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もくじ
1.石角春之助 宛 昭和12年9月20日付.花井お梅事件の記録の訂正
2.岸井良衛 宛 大正15年6月28日付 劇作家を志すものは……劇作家の戒め
3.額田六福 宛 昭和3年10月18日付 気力の落ちた綺堂、自己の今後を愁う
4.額田六福 宛 昭和4年10月4日付 雑誌「舞台」刊行の意気込み
5.額田六福宛 大正10年2月7日付  作家の悩み
6.北条秀司宛 昭和13年9月7日付 晩年、戦地派遣の弟子へ
7.大村嘉代子宛 大正9年10月14日付 甥を亡くした直後の手紙
8.大村嘉代子宛 大正9年10月22日付 甥を亡くした直後の手紙・2
9.大村嘉代子宛 昭和7年9月26日付 劇作の指導 「一葉」芝居
10.大村嘉代子宛 昭和7年10月2日付 病気近況、上目黒の家の住所の連絡



1.岡本綺堂より石角春之助宛

・岡本綺堂の手になる書簡の著作権はむろん岡本綺堂にあるが、今日においては著作権関係はクリアされている。ただ、名宛人の石角氏が公開する意図を以って出版されているので、この他のややこしい法律問題も生じないだろうと考えて、綺堂の書簡部分をここに公開させていただくことにした(綺堂事物店主 和井府 清十郎)。
「次に掲げて、筆者の誤りをたゞすと共に、後の世の人の為にご参考に供することにする。」(石角春之助「綺堂先生の書簡」『江戸と東京』4巻3号238頁(昭和13年4月刊))という趣旨で、綺堂から、雑誌「江戸と東京」の編集者であった石角春之助氏宛の書簡が石角氏自身によって出版・公開されている。
・また、書簡の文章の体裁は、同誌のままとした。

 昭和12年(注*) 9月20日付 書簡 (住所・消印など不明)

拝啓、当年は随分きびしき残暑に御座候処御障りもなくて大慶に奉存上候
「江戸と東京」毎号御恵贈にあづかり面白く拝見いたし居候
九月号に御執筆の花井お梅の一件は明治二十六年には無之、明治二十年六月九日の出来事に御座候 その判決は同年十一月十一日にて御記載の如く無期徒刑に御座候
その翌年、即ち明治二十一年五月、鳥越の中村座にて黙阿弥作の「月梅薫朧夜」を上演、五代目菊五郎がお梅、先代松助が峰吉を勤め評判は好かりしも不入に終り申候
お梅は日露戦争の前年即ち明治三十六年四月十七日、四十一歳にて出獄したるやうに記憶いたし候
右思ひ出で候まゝ御参考までに一筆申上候
秋冷俄に相催し候間朝夕御大切に被遊度候先は右申上候     早々
 九月二十日
                          岡 本 綺 堂
石 角 様
    座 右


 
注* 本書簡の掲載誌「江戸と東京」4巻3号には、書簡の年が明らかにされていない。このため、同誌が昭和13年4月の発行であるため、石角氏の上記文章より見て、これより以前の昭和12年のものと推測した。
 花井お梅事件の考証だが、あくまで正確にと思う綺堂の考えが出ていますね。明治20年6月9日の事件、裁判の開始、中村座での黙阿弥によるお梅事件の芝居「月梅薫朧夜」(綺堂は5月としているが、4月28日との説もあり)、明治36年4月に市谷監獄を出獄など、その記憶は正しい。花井お梅事件については、別に触れていますのでこちらをご覧ください。


2.岡本綺堂より岸井良衛宛

劇作家を志すものは楽屋への出入りをするべきではない ……劇作家の戒め
綺堂門下への入門間もない、若い学生の岸井良衛氏の問いかけに返書したもの。

 大正15年6月28日付. 住所、消印など不明

 拝復 舞台稽古を見たいという御手紙でしたが、まあそんな事は止した方がいいと思います。
 由来、観劇以外に劇場に出入することは見合せる方がいいと思います。芝居は観客の一人として正面から見物していればいいので、それで十分に研究は出来ます。劇場の内部に入り込んだり、劇場関係者に接近したりするのは、努めて避けなければいけません。里見君が「芝居の魅力」と題して、真に劇を研究しようと思う人は決して劇場の楽屋などに入り込んではならない、その空気の魅力に因て堕落すると説いていましたが小生も同感です。舞台稽古を見たり、劇場関係者と懇意になったりして、劇場の内部の消息に通じたように考えるのは、いわゆる芝居道楽の人間のすることで、真剣に劇を研究する者の取るべき道ではありません。小生は門下生を堅く戒めて、普通の観劇以外は劇場内へ入り込むことを禁じています。昔と今とは時代が違います。劇は書斎で研究すべき時代となりました。参考のために見物したければ、見物席から見ていればいいのです。かえすがえすも芝居道楽の真似をしてはいけません。舞台稽古などを見たところで、作劇上何の利益もありません。その時間を利用して書物の一冊も読んだ方が遥かに有益です。
先は右御返事まで、早々


出典:岡本綺堂戯曲選集栞(青蛙房)および岸井良衛・一つの劇界放浪記(青蛙房)より.

