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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 「高松城」は、岡本綺堂19歳のときの作品で、初の読物・小説だろうと考えれます。つぎの章立てとなっています。
 上月の没落(今回公開 3/3/2003)
 夜半の梅雨(以下、順次公開予定)
 他国の旅人
 死出の田長
 兄弟の対面
 高松の水攻

今回は第1回を公開するもの。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。


「高松城」の初出・連載は、東京日日新聞1891(明治24)年11月27日から12月19日までですが、その第1回の連載開始の頁(一部)をつぎに掲げておきます。初出の東京日日、第2回は、下記の青蛙房の選集に収録、そして今回で3度目の公開だろうと思われます。初期の習作としてお読みください。



◆ 高 松 城

             岡 本 綺 堂
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上月(かうづき)の没落(ぼつらく)

 野末を払ふ初秋の風かあらぬか木の葉と共に、はらく散り行く味方の軍勢、蓬なし返せと幾度か、声を限りに呼はりく、血汐に染みたる大身の槍を其の熾杖にきっと見やる、アラ無念、野も山も、こが無念や敵の旗指物、本城は猛火天を焦す、ハッと思はずたじろく足、踏み止るにも力尽きぬ。
 秋草サヤ/\と押分けて敵の兵者(つはもの)三五人、ソレ余すな、と追取り籠めて打って掛る、太刀先は恰(さな)がら四辺(あたり)の尾花かと見紛(みまが)ふ、小癪なと、大音声、槍カラリと投げ棄てゝ腰なる太刀、抜くより早く閃(きら)めく電光(いなづま)、一人の細首ハッシと打ち落す、あはやと見る間に今一人小腕(こかいな)ハタと切落されぬ、傍輩(ほうばい)の仇逃さじと踏込み/\切り付る、敵の切先勢ひ鋭く心ばかりは※[#「端」の立偏に変えてしんにゅう偏 8992, 797c](はや)れども此方(こなた)は数刻の疲れ手負ひの悲しさ、踏む足シドロに太刀筋乱る。
 折から乱髪顔を被(おほ)へる若武者、遥か彼方(あなた)より一散に宙を飛ぶ、間近く寄りさま、父上と声を掛けながら振りかざしたる一刀、敵の一人は又もやバラリと乾(から)竹割、不意に駭く残りの二人、一人は振向きさま新手の敵と渡り合ふ、双方互ひに一騎打ち、嚢(さき)なる武者は援けに力をや得たりけん、受けつ流しつ付入って、ヲッと叫んで横に薙ぐ、あはや此方の敵の倒るゝ時、彼方の敵も若武者に打たれぬ。 敵は残りなく打止めたり、ハッと気の弛みか、其場にドウと倒るれば早くも馳け寄る若武者、引起して父上父上、呼び活けられて気を取直し刀を杖に立上ってよろ/\/\、アナヤと思はず縋る鎧の袖、両人顔を見合せて猛き心も弛むなる、四(よつ)の眼に溢れ来る涙は、矢並つくらふ小手の上に霰たばしる如くなり。
 父上、無念にござりまする。シテ/\本城の様子は如何に。されば候ふ、申すも無念の事ながら、敵城中に攻め入ったれば、味方の兵者(つはもの)は二の木戸を固め、茲を先途と堪(こら)へしが、名に負ふ吉川(きつかは)、小早川が手強き軍配、味方は数刻(すこく)の難儀の合戦、打物は折れ矢種は尽きぬ、今は変化の術(てだて)もなく大将にはおん腹召され、山中殿には乱軍のうちに行方知れず、其他の面々は好き敵と引っ組で思い/\に相果て候ふ。扨(さ)ては愈々※(繰り返し記号)落城と事極まりしか、十に八九は勝つべき今度の合戦に、傾く尼子(あまこ)の御運とは云ひながら、口惜しや我は手の者五十騎を引率し、吉川にもあれ、小早川にもあれ、敵の大将を択(えら)み打ちと、城を離れて遠く出でしに敵にもかねて備へあり、吉川が小伜元長の手に追取り籠められ、心にもあらで引上げしは返す/”\も残念なり、さりながら今更悔むで詮なし、其方(そのほう)は早や/\此場を落ちよ、残りの兵者共、忠義の人々(ひとんど)を語らひて、又の旗揚げ亡君の弔ひ合戦、其方ならで外になし。
