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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。





  「創作の思ひ出」より

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      4 佐 々 木 高 綱

 わたしが佐々木を書かうと思ひ立つた動機は、無論かの熊谷から來てゐる。芝居では熊谷陣屋が有名になってゐるのであるが、熊谷の発心は我が子の小次郎を敦盛の身替りに討つた為ではなく、久下直光と地境を争つて依怙の裁断を受けた爲に、それを憤慨して剃髪してしまつたのである。その時代の武士としては左もありさうなことで、如何にも熊谷と云ふ人らしい結末である。わた しは熊谷陣屋の芝居を見て、例の「花の盛りの敦盛を討つて無常を悟りしか」などといふ文句を聴くたびに、あゝいふ風でない熊谷を一度書いて見たいと常に思つてゐた。が、何分にも芝居の方では彼の熊谷が昔から売り込んでゐるので、今更新しく書いても普通の観客が承知しまいと云ふ懸念があるので、そのまゝに過ぎてゐたが、それが基で更に佐々木を書かうと思ひ立つたのである。熊谷も佐々木もほゞ同一の径路を辿つた人で、いづれも不平の出家遁世である。
 無論、佛教の感化でもあらうが、日本の人の遁世はいつれも無常を悟つたと云ふことになつてゐる。併し熊谷や佐々木のたぐひはさうでない。こんな馬鹿々々しい世の中に立つてゐられるものかと、我から此の世に愛想を竭して、威勢よく追ん出て行つたのである。この料簡は宗教心に乏しい現代分人間にも理解が出來るだらうと思ふ。我々は花の散るのを見て、飛花落葉とか諸行無常とか云ふやうな考へを起す場合は滅多にないが、余り馬鹿々々しいことが続くと實に癇癪が起つて、この世の中がほと/\忌になつて來る場合が往々にある。所詮はどちらも一種の厭世であるが、前者と後者とは其の意味が違ふ。一は世を果敢なむもの、一は世を憤るもの。両者ともに此世に佳むに堪へない心持は一つであるが、前者は消極的、後者は積極的の相違がある。西行のやうな人は恐らく前者であらうが、熊谷や佐々木のたぐひは後者、即ち我々に近い方である。わたしは普段から熊谷や佐々木にも同情してゐる。
 そんなことから此芝居を書いた。高綱が不平の結果遁世すると云ふだけが事實で、他は総てわたしの作り事である。頼朝の上洛云々とあるのは、高綱の遁世を促す近因としたのである。頼朝が旗揚げの時に、高綱が馬士を殺してその馬を奪つたことは有名の事實であるから、その馬士の娘と伜とを出して多少の波瀾を作つたのであるが、ちつとお芝居らしい味もある。併しこれでも當時の一般観客にはまだ寂しいやうに思はれた。普通の観客は内面のことは決して注意しない。たゞ何処までも外面の動作を標準として、芝居の善悪を評価するから、自然の結果、どうしても上滑りのした淺いものになり勝である。
 佐々木が不平の根本は石橋山で頼朝の身替りに立つた時に、頼朝はその恩賞として後日に日本を半分やらうと云つた。勿論これは出來ない相談の約束であつたが、果して頼朝はこれを實行しなかつたので、佐々木は大いに憤つて世を捨てた。とかくに消極的の出家遁世の多い鎌倉時代において、、佐々木のやうな態度もまた是認されたものと見えて、源準盛衰記の作者も「髪切つて高野山にぞ籠りにける、善にも悪にも猛かりける心なり。」と云ひ、その勇猛を讃美してゐる。したがって此の劇も高綱ほどの武将が出家するからと云って、哀れとか、悲しいとか、寂しいとか云ふ氣分は少しも現はれず、徹頭徹尾その勇猛心を発揮したものと御覧を願ひたい。センチメンタリズムは一切抜きである。  主君の頼朝を嘘つきと罵る佐々木の態度に就いては、観る人々の議論があらう。彼に封して同情を懐くも、反感を懐くも、それは銘々の御随意で、作者の私が彼是れ云ふべきではない。唯この舞台の上に一個勇猛の人間を認めて下されで宜しいのである。      (昭和一〇・一二)


底本:岡本綺堂 「甲字楼夜話」綺堂劇談316−1319頁
  青蛙房 昭和31年2月10日
入力:和井府清十郎
公開日:2007年2月12日

おことわり
 原文の旧字のようになっていない箇所があります。






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