあったと言いました。そのときには別になんとも思いませんでしたが、今になって考えると、あの猿の眼には何かの不思議があるので、それで目隠しをしておいたのかも知れません。」
「はあ、そんな事がありましたか。」と、井田さんも箸をやすめて考えていました。「そういう訳では、売った人の居どころはわかりますまいね。」
「判りません。なにしろおとどしの暮れのことですから、その後にも広小路をたびたび通りましたが、そんな古道具屋のすがたを再び見かけたことはありませんでした。商売の場所をかえたか、それとも在所へでも引っ込んだかでしょうね。」
 御飯が済んでから、父と井田さんは離れへ行って、明るい所で猿の仮面の正体を見届けることになりましたので、母もわたくしも女中たちも怖いもの見たさに、あとからそっと付いて行って遠くから覗いておりますと、父も井田さんも声をそろえて、どうも不思議だ不思議だと言っています。
 どうしたのかと訊いてみると、その仮面がどこへか消えてなくなったというのです。井田さんが戸をこじ開けてころげ出してから、夜のあけるまで誰もその離れへ行った者はないのですから、こっちのどさくさまぎれに何者かが忍び込んで盗んで行ったのかとも思われますが、ほかの物はみんな無事で、ただその仮面一つだけが紛失したのは、どうもおかしいと父は首をかしげていました。しかしいくら詮議しても、評議しても、無いものはないのですから、どうも仕方がございません。ただ不思議ふしぎを繰返すばかりで、なんにも判らずじまいになってしまいました。
 けさになっても井田さんは、気分がまだほんとうに好くないらしく、蒼い顔をして早々に帰りましたので、父も母も気の毒そうに見送っていました。
 それが因《もと》というわけでもないでしょうが、井田さんはその後間もなくぶらぶら病いで床について、その年の十月にとうとういけなくなってしまいました。その辞世の句は、上五文字をわすれましたが「猿の眼に沁む秋の風」というのだったそうで、父はまた考えていました。
「辞世にまで猿の眼を詠むようでは、やっぱり猿の一件が崇《たた》っていたのかも知れない。」
 そうは言っても、父は相変らず離れの四畳半に机をひかえて、好きな俳諧に日を送っているうちに、お弟子もだんだんに出来ました。どうにかこうにか一人前の宗匠株になりましたのでございます。
 それから三年ほどは無事に済みまして、明治十年、御承知の西南戦争のあった年でございます。その時に父は四十一、わたくしは十七になっておりましたが、その年の三月末に孝平という男がぶらりと尋ねてまいりました。以前は吉原の幇間であったのですが、師匠に破門されて廓《くるわ》にもいられず、今では下谷《したや》で小さい骨董屋のようなことを始め、傍らには昔なじみのお客のところを廻って野幇間《のだいこ》の真似もしているという男で、父とは以前から知っているのです。それが久振りで顔を出しまして、実はこんなものが手に入りましたからお目にかけたいと存じて持参しましたという。いや、お前も知っている通り、わたしは商売をやめるときに代々持ち伝えていた書画骨董類もみんな手放してしまったくらいだから、どんな掘出し物だか知らないが、わたしのところへ持って来ても駄目だよ、と父は一旦断りましたが、まあともかくも品物をみてくれ、あなたの気に入らなかったらどこへか世話をしてくれと、孝平は臆面なしに頼みながら、風呂敷をあけてもったいらしく取出したのは、一つの古びた面箱でした。
「これはさるお旗本のお屋敷から出ましたもので、箱書には大野|出目《でめ》の作とございます。出どころが確かでございますから、品はお堅いと存じますが……。」
 紐を解いて、蓋をあけて取出した仮面をひと目みると、父はびっくりしました。それはかの猿の仮面に相違ないのです。
 孝乎はそれをどこかで手に入れて、大野出目の作なぞといういい加減の箱をこしらえて、高い値に売込もうというたくらみと見えました。そんなことは骨董屋商売として珍しくもないことですから、父もさのみに驚きもしませんでしたが、ただおどろいたのは、その仮面がどこをどう廻りまわって、再びこの家へ来たかということです。
 その出所をきびしく詮議されて、孝平の化けの皮もだんだんにはげて来て、実は四谷通りの夜店で買ったのだと白状に及びました。その売手はどんな人だと訊きますと、年ごろは四十六七、やがて五十近いかと思われる士族らしい男だというのです。男の児を連れていたかと訊くと、自分ひとりで筵の上に坐っていたという。その人相などをいろいろ聞きただすと、どうも上野に夜店を出していた男らしく思われるのです。いくらで買ったと訊きますと、十五銭で買ったということでした。十五銭で買った仮面を箱に入れて、大野出目の作でございなぞは、なんぼこの時代でもずいぶんひどいことをする男で、これだから師匠に破門されたのかも知れません。
