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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 14 相馬の金さん

  「創作の思ひ出」より

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 相馬の金さんは本名を戸村福松と云つて、徳川幕府の添番といふ役をつとめ、一年百俵の禄を受けてゐる御家人であるが、その素行すこぶる修まらない。かれは一種の直侍であつた。結局それがために、今日で云へば論旨冤官といふ格で、隠居させられることになつた。それは慶応三年の夏頃のことで、あくる四年の春には幕府顛覆、江戸中は引つくり返るやうな騒ぎになると、金さんは家を飛び出して、上野の彰義隊に這入つた。彰義隊が負けて、一同ちり/"\になつた際に、金さんは函館にゐる榎本武揚の手に合するといふので、同志の者二十余人と和船に乗り込んで出ると、その船は銚子沖で沈没して一行は溺死したとも云ひ、または上陸して上総あたりで戦死したとも云ふ。いづれにしても、彼は主家の徳川幕府と運命を倶にして亡びたのであつた。前にも云ふ通り、かれの本名は戸村福松といふのであるが、世間からは専ら相馬の金さんと呼ばれてゐた。金さんはその幼名で、彼の家は相馬將門の後裔であると称してゐるので、相馬の金さんがその通称となつたのである。
 三田村鳶魚氏が「事業の日本」に書かれたこの話を読んで、わたしが面白く感じたのは、かの金さんの意氣と行動である。金さんの平生から考へると、幕府がほろびて官軍が江戸へ乗り込んで來るといふ時節に、彼は逸早く逃亡してしまふか、或ひはそのドサクサ紛れに軍用金をあつめるなどと称して、斬取り強盗でも働きさうなものであるが、彼はそんな卑怯なことをしなかつた。相馬の金さんは敢然として彰義隊に身を投じたのである。千人や二千人が上野の山に楯籠つたところで、絡局の勝目の無いのは金さんも流石に承知してゐる筈である。たとひ最初は勝つ積りで加盟したとしても、唯一戦に敗れた以上、彼もその運命の非なるを覚つたに相違ない。而も脱走して再挙を図らうと企てたのである。其人を以て其事を廃せずとか云ふのは、金さんの場合にも當て嵌ると思ふ。相馬の金さん、たとひ實際は放蕩無頼の人物であつたとしても、この行爲は悲壮である。わたしは金さんを可愛いと思つた。
 それが「相馬の金さん」を芝居に書いてみようと思ひ立つた動機である。金さんが単に一種の直侍に終つてしまつたのならば、私はかれを劇化しようとは企てなかつたであらう。わたしは金さんの江戸つ子振りが嬉しかつたので、三田村氏の承諾を得た上でそれを三幕に脚色して、中央公論に掲載したのであつた。
 勿論それを劇化するに就いては、實録以外に私は色々の事實を構造した。第一幕の質店で、金さんが蛇を種に強請場を演じるのは本文そのまゝであるが、第二幕以下は殆どわたしの空想である。金さんが上野で死ぬやうにしたのは、劇として纏まりを付ける都合上、まことに已むを得なかつたのである。併し、金さんなる人物はいはゆる忠義のために死んだのではない。江戸つ子の一人として自家の意氣と面目との爲に死んだのであると云ふことは、出來るだけ詳しく説明して置いた。金さんは其當時の口癖になつてゐる「徳川家三百年來の御恩」などの爲に死んだのではない。彼は自分のために死んだのである。
 實録に金さんの艶聞は傳はつてゐない。併し我が金さんに惚れるほどの女が一人くらゐ無くては、江戸に女がないやうで残念だと思つたので、常磐津文字若といふ女をこしらへた。ほかにもわたしが勝手に作り設けた人物が多い。わたしにこの材料をあたへられた三田村氏はいかなる意見を有してゐられるか知らないが、わたしは金さんを愛するが爲にこの芝居を書いたのであることを断わつて置く。                   (昭和二・一一)

底本:岡本綺堂 綺堂劇談
   青蛙房 昭和31年2月10日発行
入力+校正 和井府清十郎

おことわり
 原文の旧字のようになっていない箇所があります。






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