名宛人の岸井氏のコメントをついでに引用する。
  「これは大正十五年六月廿八日付の岡本先生の手紙である。この手紙を受取つた当時十八歳の私は、実にびっくりしてしまった。大いに勉強をするつもりで御願いしたのに、まさかこんなにしかられるとは思わなかった。しかし、日がたつにつれて此の手紙が実に大切な事を云っていることが判って来た。」(岸井良衛・一つの劇界放浪記(青蛙房)より)
 いやぁ、劇作に対する厳しさと若き弟子に対してもあくまで丁寧さと、ありますね。

3.岡本綺堂より額田六福宛

柳浪の葬儀参列、不眠症・神経衰弱と気力の落ちた綺堂、自己の今後を愁う……。


 昭和3年10月18日付. 住所、消印など不明


拝復 秋雨瀟々、又もや欝陶しい天気になりました。それでも昨日が好晴で結構でした。
 昨日、広津柳浪君の葬式に行きましたが、余り賑かでないので淋しく感じられました。柳浪君も「今戸心中」「河内屋」を書いた当時は殆ど満都を風擁する勢いでしたが、今は殆ど忘れられて仕舞っているのです。その人も、その作も……。所詮は一時的の幻影に過ぎないような仕事に、没頭努力しているのは余りに果敢ないような気もしました。よほどの大芸術家でないかぎりは長い生命は保ち得ますまい。黙阿弥とてもここ十年か廿年くらいの生命に過ぎないだろうと察しられます。
 春陽堂の戯曲全集、小生の分は十二月に出ます。現在は一人で一冊を占めてひどく偉らいようですが、十年の後にはそれが二分の一となり、廿年の後にはそれが三分の一、或いは四分の一になることを考えると、更に淋しい気がします。
 九月下旬頃から又もや神経衰弱に罹って兎角に不眠症で困ります。昨夜などは柳浪君の事などを考えたせいもありますが、今朝まで全く眠られませんでした。
 老衰の病躯に鞭って、一時的の仕事にあくせくするのも、なんだか詰まらないような気もしますから、或いは向う一年間ぐらいは全然筆硯を廃して休養してみようかとも思っています。神経衰弱のせいもありましようが、自分の仕事に対して寂蓼を感じるというのは最も悪いことです。その寂蓼を破るには、一旦休業した方がよいかとも思っています。先は取留めもなしに早々不一
 昭和三年十月十八日
               岡 本 綺 堂
  額 田 六 福 様


出典:岡本綺堂戯曲選集栞(青蛙房)「弟子への手紙(五)」

日記によると、広津柳浪の葬儀は、前日の10月17日、谷中であった。生前にはしばしば会いもし、明治26年の6月には飯坂温泉で遊んだこともあるという。一時期著名だった柳浪の死に直面して、知人を亡くした寂しさと、劇作家の浮沈に自分の姿をも兼ね合わせて慨嘆したような内容である。おそらく元園町の自宅から額田氏宛てに10月18日に書かれたものである。

4.岡本綺堂より額田六福宛

雑誌「舞台」刊行の意気込み……逗留先の湯河原から弟子の額田氏宛


 昭和4年10月4日付. 住所、消印など不明


 御手紙拝見、当地一日二日は快晴、三日は雨、四日も雨、閑寂と云えば云うものの二日つづきの雨は少しく欝陶しくなりました。
  草の実や河原の石に雨の糸
  鯛喰うて寝転んでいても旅の秋

