つぎは、新(派)劇の黄金時代、明治30年代・40年までの上演リストですが、秋葉太郎・日本新劇史455ー458頁を参考に補訂正したものです。当時は、日露戦争の戦中・戦後期に当たります。但し、このリストが網羅的であるかどうかは不明です。明治40年の分には本郷座のものしかなく、真砂座のものが掲載されていないのは下記の理由からです。 武内桂舟(1861−1943)の「金色夜叉」の人気だった挿絵 学生帽にマント、細皮ひもの皮製の鞄?に革靴。私が芝居などで見たのは高下駄だったような……。新興銀行家の御曹司と宮さんのお見合いが熱海であった。一高生の貫一は新橋駅から駆けつけたはず。
宮は挫(ひし)ぐばかりに貫一に取着きて、物狂しう咽(むせび)入りぬ。 ―尾崎紅葉『金色夜叉(前編)』より 小さい頃はよくテレビでもやってましたね。「熱海の海岸……」という唄とともに。復活でやってくれないでしょうかね、TVドラマで! 右は、映りが悪いのですが、改築後の本郷座です。 真砂座は中洲の小劇場で、劇場を中心に小花柳街があった。明治31年3月には、三遊亭円朝の「累ヶ淵後日怪談」が初演されてもいる。少年時代の永井荷風も水着姿で観劇したこともある。残念ながら、この座の写真や絵を見たことがありません(調査します)。 新派劇の特徴は、下記の表を一覧していただけると分かるのですが、簡単に特色として挙げるならば、 まず、演目としては、「想夫恋」「高野聖」「乳姉妹(ちきようだい)」「己が罪」「惟艶録(きようえんろく)」「通夜物語」「婦系図」など、旧劇・歌舞伎では上演しない新しいストーリー、つまり当時の現代物が上演されている。演劇の時代制約性ともいえるだろう。 つぎに、脚本は、尾崎紅葉、泉鏡花、菊池幽芳、渡辺霞亭らの新進作家の新聞小説を劇化したものがあり、畠山古瓶(こへい)、花房柳外、田口掬汀(きくてい)、小栗風葉、柳川春葉、小島孤舟、佐藤紅緑らの作者が脚本を書いた。これらも新しい演劇や空気を入れることに寄与したものと思われる。 さらに、俳優としては、本郷座の座頭であった高田実、喜多村緑郎、藤沢浅二郎、水野好美、河合武雄、小織(さおり)桂一郎、静間小次郎、佐藤歳三、井上正夫、福島清、村田正雄、山崎長之輔、英太郎、木下吉之助、山田九州男、藤村秀夫らが輩出している。 なかでも、高田実(1871‐1916(明治4‐大正5)年)は、東京・千住で生まれ、鉄道会社勤務から転じて1892年に初舞台、のち山口定雄一座から川上音二郎の一座に代わった。「日清戦争」の李鴻章役が受けた。1896年に大阪で喜多村緑郎らと成美団を結成して、関西新派の頭目として活躍した。のちに東京・本郷座の座頭俳優となって、新派全盛、本郷座時代を築いた。《金色夜叉》の荒尾譲介、《己が罪》の作兵衛、《琵琶歌》の三蔵役が有名。 また、河合武雄(1877‐1942(明治10‐昭和17)年)は、本名を内山武次郎といい、東京生まれで、父は歌舞伎俳優の5世大谷馬十(ばじゆう)である。山口定雄一座に入門し、明治、大正、昭和を通じて新派の女方として活躍した。初期の頃には真砂座で近松作品を共演した伊井蓉峰や、女方の喜多村緑郎らとともに三頭目となった。《二筋道》が有名である。美貌で派手な芸風であったといわれ、歌舞伎に近かったようで、岡本綺堂も、彼に「伝法な役の女形」をやらせたら、随一といっている。新派のこの俳優には脱帽だったらしい。ほかに酒乱の仮名屋小梅や「無花果(いちじく)」のエミアの西洋婦人などの当り役もある。 真砂座 右は、中洲・真砂座を記す明治44年頃の地図 下記の上演リストを見ると分かるように、真砂座でのほとんど上演は伊井蓉峰一座によるものである。明治35年1月に、伊井は真砂座に根拠を持つようになる。これ以前からいた歌舞伎役者の大谷馬十、嵐璃宗らと合同した形であった。翌36年には市村座に拠ったが、明治37年から再び真砂座に戻った。この後3年間、つまり明治39年末までここに拠ることになるのである。したがって、下記の一覧表のように、明治40年のリストに真砂座の新派劇は無いのである。 劇評家で、森鴎外の実弟である、三木竹二が、この真砂座ないしは伊井蓉峰の贔屓だったようだ。この三木竹二の紹介で、伊井蓉峰一座の小屋である真砂座に出入りしたのが、小山内薫であった。当時小山内はまだ帝大の学生であったが、卒業後は、伊井一座の脚本改訂などの役割をしていたという。小山内訳の「ロミ・ジュリ」が明治37年11月に上演されている。 伊井蓉峰とも付き合いがあった久保田万太郎はつぎのように書いている: 「伊井蓉峰によってはじめて劇場生活を経験した小山内薫。……小山内薫によってしば/\その理想にむかっての道しるべをえた伊井蓉峰。」 (「いまは亡き伊井蓉峰」久保田万太郎全集13巻156頁(1976、中央公論社)) とすると、明治40年以降に、小山内薫と市川左団次(2世)を結びつけたものは誰なのか?