 云ふも苦しき息づかひ、唯だ手真似にて彼方へ早く、ハッハッと返答(いらへ)はすれば立ち兼ぬる、そもや父子打連れて軍陣に臨む、父は子の矢面に立ち塞がり、子は父の槍脇に走せ向ふ、修羅の巷(ちまた)の其の中にも変らぬものは恩愛ぞかし、それも今は水の泡、父の姿を見るも涙、鎧の威毛(おどしげ)は色をかへて厚金も裏かく数ケ所の矢疵、半面鮮紅(のり)に染みて、おどろに被ひ掛れる乱髪、無念と握り詰めたる太刀は、汝(おの)れ汝れ、恨み重なる敵を何十騎切って落しけん、未だ折れこそせね、刀金((はがね)は無残にこぼれぬ。
 堰き来る涙は葉末に露を宿して猶も手負ひを剿(いたはり)りながら。父上、其の仰せは御道理(ごもつとも)、ともあれ此処は野中、人ある方までおん伴せん。アゝイヤ我は数(す)ヶ所の深手、枯れたる枝に花は咲くとも、いかで命生存(ながらふ)べき、我は此処に我君の冥途おん伴、又もや敵の寄せぬうち、其方は早う/\。如何に父上の仰せなりとも此儘に見棄てゝは。イヤ/\こゝで父子(おやこ)二人、むなしく命を捨るのが忠義にあらず、落ちよ、はや落ちよ、父が頼む、頼みじゃ。
現在父に手を合はされ、胸も張り裂く子の心、父を棄てゝ走るも忠義、子を棄てゝ死ぬるも忠義、浅ましきは世の有様、捨つべきものは弓矢とは今更思ひ合されける。
エゝ未練なり不覚なり、この期(ご)に及びてウヂ/\するは此の父に心残りてか、然らば見事この首打って、父の最期を見届けて、心残さず落ち延びよ。アイヤお詞には候らへども、現在父の。イヤ/\武運尽きたる時は父が我が子の命を絶ち、子が我が父の首打っこと弓矢の習ひ是非もなし、とても逃れぬ此の深手、少しも早く首打たぬか。と父が覚悟の体見るにつけ、子は差しうつむきて詞なし。
 何を猶予、我を現在の父と思へばこそ、我を讐敵(あだがたき)と思ひなば。と思ひもかけぬ詞、子は不審の眉を顰めて。ナニ父上を敵とは。如何にも其不審は無理ならず、島田十郎左衛門が最期(いまは)の物語、能く聞くべし忰五郎。
元利元就陶全薑(すえぜんけふ)を打って取り、周防(すはう)長門(ながと)を初めとして大内氏の所領悉く己(おの)が手に入りぬ、遂に当舘(やかた)(尼子)の所領(出雲)(いづも)をも攻め滅ぼさんず結構なり、大殿(民部大輔晴久(はるひさ))鈍(おぞ)くもその計略(はかりごと)に乗せられて、新宮党随一の強者(つはもの)と聞えたる紀伊守殿(国久(くにひさ))を失ひ自から枝葉を枯らして悟らせ給はず、数度(すど)の合戦常に毛利方の勝利なり、あはれ安芸の奴輩(やつばら)に一泡吹かせて、我君の御威勢、出雲の住人が武勇の程を見せてくれんと、心ある者共は日夜軍慮に油断なし、我も忠義の一心、さま/\に、思案を連(めぐ)らせども、兵を繰(あやつ)りては向ふに前なく、げにや神機妙算鬼神に等しき元就、これに従ふ元春隆景、智勇いづれも万人に勝(すぐ)る、これに当らんこと中々の事にあらず。
 かくも上下心を悩ます折から、当家の侍大将本荘三九郎常光、重代舘の高恩を蒙りながら、弓矢取る身にあるまじき振舞、ひそかに毛利方に心を通はせ、密書の往来屡々なりとの取沙汰、おのれ逆賊おのれ獅子身中の虫、傾く舘の運を見限り、怨敵毛利に内応(うらぎり)とは、と城中挙って憤怒の牙を噛む、大殿ひそかに我をお招きあって、三九郎が事棄て置くべきにあらず其方好きにはからへとの仰せ、承はりぬと御前を退きしが、明らさまに其の罪を鳴らして刑に行はんこと安芸に聞えて便(たより)よろしからず、それと云はずして打って捨つるこそ好かりなん、と所存を固め、酒狂に事寄せての刃傷、弓矢八幡、正義の太刀先は二股の侍を二段となしぬ、好うこそしつれと御感(ぎよかん)あり、三九郎が女房葉末、過ぎし頃より妊身(みごもり)てはや臨月(うみづき)となりけるが、夫打たれて後夜に紛れて何処(いづく)ともなく迷ひ出でぬ。
