inserted by FC2 system 岡本綺堂の趣味 worklogo.jpg

岡本綺堂の趣味



 「僕だって親父が心配するような遊びをしたさ。それだから「鳥辺山心中」や「箕輪の心中」が書けるんだ。」(岡本綺堂)

 「あなた飼ふならキリギリスをお飼いなさい。あいつあ江戸ッ子です」(半七老人)




綺堂といえば書くのが趣味だが

額田六福さんが、『舞台』の岡本綺堂追悼号に、ちょっと味のある追悼文を寄せているので、おもにこれに依拠しながら、綺堂さんの趣味を洗ってみたい。

私が知っている限りで、趣味みたいなものは、震災後の郊外生活のうち、大久保で、畑を庭先につくり、玉蜀黍や野菜などを作って楽しんだことくらいであろうか。あとは、30歳の時に、珍しくお台場で魚釣りをしている。その後、風邪を引きこんで二週間ほども寝込んだのですが。



煙草は朝日

 趣味というか、趣好品では、煙草である。お酒は下戸で、これは半七と一緒である。煙草の銘柄は、一貫して「朝日」である。弟子の誰かも、「朝日」はあまり美味くないのにどうして…というようなことを書いていた。どれくらいの量を喫っていたかは分からない。

隣寸・マッチは燕印

 タバコには欠かせないのが、この燐寸・マッチである。綺堂家で使っていたのは、家庭用の燐寸である、「燕」印だったようで、「時計印」ではなかった。応接間には、灰皿数個とその横にこの燐寸が置いてあったそうだ。ただし、いつも新品で、擦った後のないものだったという。

 また、マッチの付け方に特技があったようで、弟子の一人が書いている。中のケースを前へずらして、外側のケースにできた隙間で、タバコに火を付けるというものである(中嶋末治「門下生として」舞台第10年5月号112頁(昭和14年4月刊))。おそらく、記者生活や日露戦争での従軍記者体験があるため、戸外で風のあるのを避けるために工夫したものだと考えられる。

さて、燐寸の図案を見たいものだと思ったら、驚くべきことにウエッブ上には、燐寸コレクションがいくつかあった。家庭用マッチ専門というところもあった。懐かしい図案をご覧いただきたい。

 家庭用燐寸博物館:

   電通古今東西館:マッチ
   http://www.dentsu.co.jp/MUSEUM/meiji/3rd/match/match004.html



食べ物

いわゆる食通・グルメといったタイプではない。たとえば、お弟子さんと散歩している時に昼時なると、

   「君、どこかうまいところはないかね。」

   と、聞く。そこで、お弟子さんのほうで目星をつけたところがあると、

    「そこへいこう」

  と、云ったという。
 電車などを利用して、そこまで出かけるときは、電車賃は各自持ちで、食事代が、師匠の綺堂持ちだったようだ。綺堂先生、「昔ふうの定九郎が持っているような財布から小銭を出した」という。(岸井良衛・ひとつの劇界放浪記79頁)
残念ながら、「定九郎が持っているような財布」というのがどんな財布なのか判らない。

 寿司
  近海もので、キス、カナガシラを好んだようだ。
  また、白魚も好きだったという。魚に関しては本ページの「綺堂氏のある一日」にも書いた。寿司は、外出先の店でもよく食べている方である。

 
  どこ(どの店)の鰻でなきゃいけない、という凝り性、グルメではなかったらしい。作品にもよく出てくるのは鰻である。浅草のやっこ鰻、銀座の竹葉などは綺堂も通ったところ。

 天ぷら
  銀座の記者時代は「天金」、舞台稽古のときには、歌舞伎座の地下の店などである。大正末の頃に綺堂門下となった岸井さんは、つぎの逸話を残している。銀座の天金に出かけて、昼をとったときの話である。2階に通されて、天ぷらを2人前注文すると、楕円形の銅(あか)の入れ物の網の上に2人前がいっしょに運ばれてきた。

 「すると、先生は、その数をかぞえて二つに分けて――ここからこっちが僕、そっちが君だ。侵入して来ちゃあいけないよ。」

といったという。茶目っ気でもあったろう。

 サンドイッチ
  比較的好きだったようで、外出先の店で、あるいは松屋の食堂で、という按配である。大震災後に借家した麻布十番でも食している。さて、サンドイッチが登場するのは明治(?)の何時の頃だろうか。

 肉(缶詰)は食したという。従軍記者となって以来という。
 果物は好まない。ただ、パインアップル(缶詰)は食した。しかし、粥は嫌い。

 朝食が、パンに紅茶であったことは「綺堂氏のある日の一日」でも書いた。ときに間食として煎餅である。お酒は飲まないにもかかわらず、甘い物もあまり食さなかったようだ。



樹木・植物
 楓、枝垂柳、百日紅(さるすべり)は庭にもあったようだ。植えてはなかったが、猫柳は好みであった。随筆集のタイトルにもしているくらいである。
 しかし、松は嫌いだった。
 「君、あれは道楽息子みたいだ。」

