もくじ
1.岡本綺堂より石角春之助宛 ・岡本綺堂の手になる書簡の著作権はむろん岡本綺堂にあるが、今日においては著作権関係はクリアされている。ただ、名宛人の石角氏が公開する意図を以って出版されているので、この他のややこしい法律問題も生じないだろうと考えて、綺堂の書簡部分をここに公開させていただくことにした(綺堂事物店主 和井府 清十郎)。 ・「次に掲げて、筆者の誤りをたゞすと共に、後の世の人の為にご参考に供することにする。」(石角春之助「綺堂先生の書簡」『江戸と東京』4巻3号238頁(昭和13年4月刊))という趣旨で、綺堂から、雑誌「江戸と東京」の編集者であった石角春之助氏宛の書簡が石角氏自身によって出版・公開されている。 ・また、書簡の文章の体裁は、同誌のままとした。
注* 本書簡の掲載誌「江戸と東京」4巻3号には、書簡の年が明らかにされていない。このため、同誌が昭和13年4月の発行であるため、石角氏の上記文章より見て、これより以前の昭和12年のものと推測した。 花井お梅事件の考証だが、あくまで正確にと思う綺堂の考えが出ていますね。明治20年6月9日の事件、裁判の開始、中村座での黙阿弥によるお梅事件の芝居「月梅薫朧夜」(綺堂は5月としているが、4月28日との説もあり)、明治36年4月に市谷監獄を出獄など、その記憶は正しい。花井お梅事件については、別に触れていますのでこちらをご覧ください。 2.岡本綺堂より岸井良衛宛 劇作家を志すものは楽屋への出入りをするべきではない ……劇作家の戒め 綺堂門下への入門間もない、若い学生の岸井良衛氏の問いかけに返書したもの。
出典:岡本綺堂戯曲選集栞(青蛙房)および岸井良衛・一つの劇界放浪記(青蛙房)より. 名宛人の岸井氏のコメントをついでに引用する。 「これは大正十五年六月廿八日付の岡本先生の手紙である。この手紙を受取つた当時十八歳の私は、実にびっくりしてしまった。大いに勉強をするつもりで御願いしたのに、まさかこんなにしかられるとは思わなかった。しかし、日がたつにつれて此の手紙が実に大切な事を云っていることが判って来た。」(岸井良衛・一つの劇界放浪記(青蛙房)より) いやぁ、劇作に対する厳しさと若き弟子に対してもあくまで丁寧さと、ありますね。 3.岡本綺堂より額田六福宛 柳浪の葬儀参列、不眠症・神経衰弱と気力の落ちた綺堂、自己の今後を愁う……。
出典:岡本綺堂戯曲選集栞(青蛙房)「弟子への手紙(五)」 日記によると、広津柳浪の葬儀は、前日の10月17日、谷中であった。生前にはしばしば会いもし、明治26年の6月には飯坂温泉で遊んだこともあるという。一時期著名だった柳浪の死に直面して、知人を亡くした寂しさと、劇作家の浮沈に自分の姿をも兼ね合わせて慨嘆したような内容である。おそらく元園町の自宅から額田氏宛てに10月18日に書かれたものである。 4.岡本綺堂より額田六福宛 雑誌「舞台」刊行の意気込み……逗留先の湯河原から弟子の額田氏宛
出典:岡本綺堂戯曲選集栞(青蛙房)「弟子への手紙(四)」月報5号(1959年5月30日) 額田六福氏は、早くに綺堂門下となり、早稲田大学での劇作家である。目白や田端にも住居されたようだ。手紙の内容は、門下生を中心とした演劇研究の成果を発表する雑誌、のちの『舞台』の刊行計画の打ち合わせのようである。綺堂の意気込みが知れて、興味深い。 5.岡本綺堂より額田六福宛 作家の悩み
文中の()は原文のままか、後の編集か不明。 出典:岡本綺堂戯曲選集第1巻付 月報8号(昭和34年11月15日、青蛙房)「弟子への手紙(七)」 作家としての悩みと心構えを書いたものですね。スランプなどない、日々の努力と言っているようです。私も、反省するところ大です。 6.岡本綺堂より北条秀司宛 晩年の手紙 報道班員として戦地派遣の弟子へ
文中の()は原文のままか、後の編集か不明。 出典:岡本綺堂戯曲選集第8巻付 月報第7号(昭和34年9月15日、青蛙房)「弟子への手紙(六)」。 発行者の岡本経一氏の記事によると、上の手紙は昭和13年9月に書かれたものである。綺堂の死の前年で寝たり起きたりの病臥生活中であったという。当時、軍は頻繁に文学者を報道班員として戦地に送っていた背景事情があるようだ。綺堂新歌舞伎の継承者として目されていた、劇作家北条秀司宛の手紙である。北条氏は当時は鉄道会社に勤務していたようだ。 7.岡本綺堂より大村嘉代子宛 甥を亡くした直後の手紙
書簡中の宛名、自署は存在したと思われるが、後の編集によって削られたか不明。 出典:岡本綺堂『弟子への手紙』(昭和33年4月10日発行、青蛙房) 大村嘉代子は、明治17年生まれで、明治の末年に入門した、岡本綺堂の一番弟子であり、大正から昭和にかけて活躍した劇作家。旧小田原藩士の父は後に帝国議会第1回の議員となる。日本女子大学国文学科第一回の卒業。発行者の岡本経一氏の解題によると、大正4年から昭和13年までの間に329通あるようだ。 上の手紙は、甥の石丸英一(18歳という)を病気で亡くした(大正9年10月9日)直後のもの。 8.岡本綺堂より大村嘉代子宛 甥を亡くした直後の手紙・2
書簡中の宛名、自署は存在したと思われるが、後の編集によって削られたか不明。 出典:岡本綺堂『弟子への手紙』(昭和33年4月10日発行、青蛙房) 上の手紙は、甥の石丸英一(18歳という)を病気で亡くした(大正9年10月9日)直後のものだが、英一は美術学校へ行く準備をしていて、川端画学校に通っていたという。 9.岡本綺堂より大村嘉代子宛 劇作の指導 「一葉」芝居
書簡中の宛名、自署は存在したと思われるが、後の編集によって削られたか不明。 出典:岡本綺堂『弟子への手紙』(昭和33年4月10日発行、青蛙房) 結婚して家庭婦人でもある大村嘉代子には、手紙による劇作指導という次第のようだ。大村嘉代子は、樋口一葉研究家でもあった。彼女を劇作に仕立てたものを綺堂が批評するという文面である。 10.岡本綺堂より大村嘉代子宛 懸賞賞金と病気近況、上目黒の家の住所の連絡
書簡中の宛名、自署は存在したと思われるが、後の編集によって削られたか不明。 出典:岡本綺堂『弟子への手紙』(昭和33年4月10日発行、青蛙房) (以下、続く予定) |
大正期の『演芸画報』の表紙より「藤娘」 |