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書生(壮士)芝居、東京へ

    お断り
     * 各年月の各座の所演題目は網羅的ではありません。代表的なもののセレクションです。
    * 本文中、図も含めて未完成の部分がありますが、次第に追加していく予定です。(04/22/2002)
 自由民権運動は、その啓蒙策の一つとして、演劇・芝居に着目する。演劇による啓蒙効果が大きいと考えた訳である。したがって、この壮士芝居または、そのなりから書生芝居とも呼ばれた演劇俳優は、新聞記者かもしくはそれに近い人たちであった。
 明治28年、どちらかといえば、旧劇派の福地桜痴は「国民の友」紙上につぎの演劇論を書いている。
 
    「思ふに団菊左三名百歳の後、その後勁たるべき者は、今の俳優中に殆ど無し、強て之を求めば、現時の壮士芝居俳優中より出づるならん」
明治28年といえば、下に見るように、日清戦争後で、川上音二郎の新派劇が旧派の牙城、そして桜痴自身が築いた歌舞伎座に進出した時期である。その桜痴自身のこの評に、彼のジャーナリスト・劇作家としての器量と視野の広さを認めたい。

しかし、書生芝居は順風満帆であったのではない。旧劇・歌舞伎との競争、官憲による干渉・弾圧、旧劇ファンからの偏見・批判とも戦わなければならなかった。新劇は眉をひそめられ、岡鬼太郎は「ドタバタ劇」と酷評し、わが岡本綺堂も、観劇の後「マッタクイケナイ」ものであったと激評した。

にもかわわらず、乾坤一擲、書生芝居・新派劇に利したのは、彼らの精一杯の威勢のいい芝居と、高山樗牛言うところの「社会の気運」であった。
 
    「社会の気運とは一般人心の傾向に外ならず。……勿論壮士演劇は今日の趣好に向て十分なる満足を与ふるに非ず。吾等を以て是を見れば、新演劇は決して一時の反動にみに非ず、吾等は将来国劇の要素と為すに足るべきものゝ慥に其中に存するを認む。壮士俳優の成功は実に是の要素にあるに依る。」(「演劇界の風潮と劇評家の責任」(明治28年8月発表)、樗牛全集第2巻所収)
歌舞伎全盛の東都に進出した、興行としての勇気と旧劇にはない身を挺した演劇の迫力は評価せざるを得ないのではなかろうか。

他方、旧劇界も、明治初期から演劇改良が叫ばれながらそれが遅々として果たせず、とくに団菊左なき明治37年以降は閑古鳥が鳴き、深刻な沈滞ムードにあった。

     もくじ
     1.ルーツ
     2.書生芝居・川上音二郎、東上
     3.本郷座時代―新派劇の全盛期
     4.新劇俳優の落魄
     5.書生(壮士)芝居関連リンク



1.ルーツ

 岡本綺堂は、中江兆民居士からの「直話」として、つぎのように記録している。両者が新聞記者という職業柄、どこかで兆民からこれを直接聞いたものであろうと思われる。

自由党
日本立憲政党新聞 明治16年7月

中江兆民は自由党の幹部であったが、明治20年12月公布の保安条例のせいで、民権派、とくにその主流である旧土佐系は、東京から立ち退きを命ぜられている。中江(篤介)兆民居士もその一人で、大阪にあった(岡本綺堂・ランプの下にて(岩波文庫)176頁)。




角藤定憲の「大日本壮士改良演劇会」

明治21年12月3日、大阪西区、新町座において「日本改良演劇」と名し、旗揚げしたのが、壮士芝居、新派劇(歌舞伎を旧劇という)の最初であるといわれている。

角藤定憲(すどう さだのり)は、岡山士族の出で、自由党壮士で、中江兆民の発行する東雲新聞の新聞記者であった。兆民が、角藤に芝居を進め、角藤の「大日本壮士改良演劇会」を後援した。時に、角藤、23歳。

sudo-s.jpg 旗揚げ興行の1番目は、「耐忍之書生貞操佳人」 車夫から身を起こし、代言人(弁護士)となる、出世物語である。これは、角藤の自伝的小説「剛胆之書生」を芝居化したものである。2番目が、「勤王美談上野曙」であった。これは、馬城大井健太郎(自由党左派)の大阪事件に取材したものである。こちらの方は、自由党の事件を扱っており、時代こそ幕末に置き換えられ、愛国青年の苦悩を描き、幕吏の娘が恋慕するはなしという。その意味では政治的でもある。幸徳秋水の手になるものとも云われている。

