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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 江戸期の芝居の仕組・組織や風俗をまとめ記録もの。たいへん参考になる。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 芝居  −岡本綺堂著『風俗江戸物語』より

             岡 本 綺 堂
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江戸末の芝居小屋
 江戸の芝居というものをお話いたします。もっとも江戸といっても、ずつと末期のことですが、天保十二(一八四一)年末に芝居小屋が浅草の猿若町(いまの台東区浅草六丁目二〜五 ・一八〜二〇番)に移されて、猿若町一丁目に中村座、同じく二丁目に市村座、同じく三丁目に守田座がありました。江戸中に芝居らしい芝居というものは、この三軒しかなかったのです。
 そうして三座の役者は、十一月の顔見世を区切りにして、一年目毎に交代することになっていました。即ち一丁目の役者が二丁目に、二丁目の役者が三丁目にというように代わっていたのです。

芝居見物の方法
 その頃の芝居見物にも、木戸から行くのと、茶屋から行くのと二通りありましたが、大抵は茶屋から行っていたようです。
 芝居茶屋は大茶屋・中茶屋・小茶屋の三つに分かれていましたが、大茶屋は自分の家に料理番を置き、いろいろ料理を拵えて客に出していたのです。従って芝居のないときなどでも、飯を食いに行くくらいのことはできました。中茶屋・小茶屋は客の注文によって他から料理を取っていましたが、幕の内のむすびだけは必ず自分の家でこしらえていました。
 芝居の弁当といえば、幕の内といって金(かね)の輪型に飯を入れて打ち抜いたものですがそれを店前(みせさき)で女中が拵えるということが、一つの景気になっていたのです。
 弁当といっても、普通の玉子焼・焼豆腐・麩(ふ)くらいのものを美味(うま)く煮ただけで、ちょうど宇治の里式の料理でした。が、注文さえすれば、どんなものでも取ることができました。
 また、幕の内の嫌いの者は、ちらし〔普通の飯〕を取って食べていましたが、どうしても芝居には幕の内――つまり芝居に付きもののようになっているので、それを食べないと芝居らしい気分になれなかったのです。

朝早かった芝居の開場
 芝居の開くのは朝六つ〔午前六時〕で、果てるのが夕六つ(午後六時)ということになっていましたが、時によると五つ(午後八時)頃になることもあったので、芝居を見に行く人たちは行き戻りともに提灯(ちようちん)が要(い)ったのです。現今の人から考えると、芝居を見に行くに提灯を点けて行くなどということは、まるで嘘のように聞えるでしょうが、その頃の江戸市中というものは、ところどころに広い空地があったり、竹藪があったりして、夜は真暗(まつくら)で、狸やかわうそが出るという騒ぎです。
 近い所の者は別として、山の手あたりから芝居見物に行くには、どうしても七つ〔午前四時〕起きをしなければならなかったのです。それも天気の好い日ならばまだいいですが、雨や雪の降っている時に、山の手から浅草辺まで提灯をさげたり、傘を差したりして、足駄でてくてく歩く居ということは、並大抵ではありません。
 それに、女などが芝居に行こうとするには、その前日に髪を結って置かなければなりませんし、着物なども揃えて置かなければならないという始末で、そわそわと一日を暮らしてしまいます。
 また、当日は早起きをして寝不足なところへ、芝居疲れと遠い道の往復とで二重に疲れが出て、翌日になっても癒(なお)りません。
 つまり三日がかりでなければ芝居を見られなかった訳です。で、金の掛かる掛からぬは別として、三日からの日をつぶして芝居に行くということが、普通の人にとってはなかなか容易のことではなかったので、その当時、変わり目に芝居に行き、三日目は鰻(うなぎ)を食って、毎日髪を結うことが非常な贅沢とされていたのです。変わり目の芝居といっても、一年に三回か四回くらいしか開場しなかったのですから、それを皆見たとて知れたものですが、さっきも言ったような次第で、大抵の者は年に一度の芝居見物すらも、そうたやすくはできなかったのです。
 ですから、芝居に行くことを無上の楽しみとして、待ちに待ち構えていたので、芝居を面白く感ずる度合も今よりはよほど深かった訳です。