と額田六福さんに語ったというエピソードがある。道楽息子と評しているのは、おそらく枝の剪定など手が掛かるためであろう。木の姿の無骨なのは趣味ではなかった。また、樹木に関しては、木肌が滑らかで美しい種類のものが好みだったようだ。
 ついでに、春の花といえば桜花。「番町皿屋敷」の山王の桜など、綺堂の芝居にもいくつか登場しているが、季節感を示すためであろう。しかし、どうやら綺堂さん本人は、桜は好きではなかったようだ。
 盆梅も、もらったようだが、枯らしてしまうのが落ちだったという。盆栽の古木が贈られて、つぎのように額田氏が聞くと、

 「(枯らすのは)おしいじゃありませんか」
 「だって枯らしてやらねば植木屋が困るだろう」


といって笑ったという。

 チューリップやヒヤシンスの洋風花に加えて、千日紅、葉鶏頭、刈萱、糸瓜、烏瓜など、概して俳味のあるものが好みだったというのは額田さんである。当時書生さんだった岡本経一さんには、あるとき刈萱を野原から掘り出して庭へ植えたという記述がある。これも好きだったらしい。
    ・山本純士さんの「季節の花300」のうち、東京および近郊の薄写真集
    ・緒方弘之さんの写真集「素晴らしい自然」のうち「阿蘇初秋のすすき(薄)」:http://www.asahi-net.or.jp/~su7h-ogt/index.htm 
    漱石も見たすすきですね。こうやって素晴らしい写真を見るとススキも味がありますね。



動物
 自宅には犬猫は飼っていなかったと思う。作品では、半七は、隠居してから(?)は猫を飼っている。


 逗留先の旅館の庭先などで、犬が寄ってくると、犬を指して「この人が、この人が…」と言った話は有名らしい。小さい頃は、三崎町の原で、野犬に取り囲まれたりして良い思い出はないと思うのだが、それに懲りずに、犬は好きだったようだ。

蛙・蝦蟇
  蛙や蝦蟇が好きだったという。庭先に蛙や蝦蟇が出てくると、家族の者を呼んで集めたという。ここで思い出したことがある。私は小さい頃、夕方、ルンルンで家の門をくぐろうとしたとき、傍の石に茶色っぽい大きな蝦蟇(ウシガエル?!だったろうか)が乗っていて、それに気がついたときは飛び上がるほど驚いたものだが。殿様蛙くらいまでの小さいのは愛嬌があるのだが。

『青蛙堂鬼談』の第一話にも出てくる、青蛙神という3本足の竹細工の蝦蟇の作り物を実際にもコレクションとして持っていたが、大正12年の震災で灰になったらしい。

キリギリス
  上に引用したように、キリギリスは好きだった。



歌舞伎と役者

 劇作家という商売柄、歌舞伎や役者とも交流する機会があると思われるが、1−2の友人を除いては役者との付き合いはしなかった。2世左団次とすら、めったに交流はしなかった。
 だが、珍しく、綺堂は好きな役者の好きな役という雑誌社の依頼で書いているので、どこのどの辺が彼の見る視点なのか知るために参考までに、全文引用する。
    岡本綺堂 
    「羽左衛門、其の富樫、め組の辰五郎
    吉右衛門、其の地震加藤
    河合武雄、其のでんばうな役」

     これが私の好きな役者である。
     私の羽左衛門に好いと思ふ所は、其の輪郭の明瞭(はつき)りした、きまりどころの鮮やかな所にある。羽左衛門ほどすつきりした、役者らしい役者は、先づ彼を措いては、今の処見当たらないと云っても差支あるまいと思ふ。「辰五郎」や、「富樫」は其の代表的の役である。
     羽左衛門の「富樫」は、形の好い点では、天下一品であろうと思ふ。宛然(えんぜん)絵であり、また彫刻のやうであつた。
     吉右衛門に好きな処は彼の芸に寂しみのあるのが好きである。
     彼の「三浦の助」のやうな物も悪くはないが、私は矢張り彼の芝居と云へば、「地震加藤」のやうなものが動かない所だらうと思ふ。
     河合の好い所は、調子である。一寸聞くと何んだか変だが、然し、あの玉を転がすやうな調子は、凝(じつ)と聞いて居れば居る程好い所がある。
     殊に伝法な役を演つて、啖呵を切る所などは、あの人でなければと思わせる所がある。
      ―『演芸画報』6年4号138頁(明治45年4月19日)(ルビ省略の個所あり)
玩具・人形のコレクション