 用心厳しければ敵も迂潤には寄せ来たらず、かくて永禄三年もはかなく暮れ、明くれば四年の春の末つ方、弥生の空の長閑(のどけ)きに、しづ心なく散る花の雪に紛ひてはら/\と降りかゝるも面白く、軍慮の疲れを休めんと終日(ひねもす)野山を廻(めぐ)りし返るさ、日は西の山の端(は)に傾きて、照りもせず曇りもあへずと云ふ、朧の月の影を踏み、夜風にそ袂吹かせつゝ来かゝる路の片ほとりに、怪しや赤子の泣き声、これは如何にとよく/\見れば、生れてより半年(むつき)を越じと見ゆる男の児の襤褸(つゞれ)に包みたるが、母に添乳の夢や破れけん、声高くヤゝと泣く、如何なる人の種なるかは知らず、生みの我が子を野逕(やけい)に捨つるはよく/\の事なるべし、浅ましや不便やと抱き上ぐれば一通の書状添えたり、封押切れ女性(をんな)の筆の走り書きにて、元は当舘の御内にて少しは人にも知られつる者にて候ふが、様子あって夫を先立て侍りぬ、生み落したる男の児、頼りなき女子(をなご)の手一ツにて恙がなく養ひ上げんやうもなし、近頃押付けがましき業(わざ)には候へども、慈(なさけ)ある方さまになにとぞ行く末好きに頼み参らする、と心細き数々覚束なくも認(したゝ)めて、後の証拠(しるし)にもやと思ひけん、その奥には南蛮鉄の割※(#「手偏+帝」8482, 7472)枝(わりかうがい)、金(こがね)の鳩の半身を留めぬ、これは是れ正(まさ)しく見覚えある本荘三九郎が秘蔵の業物(わざもの)につけたるものなり、何さま指(かゞな)ふれば去年の冬城内を出でたる、彼が女房が産み落せしは此の赤子にてありつるよな、城を出でてより身を措くべき所もなく、かくは野の末に我が子を捨てしか、不忠不義の応報(むくひ)その妻子にまで及びて、路頭に迷ふは是非もなき事なれども、その罪を憎んでその人を憎まずと云ふなるに、まして罪なき稚さな児は返す/”\も不便の事なりと、抱き返りて窃かに婦(つま)にも申し含め、里の者より貰ひ受けしと披露なし、兎も角もして育つる程に親にも似もやらず最(いと)も愛らしげなり、殊に我には子と云ふもの無ければ、まことの我が子のやうに思はれて夫婦が手のうちの珠(たま)といつくしむ、子は未だ当歳の折なれば何事も弁へず、唯だ我々を誠の親と思ひて、父よ母よと啼く簑虫の、我が身の上のこと露ばかりも知らず。
 光陰は弦(つる)を離るゝ箭(や)よりも早し、五年の十二月大殿には仮初(かりそめ)ならぬおん疾病(いたつき)にてあへなく世を去らせ給ひぬ、伊予守殿(義久)おん跡を承けさせ給ふ、八年の九月落葉の袖寒き頃なりけり、寄手の大将は元就が孫少輔太郎輝元、吉川、小早川これを佐(たす)く、富田(とんだ)の城を十重廿重(とへはたえへ)に取囲む、味方は一年の籠城、天飛ぶ鳥にあらでは外へ出づべきやうもなく、今は城中の兵粮も残りなく竭きて外(ほか)に援けの兵者(つはもの)なし、殿にも今はと思(おぼ)されけん、敵の使を幸いに、文明十八年省心院(経久(つねひさ))殿こゝに居城ありてより八十一年の共の間、住み馴れたる城を致して、申すも無念、降人となって出でさせ給ふ。
 されば侍大将馬の口取に到る迄、皆阿容(おめ)/\と安芸方に降参なす、その折我は立原(之綱(ゆきつな))殿、山中(幸盛(ゆきもり))殿と心を協(あは)せ、北陸関東をめぐり/”\て、花の都に身を忍び時の到るを待つ、あはれ尼子の運末だ竭きずや、十二年の五月、毛利元就西海の大友と兵馬を構ふる風聞都に隠れなく聞えたり、素破(すは)やと天にも昇る心地して、本福寺に在(おは)する助四郎殿(勝久)を大将と仰ぎ参らせ、忍びやかに出雲に下り、蛟竜今こそ雲雨を得たれ、新山末次の両城を一揉みに攻め破りぬ、続いて富田の城を囲む、かくと聞えて吉川小早川、これに従ふ兵者一万五千、取って返して寄せ来たる、味方は又もやさん/”\の敗北、さても毛利の運の強さよ、それにつけても尼子の運! その折立原殿は打たれぬ、残るは我と山中殿、力の及ばん限りは再度の旗揚げせんものと、心を協せて大将を守護し奉り、うき簑笠に人の目を忍びで又もや都へ走せ上り、織田信長を力と頼み、羽柴筑前守殿の先鋒(さきて)に属す、去年(こぞ)の秋(天正五年)山陽道に攻め下り、この上月の城を乗っ取りし時の心地好さ、今に忘れず。
