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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 関東大震災の直後に書かれた作品の一つ。失われ行く江戸・明治前期に、さすがにトーンに悲しみが漂う。また、父や姉も登場して、感傷的ですらある。この時期の、東京の人たちの風景を見る目は優しい。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 島原の夢

             岡 本 綺 堂
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 「戯場訓蒙図彙」(しばいきんもうずい)や「東都歳事記」(とうとさいじき)や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎(かぶき)の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮(しよせん)は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前から殆(ほとん)ど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離(わかれ)をつげて、かけ橋はまったく断えてしまったらしい。
 おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が画(かく)されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分(わか)たれていた。
 明治の初期には所謂(いわゆる)文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯(ガス)灯がひかり、洋服や洋傘やトンビが流行しても、詮(せん)ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道にのる人、瓦斯灯に照される人、洋服をきる人、トンビをきる人、その大多数はやはり江戸時代からはみ出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めてこの世の風に吹かれた人間であるが、そういう人達にはぐくまれ、そういう人達に教えられて生長した。即ち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには聊(いささ)か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかしその遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞(ことば)をしらない。
 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに踏(ふ)み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれが矢はり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明かに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは曾(かつ)てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味は矢はり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしは矢はり昔の歌舞伎の夢から醒(さ)め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
 その夢はいろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座(しんとみざ)、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯灯を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷(さじき)五人詰一間(ひとま)の値(あたい)四円五十銭で世間をおどろかした新富座その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見出される。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻(こよ)りでこしらえた太い鼻緒の草履(ぞうり)をはいている。
 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占(つじうら)せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾(はなのれん)をかけて、さるや[#「さるや」に傍点]とか菊岡(きくおか)とか梅林(ばいりん)とかいう家号を筆太(ふでぶと)に記るした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主(ざぬし)や俳優(やくしや)に贈られた色々の幟(のぼり)が文字通りに林立している。その幟のあいだがら幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積物(つみもの)が往来へはみ出すように積み飾られている。
 ここを新富町(しんとみちよう)だの、新富座(しんとみざ)だのと云うものはない。一般に島原(しまばら)とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。  築地(つきじ)の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青(こんじよう)の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮べている。河岸(かし)の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣をしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣(ゆかた)を着て、日よけの頬かむりをして粋(いき)な莨(たばこ)入れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴(あめ)屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹(あか)や藍(あい)で書いた庵(いおり)看板がかけてある。居附きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓(いなりずし)を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細(しさい)に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇(うちわ)も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
 こうして、築地橋から北の大通りに亘るこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、所謂(いわゆる)芝居町(しばいちまち)の空気につつまれている。勿論電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切(いつさい)通過しない。たまたまここを過ぎる人力車があっても、それは徐(しず)かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を諳(そら)んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら挽(ひ)いてゆくのを屡々きいた。
 秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を額(ひたい)にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間(どま)に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかの外(ほか)はないので、天気のいい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼等の誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋(やつはし)との籠(かご)をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊している。かれらにかぎらず、すべて幕間の遊歩に出ている彼等の群は、東京の大通りであるべき京橋区新富町の一部の原を自分たちの領分と心得ているらしく、すれ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を咎(とが)めないらしい。土地の人たちも決して彼等を邪魔者とは認めていないらしい。
 やがて舞台の奥で木の音(ね)がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群のように、皆ぞろぞろと繋がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方(でかた)のうちでも、如才のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それに促されて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番先に駈出してゆく。木の音はつづいてきこえるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とを遮る華やかな大きい幕は猶いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその木の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳らせて正面をみつめている。
 幕があく。「妹背山婦女庭訓」(いもせやまおんなていきん)、吉野川の場である。岩にせかれて咽(むせ)び落ちる山川を境にして、上(かみ)の方(かた)の背山にも、下(しも)の方(かた)の妹山(いもやま)にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一所にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾(す)がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇(ちやう)の袴をつけた美少年が殊勝げに経巻(きようかん)を読誦している。高島屋とよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川左団次の久我之助である。
 姫は太宰の息女雛鳥で、中村福助である。雛鳥が恋人のすがたを見つけて庭に降り立つと、これには新駒屋とよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立の少年に扮して、しかも水の滴(したた)るように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も捻るような吐息を洩しながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美い錦絵をひろげてゆく。
 背山の方(かた)は大判司清澄(だいはんじきよずみ))――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮(かり)花道にあらわれたのは織物の※※[#ネ偏+上という字、ネ偏に下](かみしも)をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵からぬけ出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に嵌ったような彼の姿、それは中村芝翫である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切(きり)髪の女は太宰の後室定高で、眼の大きい、顔の輪廓のはっきりして、一種の気品を具(そな)えた男まさりの女、それは市川団十郎である。大判司に対して、成駒屋の声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田屋、親玉の声が三方からどっと起る。
 大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟、親の子のと云うは人間の私、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空嘯(うそぶ)く。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接ぎ木をいたさねば、太宰の家が立ちませぬ。」と、定高は凛とした声で云い放つ。
 観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。

 その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った彼(か)の四人の歌舞伎俳優のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽み、ひとり悲んでいる。かれはおそらくその一生を終るまで、その夢から醒める時は無いのであろう。

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底本:岡本綺堂・綺堂随筆 江戸の思い出 河出文庫 河出書房新社 2002年10月20日初版印刷
なお、初出は「歌舞伎の夢」『随筆』大正13年1月、のち岡本綺堂・十番随筆、岡本綺堂・綺堂むかし語り、採録
入力:和井府清十郎
公開日:2003年1月27日


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扇子をかざした綺堂の姉梅もきっとこんな感じだったろうか……。



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