角藤一座10数名らは、翌年22年は、京都の角座、大津、八幡、岡山、高松、丸亀、広島、萩、馬関(下関)、博多、熊本、徳島、姫路、堺、伏見、名古屋と巡業して、24年8月に大阪、浪速座で所演した。「大日本壮士演劇会」と称した。

専属の作者はもたず、脚本も、「口立」芝居のようなもので、せいぜい角藤の手になるものだったようだ。秋葉太郎・日本新劇史上巻273頁(昭和30.12、理想社)。

明治27年6月、川上一座に後れて、東京へ進出した。
彼らの演劇のメッセージあるいは政治性については
「立志思想に民権思想を含ませた程度」(秋葉太郎「日本新劇史上巻」268頁)
「壮士芝居を反政府的な性格のものとすることはできない」
興行的には大体において成功であったという。

明治40年1月、神戸大黒座での巡業中に、41歳で死去。

東京進出が川上に遅れ、人気をさらわれていた。演劇・芝居研究があまりなかった。さらに、角藤自ら時事問題・話題を脚色するくらいで、脚本に留意しなかった、ことなどが、川上一座と比べると人気がなかった理由であろう(河竹繁俊・日本演劇全史993頁)。




川上音二郎

博多生まれ、福沢諭吉の書生、京都で警官、自由党壮士で、京都、大阪で自由童子、落語家桂文之助門下となり浮世亭○○(まるまる)などと名乗る。演説と扇動などの罪で逮捕・投獄歴180余回を数えるという。

明治20年5月、神戸楠公社内で、改良川上音二郎と銘打ち、「改良演劇西洋美談、斎武義士自由の旗揚」。河竹・前述も、この川上の旗揚げをもって壮士芝居の嚆矢とすべきではないかとしている(河竹繁俊・同995頁)。とすれば、壮士芝居・新劇の創始者は川上音二郎ということになり、角藤よりも7ヶ月ばかり早かったことになろう。

桂門下の同門の考案したオッペケペー節の節だけを借用して、自作の時事風刺の詞を入れて、裃、鉢巻、扇子という出で立ちで唄ったという。

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オッペケペー節の川上演長 矢野龍渓作「経国美談」


明治24年2月5日、泉州堺の卯の日座にて旗揚げ。
矢野龍渓の「経国美談」、「板垣君遭難実記」

この「書生芝居」の座員には、藤澤浅二郎、金泉丑太郎、青柳捨三郎らがいた。このときの脚本は、川上、藤沢が口立て同様に作ったらしい。
つかみ合いの乱闘など書生的なキビキビした動作、台詞それに痛快さなどが受けた。また題材の時事性が興味を惹いたようだ。芝居そのものは、旧劇の歌舞伎風だったという。
横浜、蔦座、小田原の桐座・鶴座などで巡業、地方の壮士と喧嘩をしながら、しだいに東上した。




伊井蓉峰の済美館「男女合同改良演劇」

iiyoho.jpg 明治24年11月 浅草吾妻座で旗揚げ。伊井蓉峰(いい ようほう、1871−1932)は、有名な写真師北庭筑波の子で、三井銀行に勤務していたが、俳優募集の新聞広告を見て応募するも、意見が合わず、飛び出した。父の知り合いであった、依田学海の後援・指導を受けて、済美館を結成した。メンバーには、画家だった水野好美、松原晩翠ら、また女優として千歳米坡をはじめとする芸妓出身者らがいた。

演目は、学海作の「政党美談淑女之操」、川尻宝岑「名大滝恨短銃(なにおおたきうらみのぴすとる)」。
学海は、本来は好みの歌舞伎界から受け入れられず苦々しく思っていたので、この劇団に力を入れたことは察せられよう。また、川尻は、学海の作に手を入れて、戯作化するアレンジャーでもあった。

どんな芝居だったのか気になるところだが、演劇史関係にはあまりこの辺りの記述はない。探していたら、次のようなものがあった。全体として「およそ気のない芝居であった」らしい。三味線、唄、笛太鼓など鳴り物は一切禁止で、

「出る役も出る役も、ほとんど地声で気取りっけなしの受け渡し、声も通らねば筋も通らず、観客も催眠術にかかあってただうとうとと、幕が閉まると大欠伸をして下足札を拍子木代りにチョンチョンチョン。」