◇「乳姉妹」は、ある華族家を舞台にしたもので、乳姉妹の一人妹の房江は侯爵の実の娘であるが、姉の君江が侯爵の娘になるも、破滅するという話である。1月9日に本郷座に出かけたのは、堺利彦、石川三四郎らの社会主義者であった。堺には家庭論もあるので、当時の上流家庭を扱った「乳姉妹」は興味深かったようだ。各幕のあらすじとコメントを書いている。本郷座は、男女学生の争い観るところとなって、新時代の趣味好尚を示していると評価している。また、書生芝居と侮蔑的に呼ばれてきた新派劇俳優らが、「近年に於ける進歩は実に著大のもので、冷かされ、嘲られ、罵られるが中に、とうとう大勢力となってしまつた」と感激している。堺個人は、河合武雄の君江役がとくによかったとしている。(「週間平民新聞 明治38年1月15日 第62号」堺利彦全集3巻175−177頁(1933、中央公論社)。) ◇穂積歌子は、帝大の法学者穂積陳重夫人だが、明治38年(1905)6月14日の記述に、夫の陳重が「山田(三艮)仁井田(益太郎)の諸君の案内にてまさご(本郷)座夜芝居見物、十二時過ぎお帰り。」(穂積重行編穂積歌子日記1890−1906(1989、みずず書房)とある。なお、日付からして、編注の「(本郷座)」は誤りで、真砂座でよいと思われる。 ◇落語は好きだが、芝居にはあまり興味を示さなかった夏目漱石も、「金色夜叉」を観に本郷座に出かけた。夏目漱石(談)「本郷座金色夜叉」神泉1巻1号(明治38年8月)、漱石全集25巻123頁以下所収(1996)。 ◆綺堂先生との対話 某○△画報記者 「綺堂君、本郷座や真砂座あたりの賑わいをどう思われますか?」 記者綺堂 「うん、大した賑わいだそうじゃないかね、君」 記者 「僕は、つい先日、知り合の女学生を連れて、「金色夜叉」を観にいったのですがね。あの漱石君の顔も見えましたよ。僕は女を、しかも若い女を足蹴りにするのは、どうもすかんですがね。愛も変ずるとああなるのですかね。」 記者綺堂 「僕は、どうもやはり最後の結末が小説だなという気がするな。で、河合武雄はどうでした?」 画報記者 「高田とともに、なかなかのものでしたよ。ご覧になったら?」 綺堂 「僕は旧劇派なのだが、覗いてもよいな。なぜ隆盛しているか、旧劇の僕らとしても知っておきたいところだ。」 綺堂の、つぎの新派興隆の分析は、なかなか鋭い。
「この戰爭に書生芝居は勝つた。歌舞伎芝居は敗れた。」 ―「綺堂一夕話 ―歌舞伎と新派と―」「新潮」昭和9年1月1日(第31年1)号103−111頁より 綺堂事物ホームへ (c) 2002 Waifu Seijyuro.All Rights Reserved. | 真砂座の芝居風景(東京朝日新聞記事より) (下)伊井蓉峰の塩原多助 (不明・明治40年頃) |