      ○
 雑誌の件に十日会合の様、然るべく御協議をねがいます。
 雑誌の名、小生も「舞台」を考えていました。なまじいに自由などと冠らせるのは却って面白くないようです。大阪の同人雑誌などを眼中に置く必要はありません、森(ほのほ)君に一応断わって「舞台」と決定したらどうですか。但しいつも云うことですが雑誌を発行する以上、会員に怠け者が多くては所詮成立しないと思います。先決問題としてよくそれを確かめて置く必要があります。
 実際ふたば会員には生きているか死んでいるか分らない[注「生きて……分からない」マデ白丸傍点アリ]――小生は敢て云います――人間が多いのですから、よほどシッカリした覚悟を決めて貰わないと困ります。
もう一つ、十日の席上で会員に云い聞かせて貰いたいのは今度発行の雑誌の編輯については小生が絶対的の干渉を加えるということです。非干渉と思っていたら大間違いです。たとい一枚の原稿でも、小生の検閲を経ずして掲載することを禁じます。会員の作と雖も不可と認むるものは絶対に掲載を許しません。その結果、半年に一回も掲載を得ない人が出来るかも知れませんが、それはあらかじめ覚悟していて貰いたいと思います。
 もし又、そんなにやかましくては困るというならば、岡本綺堂主宰ということを離れて単に嫩会員の有志者の計画たとえば額田六福を中心として計画したというたぐいに改めて、いわゆる同人雑誌にして発行しては如何、小生が仮りにも一つの雑誌を提げて起つた以上、小生としても大いに覚悟を要さなければなりません。反古のような原稿は容赦なく握り潰さなければなりません。
 それらの点もよく考慮の上、協議の末、いずれとも然るべきように願います。早々
 (昭和四年十月四日夜)  湯河原にて  岡本 綺堂
 額 田 六 福 様


出典:岡本綺堂戯曲選集栞(青蛙房)「弟子への手紙(四)」月報5号(1959年5月30日)

額田六福氏は、早くに綺堂門下となり、早稲田大学での劇作家である。目白や田端にも住居されたようだ。手紙の内容は、門下生を中心とした演劇研究の成果を発表する雑誌、のちの『舞台』の刊行計画の打ち合わせのようである。綺堂の意気込みが知れて、興味深い。


5.岡本綺堂より額田六福宛

作家の悩み


 大正12年2月7日付.消印、宛先住所、発信住所いずれも不明。


拝復 御手紙拝見仕候、色々御煩悶の趣お察し申上候、先便にも申上候如く煩悶は小生も大煩悶、しかしどうで人間は一生苦しむが当然にて、モウ好いといふ時節は有之まじく、モウ好いと安心してゐられる人は寧ろ不幸かとも存じられ申候、向上心に駆らるるものに何処まで行ってもモウこれで好いといふ日は無い筈に御座候、煩悶が寧ろ我々の生命かとも存じられ申候、併しいたづらに煩悶しても致し方無之、自分として出来るだけのことをして、その間に一種の満足と安心とを求むるより外無之候、精一杯に遣つてそれでいけないのは何うにも致し方無之候、とは云ふものの大抵の場合、人間は自分として出来るだけの事を遣つてゐないものに御座候、自分では可なり努力してゐるやうに感じても、冷静に考ふれば、生ぬるい好い加減のことをしてゐる場合が屡々有之候間、ほんたうに出来るだけを精一ぱいに遣る注意が肝要に御座候、その以上は天賦の才分にて、何とも致し方無之とあきらむるより外無之候
無暗にあせりて健康を害するも不得策、要するに一生の仕事と考へて余りあせらずに不断の努力が肝要と存じ居候
余は拝眉の節、先は右まで 早々
 (大正十年)二月七日夜       岡本 綺堂拝
額 田 様 坐右
  去四日は栗原(門下生)の一週忌に御座候、栗原といひ英一(甥)といひ、若き者どもの運命、今更に悲まれ申候


文中の()は原文のままか、後の編集か不明。
出典:岡本綺堂戯曲選集第1巻付 月報8号(昭和34年11月15日、青蛙房)「弟子への手紙(七)」
 作家としての悩みと心構えを書いたものですね。スランプなどない、日々の努力と言っているようです。私も、反省するところ大です。