「俳優の台詞やしぐさも劇的誇張はすべて避ける。いわば極端な写実劇」
であったという。三日目ぐらいから客はがた落ちだったらしいが、その後伊井らは辛抱して持ち直したらしい。(いずれも引用は、山本笑月・明治世相百話87―88頁、昭和58年、中公文庫。著者は明治4年生まれで、長谷川如是閑、大野静方の実兄で、やまと新聞や朝日新聞の記者だった。団十郎や音二郎とも交流があった。)ここ新派劇の草莽期でも、依田学海の演劇実践は失敗したようだ。

この興行の後、茨城などへ巡業するも、不成功で解散した。伊井・水野らは、川上一座に加わったとう。さらに、川上一座を離れた後、伊井らは、高田実、喜多村緑郎、佐藤歳三、新派の名女形といわれた河合武雄らと離合集散を繰り返した。

壮士など政治的意図や野心ははじめからなかったようで、純粋に演劇・芝居の集団であった。

山口定雄、福井茂兵衛ほか

山口定雄、福井茂兵衛ほかの一座などが、以上のほかにあった。

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2.書生芝居、東上

川上音二郎一座

明治24年6月20日、東京鳥越の中村座へ進出。時に、川上27歳であった。中村座は、東京の大劇場である。

岡本綺堂は、実際にこれを観ている。土間も七、八分は埋まっていたという。一番目が依田学海の「拾遺後日連枝楠」、矢野龍渓の「経国美談」、「板垣君遭難実記」であった。烏帽子やチョボ(浄瑠璃)まで使って、一部の客を泣かせたという(岡本綺堂・ランプの下にて 明治劇談(1993、岩波文庫)178頁)。むろん、幕間には例の、オッペケペー節付きであり、これも、綺堂は「非芸術的なもの」と批判しているが、一般客には非常なる人気であったらしい。

○板垣君遭難実記

itagaki02a.jpg ストーリー(一部):岐阜中教院玄関へ、皆に送られて出てきた自由党総理板垣退助(役、青柳捨三郎)は、皆を中へ返したが、同じく見送りを装って一人玄関に残っていた岐阜県士族相原某(役、川上音二郎)は、板垣が靴を履き、2、3歩を歩き出した背後から短刀でこれを刺した。板垣は相原を振り放し、手負いになりながらも、「何者だ!」と一喝する。「国家のために汝の一命を貰う」と叫ぶ相原は再び短刀を持って組みつこうとするが、これを叩き落されたため、板垣を倒そうとする。両者は組討になりながら、互いに投げ飛ばしたりの争いになる。格闘しながら、両者は政治や民権の議論を続ける。そして「板垣死すとも自由は死せず!」と言い放つ。この立ち廻りが真に迫っていて観客を魅了したらしい。

学海の作品が上演されているが、旧劇・歌舞伎界に容れられず、腐っていた学海としては、壮士芝居に肩入れをしたものである。この後、「癇癖の強い学海居士」は、川上一座との折り合いが悪くなって、喧嘩別れをし、伊井蓉峰の済美館グループと結びついてこれを後援することになる。

25年春、市村座にて、「板垣君遭難実記」「ダンナハイケナイワタシハテキズ」を上演。「ダンナハイケナイワタシハテキズ」は、ユニークなタイトルだが、熊本神風連の乱で、種田少将の妾が東京の母に宛てて打った電報をそのまま題名とした。綺堂もこれを観に出かけたのだが、その芝居は「全くイケナイ」ものであったという(岡本綺堂・明治劇談ランプの下にて184頁)。

<図>東京朝日新聞の記事より 明治25年正月 鳥越座 「平野次郎」七幕物(福地桜痴作) 川上一座3回目興行

綺堂は、「平野次郎」の脚本を依頼しに来た川上音二郎と桜痴の家で出会っている。桜痴は川上のアイディアになる「平野次郎」の脚本書きを多忙を理由に断ったらしいが、結局は当時としては大金の200円で引き受けた(岡本綺堂・前掲書190頁)。川上は、飛白(かすり)の筒袖に、兵児帯それに薩摩下駄という書生風の出で立ちであったという。

明治26年1月には、浅草鳥越座で「巨魁来」を諸演する予定であったが、突然姿を消し、神戸港からフランスへ渡った。この失踪・渡欧事件は、たんに気まぐれではなく、行き詰まりを感じていた川上が新しい演劇導入のための研修・見聞のためであったといわれている。