 なんにしても、そんなものはすぐに突き戻してしまえばよかったのですが、その猿の仮面がほんとうに光るかどうか、父はもう一度ためしてみたいような気になったので、ともかくも二、三日あずけておいてくれと言いますと、孝平は二つ返事で承知して、その仮面を父にわたして帰りました。母はそのとき少し加減が悪くて、寝たり起きたりしていたのですが、あとでその話を聞いていやな顔をしました。 「あなた、なぜそんな物をまた引取ったのです。」
「引取ったわけじやない。まったく不思議があるかないか、試して見るだけのことだ。」と、父は平気でいました。
 以前と違って、わたくしももう十七になっていましたから、ただむやみに怖い怖いばかりでもありませんでしたが、井田さんの死んだことなぞを考えると、やっぱり気味が悪くてなりませんでした。父は以前の通りその仮面を離れの四畳半にかけておいて、夜なかに様子を見にゆくことにしまして、母と二人で八畳の間に床をならべて寝ました。わたくしはもう大きくなっているので、この頃は茶の間の六畳に寝ることにしていました。
 旧暦では何日にあたるか知りませんが、その晩は生《なま》あたたかく陰っていて、低い空には弱い星のひかりが二つ三つ洩れていました。おまえ達はかまわず寝てしまえと父は言いましたが、仮面の一件がどうも気になるので、床へはいっても寝付かれません。そのうちに十二時の時計が鳴るのを合図に、次の間に寝ていた父はそっと起きてゆくようですから、わたくしも少し起き返って、じっと耳をすましてうかがっていますと、父は抜足をして庭へ出て、離れの方へ忍んでゆくようです。
 そうして四畳半の戸をしずかに開けたかと思う途端に、次の間であっ[#「あっ」に傍点]という母の声がきこえたので、思わず飛び起きて襖をあけて見ましたが、行燈は消えているのでよく判りません。あわてて手探りで火をとぼしますと、母は寝床から半分ほどもからだを這い出させて、畳の上に俯伏《うつぶ》しに倒れていましたが、誰か髻《たぶさ》をつかんで引摺り出されたように、丸髪がめちやめちやにこわれています。わたくしは泣き声をあげて呼びました。
「おっかさん、おっかさん。どうしたんですよ。」
 その声におどろいて女中たちも起きて来ました。父も庭口から戻って来ました。水や薬をのませて介抱して、母はやがて正気にかえりましたが、その話によると誰かが不意に母の丸髷引っ掴んで、ぐいぐいと寝床から引摺り出したということです。
「むむう。」と、父は溜息をつきました。「どうも不思議だ。猿の眼はやっぱり青く光っていた。」
 わたくしはまたぞっとしました。
 あくる日、父は孝平を呼んでその事を話しますと、孝平も青くなって慄《ふる》えあがりました。こんなものを残しておくのはよくないから、いっそ打毀《うちこわ》して焚いてしまおうと父が言いますと、もともと十五銭で買ったものですから、孝平にも異存はありません。父と二人で庭先へ出て、その仮面をいくつにも叩き割って、火をかけてすっかり焼いた上で、その灰は隅田川に流してしまいました。
「それにしても、その古道具屋というのは変な奴ですね。あなたに面を売ったのと同じ人間だかどうだか、念のために調べて見ようじやありませんか。」
 孝平は父を誘い出して、その晩わざわざ山の手まで登って行きましたが、四谷の大通りにそんな古道具屋の夜店は出ていませんでした。ここの処に出ていたと孝平の教えた場所は、丁度かの井田さんの質屋のそばであったので、さすがの父もなんだかいやな心持になったそうです。母はその後どうということもありませんでしたが、だんだんにからだが弱くなりまして、それから三年目に亡くなりました。

 「お話はこれだけでございます。その猿の眼には何か薬でも塗ってあったのではないかと言う人もありましたが、それにしても、その仮面が消えたり出たりしたのが判りません。井田さんの髪の毛を掻きむしったり、母の髻《たぶさ》を掴んだりしたのも、何者の仕業《しわざ》だか判りません。いかがなものでしょう。」
「まったく判りませんな。」
 青蛙堂主人も溜息まじりに答えた。

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底本:影を踏まれた女 ―岡本綺堂怪談集  光文社(光文社時代文庫) 1988.10.20
入力:和井府 清十郎
公開:2001年6月18日




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