6.岡本綺堂より北条秀司宛

晩年の手紙 報道班員として戦地派遣の弟子へ


 昭和13年9月7日付.消印、宛先住所、発信住所いずれも不明。


 拝啓 兎角に不穏の天気つづきで困ります。額田(六福)よりの通知によれば、海軍側従軍の件御承諾の由、結構に存じます。  右の一件は長谷川伸氏より額田まで内相談があったる由で、海軍側でどれだけの扱いをしてくれるか、少佐待遇か、大尉待遇か、或いはお客様扱いか、その辺は小生も一向に存じません。したがって金が要るのか要らないのか、それもまだ判りませんが、恐らく金は要らず、一切海軍側で案内してくれるのではないかと察せられます。
 舞台社同人、種々の事情で出られない者もあり、かたがたあなたを推薦する事にしたのですから御遠慮には及びません。あなたの御都合さえ宜しく、会社の方にも差支えがなければお出で下さい。
 唯いささか懸念しているのは、あなたが第一補充であることで、昨今又もや大量輸送を始めています。実は森田(信義)も候補に挙げられたのですが、彼は予備少尉で此際あぶないというので見合せたような次第、さりとて果して召集が来るやら来ないやら、それも判らず、一体この旅行、凡そ幾日間ぐらいの予定か――恐らく一二カ月だろうと察していますが――それを確かめた上で、ハツキリ御決定なさるが宜しいと思います。万一、留守中に召集などが来ると面倒ですから――
 長谷川氏の話では、或いは二人ぐらい行かれるかも知れないと云うのだそうです。果してそうならば、小生は更に岡田禎子を推薦したいと思っています。併し陸軍と違いますから「軍艦内に猫と女は困る」と云われるかも知れません。その暁には岸井(良衛)か石井(源一郎)を出したいと思っています。
 いずれにしても、長谷川氏の話がもっと進行した上で改めて申上げます。
 御母堂や令閨にもよろしく御つたえ下さい。先は右申上度  草々不一
  九月七日午後
                   岡 本 綺 堂
   北 条 秀 司 様 坐右


文中の()は原文のままか、後の編集か不明。
出典:岡本綺堂戯曲選集第8巻付 月報第7号(昭和34年9月15日、青蛙房)「弟子への手紙(六)」。
 発行者の岡本経一氏の記事によると、上の手紙は昭和13年9月に書かれたものである。綺堂の死の前年で寝たり起きたりの病臥生活中であったという。当時、軍は頻繁に文学者を報道班員として戦地に送っていた背景事情があるようだ。綺堂新歌舞伎の継承者として目されていた、劇作家北条秀司宛の手紙である。北条氏は当時は鉄道会社に勤務していたようだ。

7.岡本綺堂より大村嘉代子宛

甥を亡くした直後の手紙


 大正9年10月14日付 元園町、消印、宛先住所いずれも不明。


 拝啓 昨日はわざ/″\御悔みに御越し下され御礼申上候
陳者 雄辮肚発行の婦人倶樂部にてあなたに何か小読を願ひ度旨申越候間、御住所を申聞かせ置き申候 就ては同社より何か御願ひに参上仕候節は何分よろしく御願申上候 先は右申上度
早々


書簡中の宛名、自署は存在したと思われるが、後の編集によって削られたか不明。
出典:岡本綺堂『弟子への手紙』(昭和33年4月10日発行、青蛙房)
 大村嘉代子は、明治17年生まれで、明治の末年に入門した、岡本綺堂の一番弟子であり、大正から昭和にかけて活躍した劇作家。旧小田原藩士の父は後に帝国議会第1回の議員となる。日本女子大学国文学科第一回の卒業。発行者の岡本経一氏の解題によると、大正4年から昭和13年までの間に329通あるようだ。
 上の手紙は、甥の石丸英一(18歳という)を病気で亡くした(大正9年10月9日)直後のもの。

8.岡本綺堂より大村嘉代子宛

甥を亡くした直後の手紙・2


 大正9年10月22日付 元園町、消印、宛先住所いずれも不明。


 拝復 英一死去に就て御從弟より懇々の御書面拝読、いろ/\御心配相かけ恐縮の外無く候
實は御教示の肉食は英一到底その分量だけを摂取し難しと申候て好加減に食用いたし居候やうの次第、したがつて彼の不幸と肉食療法との間に何等の關係も無之と存じ居候間、かならず御心配無之やう得三氏へもくれ/″\もよろしく御つたへ被下度、それが爲に同氏の自信をくつがへすやうのこと無之とは萬々推察いたし居候へども、返す/″\も英一の不幸は肉食療法とは何の關係もなきことを御通知下され度、幾重にも御願申上候
 毎夕新聞は小生も一読、ドウで好加減のことを書くは新聞紙の習、泥坊の相談でもしたと云はざる限りは一笑に附して置かるゝが宜しく、決して御取消しには及ばぬ事に御座候 本日菊岡も來りてその新聞を一読失笑いたし居候
 婦人倶樂部原稿御つかはし下され候趣、就てはもし原稿料の事など問合せにまゐり候はゞ御遠慮なく仰せなさるがよろしく候
 去十五日青山へ墓参にまゐり候処、英一墓前に見事なる生花一対をどなたかお供へ下され候
恐らくあなた様なるべしと存じ候間あらためて御礼申上候
 時下御身御大切に被遊度、先は取りあへず右申上度 早々