武士の芝居見物
 山の手から七つ(午前四時)起きをして猿若町まで行きますには、浅草の門跡(東本願寺―台東区西浅草一丁目五番)あたりでしらじらと夜が白んで来ますが、武士などがその時刻に歩いていると番所番所で呼び止められて、「どこへ行く」ということを調べられます。が、あからさまに芝居へ行くということは言えません。徳川の制度として、表向き武士は吉原と芝居に行くことはできなかったので、親戚に急病人があるとか何んとかいって誤魔化していたそうです。
 また、武士は芝居小屋の中へ刀を帯して入ることもできなかったのです。それは安政四(一八五七)年に細川家の武士が、天竺(てんじく)徳兵衛の芝居を見物していました。ところが、天竺徳兵衛が親を殺そうとするところで、どうも親を殺すなどとは怪(け)しからぬといって、その武士はいきなり舞台にかけ上がって天竺徳兵衛になっている市蔵を切ろうとしましたが、幸い市蔵は逃げてしまったので怪我はしませんでしたが、それを止めて出た舞台番の男が切られて死にましたし、もう一人も酷い怪我をしました。
 この事が表向きになれば当の武士はもちろん切腹をしなければなりませんが、決して故意や悪意でやったことはなく、むしろその動機が善なので、細川家の方でもいろいろ手を廻して遺族の者に相当の手当などを与え、内分にしてしまいました。本人は乱心ということで国許へ押込められたそうです。
 それ以来・芝居小屋の中へ、武士は刀を差して入ることを禁ぜられたのです。
 また、紀州家の某姫が浅草観音へ参詣の途中で、芝居を見たいといって一丁目の木戸のところへ乗物を下ろして、木戸の外からちょつと見ただけでしたが、とうとう表向きになった供の者全部は切腹、姫が「縁組かなわぬ」ということで押込められてしまったとかいいます。  これとても江島生島の問題が起こるまではそうやかましくなかったのですか、彼の事件後ひどく厳しくなったのです。
 芝居小屋の中へ無刀でなければ入られぬということになりますと、武士は否応(いやおう)なしに茶屋へ行って刀を預けなければならなかったばかりではありません。身分のある武士などになりますと芝居の中でも頭巾(ずきん)を被るとか、頬冠(ほおかぶ)りをするとかしていたのです。
 かの伊庭軍兵衛という剣術の先生などは有名な芝居好きで、いつも芝居に行く時には印半纏(しるしはんてん)を着て職人のような拵えで木戸から入っていたということです。
 これなどは極端な例ですが、ともかくも武士らしくないようにして、芝居に行ったということは事実です。

芝居茶屋
 茶屋へ行くには出し抜けでもよかったのですが、ふりですと、どうかして場所のない時などに出喰(でくわ)しますので、大抵は前に申し込んでおいて行く者が多かったようです。
 茶屋から行きますと、茶屋の若い者が茣蓙(ござ)と莨盆(たばこぼん)を持って案内をしてくれます。その頃は芝居の中で布団は敷かせなかったので、どんな身分の者でも土間へ薄縁(うすべり)を敷いたきりのところに茣蓙だけで我慢をしなければならなかったのです。
 それから茶と菓子とを持って来ますが、菓子は高坏(たかつき)に載せて出しました。そのうちにちょっとした口取で酒を出します。昼飯は例の幕の内ですが、昼過ぎにはすしと水菓子とを持って来ます。
 これだけはお極(き)まりで、なんにもいわなくても茶屋の方から出すことになっていましたが、その他は注文次第です。それが明治以後になっては、菓子と弁当とすしだけですます人も出て来ました。これを俗に「かべす」のお客といって、一種の侮蔑的の言葉に用いられていましたが、この頃では「かべす」がもう普通になってしまいました。
 芝居が刎(は)ねますと、茶屋で夕飯を食べて帰る者もありました。さもなくば、浅草の奴(やつこ)(鰻屋―いまも台東区浅草一丁目一〇番にある)か、もしくは茅町(かやちよう)の宇治の里などへ上がって、夕飯を食べて帰ったものです。
 茶屋の帰りには、茶屋の若い者が提灯をつけて、猿若町の角まで送って来ることが慣例になっていました。