帰国後、
明治27年1月 浅草座 「意外」
        好評だった。
        田村「続々歌舞伎年代記」657頁

明治27年2月 「又意外」浅草座
 川上一座に高田実、小織桂一郎、伊井蓉峰らが参加
 当時の疑獄事件の相馬事件を芝居化したもので、大当たりをとる。
 田村「続々歌舞伎年代記」659頁は、「裁判ものにて西洋種を無雑作に嵌めたる事ゆゑ不条理不自然の廉多かりしも場面に斬新の所も少なからず非常に喝采を博したり」という。

同年7月 浅草座「又々意外」で再度大入り。
      逍遥、饗庭、森田思軒らからも賞賛された。
mataigai02.jpg<図 「又々意外」の錦絵>

※日清戦争勃発

mizuno-iiyoho.jpg 同年8月31日 浅草座 「壮絶快絶日清戦争」で大当たり。
         新派俳優総出演((新聞記者比良田鉄哉・軍医)川上音二郎、(新聞記者水澤恭二)藤沢浅二郎、(陸軍少将植島巌)水野好美、(李鴻章・海軍大尉)高田実、(陸軍中佐)伊井蓉峰など)脚色は藤沢浅二郎である。

左絵:右上より時計回りに、水野好美(植島巌少将)、藤沢浅二郎(松清大尉)、伊井蓉峰(脇田中佐)、小織桂一郎(岸田紋司)
「日清戦争」香朝楼豊斎筆(一部)明治27年8月


 視覚的なニュース媒体がまだない頃であるから、「なまなましい砲撃、硝煙、火花の出る剣劇。そうした戦地さながらの――いかに幼稚ではあっても――要素を背景に、若くてがむしゃらな川上一座の役者たちは、ただもう熱演、強演したので、その成功ぶりは想像に難くない。」(河竹繁俊・日本演劇全史1006頁岩波書店昭和34年4月24日刊)

書生芝居と半ば蔑まれてはいたが、この芝居によって格を一段挙げたと見られたようだ。

「○日清戦争を劇に脚色みしは是を始めとす蓋従来壮士芝居或ひは書生劇などゝ軽蔑されていた演劇としては見るに堪えざるものとの評なりしも此の戦争劇に依りて大いに真価を現はしたる如く技芸も著しく発展しつつある模様なれば今回より役割を列挙すべし」
        (田村成義・続々歌舞伎年代記674頁[大正11年11月、市村座刊])


田村の「続々歌舞伎年代記」にも載せてもらえる栄誉(?)を得たということか。

 他方、旧劇は、団十郎、菊五郎らで、桜痴作の戦争劇で対抗するも、人気なし。
 同年11月 歌舞伎座「海陸連勝日章旗」
   同月  明治座の左団次の「十二時忠臣実記」も、客足伸びず。

同年12月 市村座 「川上音二郎戦地見聞日記」で再び大当たり
       川上が自ら戦地を視察して、藤沢浅二郎が脚色した戦争劇
明治28年 5月17日 川上一座、歌舞伎座へ出勤
       「威海衛」「因果灯籠」

  田村「続々歌舞伎年代記」691頁は、「藤澤浅次郎筆を執りて脚色をみたるが一二とも人気に叶ひ二日目より売切れ札を掲げしか川上もいたく面目を施こし楽屋に於て当り振舞ひを為す程の大々的好況にてありき」と人気振りを書いた。
  これを機に、朝日新聞の劇評家篁村・竹の屋は新劇の劇評を掲載している。

  <図、竹のやの劇評「歌舞伎座の川上一座」>
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 三崎町の川上座
明治29年7月 川上座(神田三崎町)開場。のちに改良座と改名。
        「日本娘」
明治30年1月31日 川上座「八十日間世界一周」
明治31年8月 新派の大合同 歌舞伎座「又意外」「三恐悦」
明治32年4月 貞奴ほか20名の一座で渡欧。

明治36年2月 明治座 シェイクスピアの翻訳劇 正劇「オセロ」(江見水蔭の翻案)
 「続々歌舞伎年代記」973頁

明治36年9月「ハムレット」「ベニスの商人」
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「ヴェニスの商人」(左から)
川上音二郎、藤澤浅次郎、貞奴