 綺堂の人形趣味というのは結構知られていたことのようだ。ただ、凝った、高価な人形ではなく、ごく普通の人形でよかったらしい。30銭の張子の虎、京都伏見稲荷の20銭の土焼きの、桃太郎一族の人形などは、お気に入りだったようだ。机の周りであちこち動かしては眺めていたらしい。また、和室の違い棚や、洋館のときはマントルピースの上などに飾られていた。

 もっとも好きだったのは3本足の蝦蟇(青蛙神)だったようだが、そのコレクションの大半は、大震災の時に、博多人形の夜叉翁とともに焼けた。

 芥川龍之介は、軽井沢から、わざわざ「玩具ずきの綺堂老」へ「雉子車」という玩具を送っている。芥川の室生犀星宛大正13年8月19日付絵葉書(芥川龍之介全集7巻413頁(筑摩書房、1965.2))。この土産は、8月25日になって、綺堂のもとへ届いたようだ。「軽井沢へ滞在中の芥川龍之介君からみすずで作った雉子車を送ってくれた。」と同日の日記にある(岡本綺堂・綺堂日記217頁)。この時期、綺堂宅は、震災後の大久保の借家住まいの頃であったと思われる。



俳句・漢詩
 この時代の人は、漢詩の素養がある。漱石にして然り。綺堂もまた、漢詩を作った。
 また、俳句の方も熱心だったようだ。句集を編み、句会に出かけた。また、句の選者も引き受けたようだ。古今の俳人のうちで、芭蕉門下の誰とかが好きだと書いていたように記憶しているが、名前を忘れてしまった。(いずれ探してみます)

書画骨董
 作家といえば、あるいは江戸関係の作家であれば、仕事柄、多少の書画や骨董の趣味はあるのではないかと考えるが、綺堂さんにはなかったらしい。
『主婦の友』の付録短冊や『婦人クラブ』付録の色紙などが、壁にかけられていたという。実際的というか、そっけないくらいである。



本・書籍
日本橋の丸善で、探偵物やミステリー関係などの洋書をかなりの数購入していたのは、有名な話で、丸善の社史か何かにも出てくる。
古本といえば、神田である。こちらへも良く出かけた。

新聞
 新聞を取っていたと思われるが、どの紙かはっきりしない。東京日日新聞勤務のときは、東日紙だったと思われるが。震災後の目白・額田邸に一家で避難していたときには、「時事新報」を読んでいたようだ。
また、作品中では、半七老人は、東京日日新聞を読んでいた。



カメラ
 大村嘉代子さんから誕生日だったかに、気分転換にとカメラをもらったことがある。その時にはかなり、撮っていたようだが、その後はあまり撮らなかったようだ。カメラという小道具が出てくる作品に、『青蛙堂鬼談』の「竜馬の池」がある。坂本竜馬と関係のある話しではなく、東北・福島あたりが舞台のようだ。

祭り・習慣
 信仰にしても、どこにどれというような特定の信仰はないようだ。ごく普通の江戸・東京人のような信仰だったように思われる。自身で出かけても、散歩の途中で寄る程度のように思われる。

 獅子舞・神輿

 自宅に呼んで、舞わせたこともあったらしい。子どもの頃の思い出もあったのだろう。


旅行はあまり好きじゃない
 保養や治療を兼ねて出かけた温泉は、

  修善寺、湯河原、箱根、磯部、長瀞、銚子、成東温泉などであった。作品の中にも出てくるものがある。


女性
 艶福家ではなかった。今でいうとゴシップなし、面白くない方?。だが、冒頭の引用でも書いたように、若い頃は、親が苦情を呈するくらい遊んだともいうが、真偽は分からない。親父の純も、高輪に住んで綺堂が生まれた前後は、品川まで女遊びに出かけたらしいから、その血があるといえば云えるだろう。また、若くして新聞記者で、収入もほどほどあり、天下の「東日」の記者と来ては、またあまり悪くはないフェイスだから、あっても不思議はないのだが。まぁ、まじめだったんでしょう。

 「綺堂と女性」の項も参照ください。


嫌いなもの
 趣味という項目には入らないのだが。人物では、勝海舟と、女では春日局(かすがのつぼね)が、嫌いだった。
 海舟は、あまりにも簡単に江戸を明渡した男ということになる。で、作品にも微塵にも出てきませんね。また、春日局の方は、女らしくない女だからという理由らしい。(岸井良衛・ひとつの劇界放浪記81頁)


hudsont9.jpg
 大正9年9月の新聞広告より


(c)2001 All rights reserved. Waifu Seijyuro.

綺堂事物ホームへ inserted by FC2 system