  二十二日夜、靖國神社の花火の音を聞きつゝ
   英一追悼三句
  絵を見れば絵も薄墨や秋の花
  さびしさは絵にもかゝれず暮の秋
  秋の雛なんにも云はず別れけり


書簡中の宛名、自署は存在したと思われるが、後の編集によって削られたか不明。
出典:岡本綺堂『弟子への手紙』(昭和33年4月10日発行、青蛙房)
 上の手紙は、甥の石丸英一(18歳という)を病気で亡くした(大正9年10月9日)直後のものだが、英一は美術学校へ行く準備をしていて、川端画学校に通っていたという。

9.岡本綺堂より大村嘉代子宛

劇作の指導 「一葉」芝居


 昭和7年9月26日付 元園町、消印、宛先住所いずれも不明。


 拝啓 昨夜は失礼、取りあへず一葉を読んでみました。少し淋しいかと思はれますが、題材が題材ですから已むを得ますまい。  そこで、一個所どうしてもいけないことは、一葉の母がよし原へ仕立物をとゞけに行つて、それから小石川へ金策に行つて断られて帰つて來た――それが僅かに原稿紙八九枚の間とは、如何に芝居でもあまりに嘘らしく思はれます、かういふ無理は断然避けなければなりません。
 この無理を救ふには、最初に母親を出さないと好いのですが、それでは芝居の運びに困るでせう。小石川の西村といふのは事實でせうが、芝居としては小石川に限らずモツと近いところ――根岸か坂本か、上野ぐらゐにしたら好いでせう、小石川では遠過ぎます。尤も西村の近所に住んでゐるのでは面白くないのでせうが、――この無理を何とか救ふ手段を御一考。
 先づ普通の行き方であると、二十二枚目(釜の下を燃す)件で一旦幕をおろし、更に再び幕をあけると姉妹が酒の支度をしてゐる、そこへ母が帰るといふ事になるのですが――それとも幕をおろさずに済む工夫があれば更に結構です。題は樋口一葉といふよりも、たけくらべの作者といふ方が好いやうに思はれますが如何。
 原作のみどり、信如など、いづれも蔭にしたるも淋しい原因だと思はれます、矢はりこれ等のモデルを舞台の上に出してみせた方がよいと思ひます、さもなければたけくらべを書くと云つても何の事か判らないでせう。要するに原作の一部を舞憂の上にあらはし、それを一葉が書くことにしなければなりますまい。文學を一旦思ひ切つた彼女が再び、たけくらべの筆を執るには、その動機をハツキリ見せなければなりません、単に信如が來た、みどりが通つたといふ噂ばかりでは、力が不足でせう。信如を知らず、みどりを知らない観客には、何のことか全然不可能の芝居になりさうです。先は右申上度 早々


書簡中の宛名、自署は存在したと思われるが、後の編集によって削られたか不明。
出典:岡本綺堂『弟子への手紙』(昭和33年4月10日発行、青蛙房)
 結婚して家庭婦人でもある大村嘉代子には、手紙による劇作指導という次第のようだ。大村嘉代子は、樋口一葉研究家でもあった。彼女を劇作に仕立てたものを綺堂が批評するという文面である。

10.岡本綺堂より大村嘉代子宛

懸賞賞金と病気近況、上目黒の家の住所の連絡


 昭和7年10月2日付 元園町、消印、宛先住所いずれも不明。


 拝復 大阪の賞金御受領の趣、結構でした。勿論呉れるのが當然ですが、先づ一段落付いて結構に存じます。
 小生口内炎も慶応病院へ行つてからよほど経過がよろしいやうです。併し何だか凉しく暑く不順の陽氣には閉口です。
 大東京も新聞でいふほどの景氣もなく、麹町では提灯さへも懸けませんでした。
 目黒の宅は市内編入のために左の如く変更しました。
  目黒区上目黒一丁目百十二  [#「1丁目」に白マル傍点]
 当分はどこでもこの変更で面倒でせう、拙宅へも変更の通知が已に十数通来ました、知人宿所帳訂正が一仕事です。呵々
 先は右申上度 早々

 昨夜の、歌舞伎座の舞台稽古十時頃に済んだので助かりました。


書簡中の宛名、自署は存在したと思われるが、後の編集によって削られたか不明。
出典:岡本綺堂『弟子への手紙』(昭和33年4月10日発行、青蛙房)

(以下、続く予定)
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大正期の『演芸画報』の表紙より「藤娘」


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