明治36年12月 本郷座 「正劇 ハムレット」(山岸荷葉、土肥春曙共訳)
         好評を得た。

明治41年 帝国女優養成所 貞奴を所長とする。


伊井・河合・水野ら

明治28年 浅草座 「伊佐水演劇」
 伊井、佐藤歳三、水野好美
明治34−35年 真砂座 「女夫劇(みようとげき)」
 近松劇研究

新聞小説の劇化などが行われた。




3.明治37年から明治40年頃  本郷座時代 ―新派劇の全盛期

まず、旧劇の方からみておくと、この明治37年、日露戦争が始まっている。8月には左団次が死去して、歌舞伎の名優と謳われた3人がすべて去り、旧劇に空虚感がただよった。高田一座が本郷座に、伊井一座が真砂座(本洲)に割拠した。主要な新劇の観劇者・支持者として、書生や女学生がこれらの座に詰めかけたという。

明治37年正月
 真砂座 「国姓爺合戦」(近松研究劇)。伊井蓉峰、村田正雄一座。
同年 3月
 本郷座 「義勇奉公」、中野、柴田
 東京座 「桐一葉」(坪内逍遥作)

明治37年8月7日 市川左団次、没

明治37年9月 東京座 1番目「不如帰」(徳富蘆花作、竹柴晋吉脚色)、芝翫(浪子役)、猿之助、高麗蔵、寿美蔵、女寅、秀調
 旧劇で新派の領分の「不如帰」を演じたので評判になった。新派劇への対抗とともに、歌舞伎劇の行き詰まりを示した。

他方、新派劇では、本郷座は、高田、河合、藤沢で、松井松葉作「フランチェスカの悲恋」、泉鏡花作「高野聖」を上演した。

明治38年正月
東京座「乳姉妹」(菊地幽芳作)
 芝翫、猿之助、高麗蔵、寿美蔵、女寅、秀調、訥升ら。昨年好評だった「不如帰」にちなんで新派畑の演題目。ところが、新派劇でもこの作品を取り上げたので、図らずも新旧劇の競演となった。

明治座 ユーゴー原作(松居翻訳)「エルナニ」、小波「桜太郎」
 莚升、小団次、女寅、升若、荒次郎ら。不評。

本郷座 「乳姉妹」
 高田、河合、木村、山岡ら。
真砂座、「征露戦塵曽我譚」「娘節用」「結びの神」
 伊井、藤沢一座に秀調が加入
この時代、本郷座には高田一座、真砂座には伊井一座が割拠しているという風であった。

  ■綺堂ら新聞記者による文士劇、明治38年5月 歌舞伎座ほか

明治39年

1月 歌舞伎座「先代萩」「金閣寺」、「酒道楽」(村井玄斎作)
   明治座 「一の谷」「法界坊」
   東京座 「十二時会稽曽我」「扇屋熊谷」ほか
 (新派)
   本郷座 「伯爵夫人」(田口掬汀作)、高田、河合、藤沢ら
   真砂座 「粟田口霑笛竹」(円朝原作)、「東郷大将」(柳川春葉作)、伊井、村田、福島、井上ら
2月
   明治座 「モンナ・ヴァンナ」(メーテルリンク原作)、「玉手箱」(太郎冠者作)、川上一座。連日満員であった。

 ※明治39年9月、莚升、2代目市川左団次襲名(明治座)。

明治40年1月 歌舞伎座「女暫」「みだれ焼」(桜痴原作、榎本破笠脚色)
   明治座 2世左団次「桶狭間」「矢口の渡」「黒手組」ほか
   新富座 「通夜物語」(泉鏡花作)、「写真」(モリエル原作)伊井、河合、井上、福島、木村ら

明治41年1月 東京座 新派大合同
 佐藤紅緑作「東風物語」には総出演

明治41年9月 「川上革新団」興行
 明治座 川上革新興行第一軍(旧劇)岡本綺堂作「維新前後」、市川左団次ほか
 本郷座 川上革新興行第一軍(新劇)田口掬汀作「日本の恋」ほか、川上貞奴、佐藤、藤沢ほか