芝居小屋
 芝居小屋の構造といえば、現今の人の思い至らないまでに貧弱で、粗雑で、酷く汚いものであったのです。天井は丸太の梁に簀(す)の子(こ)を張ってそれに天幕を張り廻してありましたが、所々に丸太が見えたり、縄の結び目が現われたりしていました。
 場席の拵え方は今とほとんど変わりはありません。即ち東西に桟敷があって、桟敷の下が鶉(うずら)(桟敷の下で、高土間(たかどま)後方の上席)、鶉の前が高土間(観客席が枡形式の時代、ふつうの土間より一段高くなった席)になっていたのですが、今日のように高土間と花道との間に前船というものはありませんでした。両花道に挟まれたところが土間になっているのは今日も同様です。
 小屋の周囲は筵(むしろ)を垂れてありましたが、便所というものが甚だ不完全でして、ただ土の中に樽(たる)を埋めたきりなので、夏の芝居などになると、その臭気に堪えられなかったそうです。のみならず、女などは到底そんな樽を埋めたばかりの便所へ行けようはずがありません。見物の一番困ったのはこの便所だそうです。それでも茶屋から行っているものは、茶屋の便所へ行くこともできましたが、木戸から入っているものは、いやでも応でも芝居の便所へ行かなければならなかったのです。が、茶屋の便所へ行くとしても、現今は「あゆみ」を渡っただけで茶屋へ行けるようになっていますが、その当時は木戸を出なければどこへも行くことはできなかったのです。
 もっとも茶屋の若い者が、草履(ぞうり)を持ってときどき御用を訊きに来ることは来ますが、それとて大勢の人を相手ですからそうそう手が届きません。それに茶屋の若い者が来るのを待っていられないような場合もありますが、そういう折に御足で往来を歩く訳にはいきません。で、最初茶屋から履いて行った草履を芝居の中へ持って入って、各自の膝の下に敷いて置いたものです。そうでなくとも土間などは五人詰で狭く窮屈な上に、泥草履などを持込んでは、たまったものではありません。まったく身動きもできなかったということです。
 先刻も言ったように朝は七つ起きをして、雨が降ったり風が吹いたりしているところを、山の手あたりから浅草くんだりまで遠い道をてくてく歩かされた上に、芝居の中では身動きもできないような窮屈な思いをしながらも、芝居を唯一のおもしろいものとして一般的に喜ばれていたというのは、他に行楽の機関がなかったのにも因るでしょうが、一つは時代の風潮でもあったのです。

当時の芝居
 そうしてその芝居というものがどんなものかといいますと、道具や衣裳の粗末なことは到底お話になりません。
 衣裳は木綿物に金や銀の箔(はく)を置いたもので、美(い)い着物を着ることは禁制であったのです。もしこれに背く者があると、重ければ追放、軽くても科料か手鎖(てじよう)くらいに処せられました。
 また、道具なども一切実物を使うことができなかったので、箪笥(たんす)・長持・膳・椀(わん)というようなものに至るまで、すべて張子であったのです。
 それから芝居の果てるのは夕六つ(午後六時)ということになっていましたが、新狂言などの時には五つ〔午後八時〕頃になることがありました。そういう場合とか、または雨の日の暗い時などには、どうしても灯(ひ)を点(とも)さなければなりませんが、それには蝋燭を用いておりました。
 花道から役者の出て来るときにも、面(つら)あかりといって長い棒の先に蝋燭を点けたものを黒ん坊が持って、役者の顔を照らすように差し出していました。
 場代は時と場合によって高低がありましたが、大抵は土間一枡(ひとます)〔五人詰〕が一分くらいでした。それに茶屋の支払いや何かで、一人前一朱くらいも掛かりましたでしょうか。現今に較べると大変に安かったものです。いや、芝居の高くなったのは、ここ十年ぐらいのことです。
 明治十九年に千歳座で、九蔵・菊五郎の一座で、「鵜飼のかがり火」という狂言を演りました。これは私も見物に行ってよく覚えていますが、その時の場代が土間一間〔五人詰〕二円二十銭に敷物代が五十銭で、これを五人に割りますと一人前五十四銭ずつです。それに菓子・弁当・すしのいわゆる「かべす」一人前が二十二銭、合せて七十六銭くらいであったのです。
 明治十六年に新富座で、団十郎・菊五郎・左団次・半四郎・高助・仲蔵・右団次・宗十郎というように、全国の名優をすぐって開場しましたが、その時でさえも桟敷〔五人詰〕四円五十銭、土間〔五人詰〕二円八十銭という相場でした。それでも前代未聞の高価だといって、世間ではびっくりしたくらいです。

