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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆  9 増 補 信 長 記   『創作の思ひ出』より

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 信長が叡山を焚き亡ぼしたのは、彼が悪行の一つとして傳へられてゐますが、北條早雲といひ、武田信玄といひ、上杉謙信といひ、この時代の名将等が揃ひも揃つて佛を信じ、寧ろ佛に侫するといふ風習が盛に行はれた時代に、信長一人が敢然として周囲の反対をしりぞけ、世間の批難をかへりみずに、古来何人も手を下し得なかつた横暴の山法師を一時に破滅させたのは、頗る痛快であると思はれます。何の彼のと云ふものの、これは秀吉にも家康にも出来ません。たしかに信長の専売です。基督教に結びつけて彼れ是れ云ふ人もありますが、基督教が渡来しようが、しまいが、信長は恐らくこの破壊的行動を敢てしたであらうと思はれます。信長の滅亡を評して、神社佛閣を破却した應報のやうに云ひ倣すのは、後世の佛徒の作為であつて、神社でも佛閣でも、此世に害あるものを破却するのは当然であります。信長の叡山破却については、徳川時代にも種々の議論があつて、一般には悪徳のやうに認められてゐますが、その中で、かの中井積善は信長の行為を是認して、僧徒積悪の自業自得であると論じてゐるのほ、流石に大儒の見解であるとうなづかれます。その信長を書いてみようと思つただけのことで、ほかに理由はありません。したがつて、大体は史実の通りで、作者の空想をあまり多く加へてゐないのです。要するに、この劇をみて、何か一種の痛快味を感じられさへすれば、作者の目的は達したわけです。ほかには別に云ふことも無いのですが、この劇については二つの思ひ出があります。一つは、大正十二年の震災の後、即ちその翌月に左団次一派は京都へ乗込んで、この「信長記」を上演したことです。その常時、わたしは震災のために家を焼かれ、蔵書を焼かれ、原稿を焼かれ、ノートを焼かれ、一切のものを失つたやうに感じてゐる時、京都で「信長記」を上演すると云ふことを聞いて、自分の物もまだ何か残つてゐると云ふやうな一種の心強さを感じました。わたしの作で震災後はじめて上演された物といふだけでも、自分としては記念になるやうに思はれます。
 もう一つは、昨年の春、これが露語に訳されて、レニングラードの国立アカデミック・ドラマ劇場で上演されたことです。手もとに新聞の切抜き等がないので、詳しいことは申上げられませんが、最後の叡山焼撃は頗る好評で、写真などを見ると俳優の扮装などもなか/\巧みに出来てゐました。その次が巴里の「修禅寺物語」で、わたしの作が初めて外囲の舞台に上せられたのは、この「信長記」が皮切りです。その意味から云つても、自分としては記念の作です。
                                 (昭和四・三)



底本:岡本綺堂 「甲字楼夜話」綺堂劇談349−354頁
  青蛙房 昭和31年2月10日
入力:和井府 清十郎
公開日:2008年4月27日

おことわり:  一部旧漢字になっていない箇所があります





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