<図>

第一軍は、九州、大阪、京都、名古屋と巡業。東京で第二軍と合同して「維新前後」「唖の旅行」を上演

明治43年3月 大阪北浜 帝国座開場
 川上音二郎ほか、座付作者・柳川春葉、田口掬汀、佐藤紅緑

明治44年11月11日 川上音二郎、死去。

明治末まで、新派劇全盛
「不如帰」「金色夜叉」「乳姉妹(きょうだい)」「婦系図」などが所演された。

■本郷座・真砂座の所演リスト

・ほぼ毎月の興行となっている。
・演題がほぼ毎回新しいものとなっている。
・多様な作家の作品が芝居化されている。脚色家の存在がある。
・明治20年代からはじまった新派劇もこの頃になると次第に演技も円熟してきた。
・他方、この頃になると逆に新派のマンネリズムも指摘されていた。

「かくの如きは新派全盛の豪華さをみせたものであり、観客は来る、給金はセリ上る、私生活に余裕ができるといった有様で、この時代は彼等にとって、わが世の春を謳歌した時代であった。」(秋庭・日本新劇史上巻470頁)




4.新劇役者

藤澤浅二郎

 慶応2年、京都柳馬場三条上ル油屋町の紙問屋の子として生まれた。新聞記者となり、民権運動などに携わり、川上音二郎と知り合い、その一座に加わった。川上一座では、作者も兼ねており脚本は藤澤が書いた。また、壮士役者としては女形が主で、二枚目立役も兼ねた。「又意外」の久世辰子、「オセロ」の勝芳雄、「侠艶録」の瀬尾富士雄役などは藤澤の当たり役であったという。生涯にわたり、川上一座とほぼ行動を一にしている。後に、俳優養成所を設立するが、これに私財を投じたものの失敗した。大正6年3月3日浅草今戸のわび住いで死去した。

fujisawa-asa03.jpg  松居松葉は、藤沢の葬儀に参列するために、今戸の川沿の、小路の奥の二軒長屋をさがした。藤澤の遺児の話し、未亡人のこと、今は落魄して死んだ故人のことに及んでいる。新派の若い俳優が大勢来ており、また文士の巌谷小波、田口掬汀、興行師の田村寿二郎なども参列した。松居は

「それはそれはさびしい葬式であったが」「藤澤の今度の葬式も芸人らしくない、清い、美しい涙の葬ひであつた。一生をじみに、清らかに送つた彼は、目尻の下の愛嬌皺を一層ふかくして微笑したことであらうと思ふ。」

と送別した(松居松葉「劇壇今昔」)。

川上と藤澤の出会いを、村松梢風「川上音二郎 上巻」42頁(潮文庫、昭和60年)は、つぎのように書いている。中島信行の立憲政党の機関紙である「立憲政党新聞」の名義人となることになった川上音二郎は、下立売にある同新聞社に出勤した。編集は主筆の藤代天涯(土佐人)のもとに、藤澤浅二郎がいて、10人ほどだったという。実質的には、藤澤が週刊のこの新聞の記事を雑報から政治記事、小説に到るまで一人で書いていたらしい。

山口定雄

 山口は、一時は羽振りも良かったらしいが、明治38年頃には、巡業先の北海道で半身不随となって帰京した。麻布の借家に暮しをしていたが、薄い布団にくるまり、先妻との間の娘に看病されながら、鞄一つしかない平屋で暮らしていたという。秋庭太郎・日本新劇史上巻317頁。

 新聞記事によると、大阪で電気仕掛けの宙乗りの最中に墜落して半身不随となったらしいが、上記のように北海道での巡業中には「脳病」によって重態となって帰京したようだ。その後、上のような療養を経て回復したので地方巡業をして、東京へ戻り、さらに信州飯田の若松座において興行中に、急死した。書生芝居として売出す前は、元片岡我童(のち仁左衛門)の弟子で、片岡我若という女形であったそうだ。東京朝日新聞明治40年10月3日(四)

河合武雄

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新派の女形といえば、河合武雄である。岡本綺堂もその「でんぽうな」役の彼を高く評価していた。その彼の写真となると意外に見つからない。ここに掲げたのは、雑誌「現代」(大日本雄弁会)の記事の中からのもので、残念ながら写りは悪い。一つはお浜役(「美しかりし村」)の彼である。鼻筋がとおっていてやや男っぽい感じですね。
写真の出所:吉野春夫「中村鴈治郎と河合武雄」現代2巻1号386頁(1921)


5.書生(壮士)芝居関連リンク

・村上裕徳さんの「日本現代舞踊の起源 No.1−14」

 今日では珍しいほど、川上音二郎や貞奴など壮士芝居について詳細です。「ライブ・スペース plan B」の "Serial Publication"のコーナーにある。


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