 新玉(あらたま)の春は来たれり、二月(きさらぎ)の初めより安芸の勢(せい)この城を囲む、攻むる者守る者互角の勝負に日を送る程に、筑前守殿こそ心得ね、敵の手剛きに後れやしけん、援けの勢を引揚げて高倉山に退きぬ、今は孤城落日、心ばかりは矢竹に※[#しんにょう+山+而]432頁(はや)れども身も金鉄にあらぬ悲しさ、入れ替へ/\押し寄する敵、味方は手疵の鮮紅(のり)を啜りて戦かふ、兄を打たせて弟は扶くれども力及ばず、父を庇ふ暇もなく児は已に倒れぬ。
 口惜しや情なや今此の如き無残の落城、大将にはおん腹めされしとか、山中殿には定めて乱軍のうちを紛れ出で、曽て口にせられし如く、この世に在らん心だめしに、猶も数々の辛苦を凌ぎ会稽の恨みを晴さん所存と覚えたり、其方も、と云ひかけて思はず涙を拭ふ。 あるまじき未練の振舞とも思ふぺけれど、桓山の四鳥すらも父子の別れを哀(かなし)むと云ふ、ましてや子で子にあらぬ怪しき因縁(えにし)、かねてなき身と思ひ知れば、命こそは惜しからね、父子の別れは哀しきぞ、母は過ぎつる年この世を去り、初め都へ上りし折其方を本福寺へ預け置きて、人なみ/\に手習学問させつ、戦敗れて再び上りし時、其方は已に十五の春を迎へぬ、初冠(ういかんむり)して五郎義次と呼ぶ、それより父子相並びて軍陣に臨み、筑前守殿とこの国に下りて、この上月の城を攻めつる時、忘れもせぬ其方の初陣。あはれ功名して勲功に預かれやと心に念じ居たりしに、げにあっばれ、薄手一ケ所だに負はず、冑首三つまで打ち取りぬ、その時父の喜びは如何ばかりぞや、それも夢の昔しとはなりけり、今は果敢なき此の有様、君命とは云へ其罪ありとは云へ、其方の父本荘三九郎を打ったるはかく云ふ我ぞ島田重次ぞ、とても逃れぬ最期(いまは)の際(きは)、其方の手に打たれなぱ、せめて少しは未来も安からうよ、頼む、イザ首打て。と長物語の息づかひ最(いと)もたゆげなり。
 五郎義次暫し茫然たりしが稍(やゝ)あって。思ひもかけぬ事を聞き候ふものかな、父にて候ふ常光がかゝる謀叛に最後を遂げし事共、今日の今までかつふつ存ぜず、唯だおん身を誠の父上とのみ存じ奉りしに承はって驚き入り候、父が最期はその身の罪、誰を恨まんやうもなし、栖(ねぐら)に迷ふ時鳥(ほとゝぎす)を幾春秋の御養育、須弥(しゆみ)滄海の御恩こそあれ、いかで刃を当てらるべき、この儀ばかりは。と云ひつゝ打ち見やれば、さすが剛気の十郎左衛門も痛手に弱りやしけん、今は返答(いらへ)もなく虫の息なり、五郎打ち頷きて進み寄り、手負ひを肩に引っ掛けてあたり見廻し二足三足歩みかゝる折こそあれ、いづくよりとも白羽の矢、飛び来たって背なる父にズックと立つ、ハッと見返れぱ、十郎左衛門、急所に透りし大事の痛手なれば其儘兵息もなかりけり。当の敵は何者ぞ、と急ぎその矢を引抜けぱ小刀にて書きたる姓名、汝(おの)れ備中国の住人清水長左衛門宗治。
 無念と歯を喰ひしばれども力及ばず、見廻せば秋草高くして人の影もなし、恨みはこれぞと件(くだん)の矢を切って棄て鏃(やじり)ばかりを懐ろに納め、遠く望めば上月城、兵火漸やく鎮まりて黒き烟りの其処とも分かず立ち昇る、おん大将をはじめとして兵者共の忠義の骨は最早灰とやなりぬらん、目前(まのあたり)には父の亡骸、いづれを見ても島田五郎、恨みの涙は腸(はらわた)を断つ、かくては果じと立上り、いづくともなく落ちて行く。
 折から彼方より一人の上臈、野菊桔梗荻萩の千草の路を踏み分けて覚束なくも走り来つ、思はず件の死骸に跣(つまづ)きて、アナヤとばかり伏しまろびぬ、月代(つきしろ)隈なくさし上りて、葉末にすだく虫の音高し。


底本:岡本綺堂読物選集1巻 伝奇編 昭和44年12月20日 青蛙房

※原文には段落がないので、段落と考えれる文のはじめを一字分空白とした。
※第3水準・第4水準に含まれる漢字については、※として表し、[# ]内に、区点コード、16進コード、の順で示した。
入力:和井府 清十郎
公開:2003年3月3日





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