芝居の宣伝
 昔は別に広告機関というようなものはなかったので、どこの芝居が面白いといってもそれが江戸中に広まるまでにはなかなか日数を要しました。
 現今は、芝居の開場前に種々の方法で世間の興味を誘って、その芝居を見た者の面白いとか面白くないという評判が世間に伝わる頃には、既に閉場しているようなやり方に引換えて、昔は芝居を見物した者が、こんどの一丁目は面白いとか、二丁目の何がいいとかいって、それからそれへと評判に評判を重ねなければ、あまねく世間に知られなかったので、まったく芝居の面白い面白くないによってその運命が決せられたのです。
 もっとも芝居の開く前には辻番付を所々に吊しましたが、これとて一町内に一ヶ所あるかないかの始末で、ほんの申訳に過ぎなかったのです。また、茶屋から客筋へ番付を配っていましたが、これはある一部分に限られていたので、広告の手段という程のものでもなかったようです。
 おまけに現今のように連中などというものはありません。ただ三人五人と誘い合わして来るぐらいに過ぎなかったので、まるで暗闇に物を探るような世間の評判を当てにするより他に仕方がなかったのですが、ちょっと当たると一つの狂言を五十日も六十日も打ち通したものです。そこが昔の芝居の弱いところでもあり、また、強いところでもあったのです。
 で、絶対に広告ということに無頓着かといえば、そうでもなかったのです。
 これは一例ですが、文化頃(正しくは天保二年―一八三一)に菊五郎のお岩で「四谷怪談」をやりました。(三代目菊五郎としては文政八―一八二五―年中村座で初演以来四度目の上演)。お岩の亡霊が白張(しらば)りの提灯の中から出るところがあるので、いつも菊五郎の楽屋入りをする時には供の男に小さな白張提灯を提げさせていたということで、これを見た人たちは、「あの小さい提灯からどうして菊五郎が出るのだろう」と、不思議に思って、それが評判の種になったそうです。
 また、正月狂言だけは、暮の浅草市の十七、十八の両日を限って来春狂言の看板を掛けることになっていましたが、絵看板には正直に何々の狂言ということを表わさないで、まるで謎か判じ物のような絵を描(か)いてありました。
 例えば、黒板塀に雪の降っているところを描いて、赤い打掛と出刃庖丁とをあしらったようなものです。それを各自に判断して、赤い打掛に出刃があるところを見ると、大方花魁(おいらん)殺しの狂言だろうとか、また烏帽子(えぼし)と松明(たいまつ)を描いてあれば、曾我の狂言という風に想像して、一丁目の狂言は何、二丁目は何、三丁目は何々の狂言を演(や)るようだが、曾我はつまらなそうだが、花魁殺しの方は面白そうだというような噂に噂を呼んで、来春の評判を作るのです。
 こういう風に見物の興味を釣っておくということが、春芝居の成功、不成功の分かるるところで、まったく趣向の巧拙(こうせつ)によって大変の損得があったということです。いかに狂言のの内容がよくても絵看板の趣向が拙(まず)いとつまらないものとせられてしまいますし、ちっとやそっと役者などが悪くても、看板の絵の取合わせとか、思いつきの巧(うま)いものなどが、より以上の効果を収めることができたそうです。
 この看板の趣向などは黙阿弥翁の得意の畑で、道具を並べることが非常に巧かったということです。これがまた一つの呼び物で、単に絵看板を見に行くだけに、わざわざ出かけて行く者もあって、芝居小屋の前は見物の山を築いたそうです。

芝居の開場と狂言立て
 その頃の芝居というものは酷く貧乏でしたので、几帳面に開場することは少なかったのです。十月一日に開場することになっているものが、十一月に入らなければ開場しないようなことは珍しくありません。甚しいのになると、番付まで配っておきながら、お流れになってしまうようなこともありました。
 が、正月・三月・十一月だけは、きちんと開場しました。正月は普通の薮入を当込んでです。三月は御殿女中の宿下がり、即ち徳川の大奥や諸大名の女中衆の薮入りですが、前後三日の賜暇(しか)の一日を必ず芝居に行くことに決まっていたのです。
 つまり御殿女中の宿下がりというものは、芝居見物をするためにできているようなもので、各自に見て来た芝居の噂などをして一年に一度の宿下がりを楽しみにしていたものです。それを親たちの方でも待ち構えて、一緒に連れて行きましたので、三月の芝居は大入が続いたそうです。
 そうして狂言の並べ方も女の多く出るものを選んで、鏡山とか先代萩(せんだいはぎ)とかお軽勘平の道行とかいうようなものを演(や)りました。
 十一月は顔見世興行ですが、これは一年中の座組を披露するので、顔見世芝居は演らない訳にはいきません。
 夏芝居は演つたり演らなかったりしましたが、納涼芝居〔夜(よ)芝居〕を第二流どころの役者で開くこともありました。
 とにかく、正確にゆけば正月・三月・五月・七月・九月・十一月と、年に六度開場することになっていましたが、大抵は三度か四度が関の山でした。
 狂言の立て方はちゃんと一定していました。まず正月は曾我に因んだもの、三月は御殿女中の出るもの、五月は別に決まりがありません。七月は役者次第、九月は菅原です。これは書下ろしが九月のせいでしょう。現今のように正月に「賀の祝(いわい)」などを演るようなことはありません。十一月は「暫(しばらく)」の如き古風な狂言を一幕ずつ選んで演っていました。

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底本:岡本綺堂 風俗江戸物語 (今井金吾校注) 昭和61年10月31日 河出文庫
親本:岡本綺堂『風俗江戸物語』大正11(1922)年2月 贅六堂
入力:和井府清十郎
公開:2003年2月10日
※なお、校注は省略した。
本文中の( )内は校注者によるもののようである。〔 〕内はいずれによるものか不明。

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松明と烏帽子は“曽我の狂言”に違いない……。『風俗画報』93号(明治28年6月10日号)扉絵



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