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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 「探偵夜話」の第10話。残念ながら後掲の底本にも初出誌のデーターがない。どなたかご存知の方はお教えいただけるとありがたいです。要調査、乞う。
 やはり雪国が舞台のお話。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 狸(たぬき)の皮(かわ)  ――『探偵夜話』より

             岡 本 綺 堂
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 N君は語る。

「信越線の或る停車場に降りると、細かい雪がちらりちらりと舞うように落ちて来た。」
 古河君はまずこう言って、そのときの寒さを思い出したように肩をすくめた。古河君は七年ほど前の二月に、よんどころない社用で越後の方まで出張したが、その用向きが思いのほかに早く片付いたので、大きい声ではいえないが、途中でひと息つくつもりで、会社の方から受け取っている旅費手当てで二、三日を或る温泉場に遊び暮らそうとした。かれが今降り立ったのは、上州のある小さい停車場で、妙義の奇怪な形も唯ぼんやりと薄黒く陰っている日の午後四時半頃であった。
 なにしろ信越地方の二月の雪を衝いて、けさの一番汽車で発って来たのであるから、古河君は骨ま凍ってしまった。汽車を降りると、寒さが又急に加わって、細かい雪を運ぶ浅間おろしがひゆうひゆうと頬を吹きなぐって来るので、古河君は又縮みあがって、オーヴァーコートの襟を引き立てながら、小さい旅行鞄をさげて歩き出すと、客引きに出ている旅館の若い者が二、三人寄って来た。
 初めてこの土地に下車したので、古河君は別に馴染みの宿もなかった。どこでも構わないと思ったので、真っさきに来た若い者に鞄をわたして、ともかくも駅前の休憩所へ案内されると、入口の土間には小さいテーブルを取り囲んで粗末な椅子が四、五脚ならべてあった。寒いあいだは乗り降りの客も至って少ないので、ほかのテーブルや椅子はみな隅の方へ押し片付けられて、たった一つのこのテーブルが店さきに寂しく据えられているだけであった。
「お寒うございましょう。どうぞこちらへ。」と、店にいる三十ぐらいの女房が愛想よく声をかけた。
 畳の上には大きい炉を切って、自在にかけた大きい鉄びんの口からは白い湯気をさかんにふき出していた。鉄びんの下には炭火がぱちぱちはねる音がきこえた。古河君もその火を恋しく思ったが、靴をぬぐのが面倒であったので、やはり椅子に腰をおろして土間に休んでいると、女房が瀬戸の火鉢に火を入れて運び出して来た。
「きょうはまったく冷えます。今晩はちっと白いものが降るかも知れません。」
「それでもここらは積もっていませんね。」
「へえ。積もるほども降りませんが、なにしろ名物の空っ風で……。」
 言いかけて一若い者は急に立ちあがって入口の硝子戸をあけた。若粧(わかづく)りにはしているが、もう廿七八かとも思われる立派な身装(みなり)の婦人がこの休憩所へはいって来たのであった。婦人は大きい旅行鞄を重そうにさげて、片手に毛皮の膝掛けをかかえていた。この頃は商売がひまなので、どこの旅館からも一人ぐらいしか客引きを出していない。その一人が古河君を案内して来たあとへ、この婦人はおくれて下車したので、重い荷物を自分でさげて来なければならないことになったのであろう。古河君も気の毒に思った。若い者はなおさら恐縮したように自分の不注意を詑びていた。
「いえ、なに、荷物も見かけほどは重くないんです。」と、婦人は冷たそうな顔に笑みをうかべながら言った。「済みませんが、お湯を一杯下さいませんか。」
「はい、はい、お湯がよろしゅうございますか。どうぞまあお掛けください。」
 女房が湯を汲みに起つと、婦人は古河君に会釈(えしやく)して隣の椅子に腰をかけた。そうして、瀬戸の火鉢に手をかざすと、右の無名指(くすりゆび)には青い玉が光っていた。左の指にも白い玉がきらめいていた。
「さっきはどうも失礼をいたしました。さぞおやかましゅうございましたろう。」
 挨拶をされて、古河君も気がついた。この婦人も自分とおなじ二等車に乗り込んでいて、襟巻に顔をうずめて隅の方に席を取っていた。そのそばには四十ぐらいの商人風の男と、二十歳前後の小間使風の女が乗っていたが、男は寒さ凌ぎにびん詰の正宗をむやみにあおって、しまいには酔ってなにか大きい声で歌い出したので、小間使風の女はほかの客に気の毒そうな顔をして時々になだめていた。この婦人は傍にいながら知らん顔をして澄ましていたので、かれらとは全然無関係の人であろうと古河君は思い込んでいたのであったが、今の挨拶を聞かされて、この婦人もやはりかれらの道連れであることを初めて知った。
「いえ、どういたしまして……。お連れさんは御一緒じゃないんですか。」
「いえ、連れと申す訳でもございませんので……。越後の宿屋で懇意になりましただけのことでございます。丁度おなじ汽車に乗り合わせるようになりまして、途中まで一緒にまいったのですけれど、あんまり煩さいのでわたくしはここで降りてしまいました。」
「そうでしたか。それは御迷惑でしたろう。」
 そんなことを言っているうちに、若い者は起ち上がって、その婦人の大鞄と古河君の小さい鞄とを持った。そうして、お支度がよろしければそろそろ御案内をいたしましょうと言った。ふたりは茶代を置いて椅子を起つと、若い者は気がついて又引っ返して来た。
「この膝掛けは奥さんのでございますね。」
「はあ。いえ、なに、それはわたしが自分で持っていきます。」
 婦人は店さきに置いてあった毛皮の膝掛けをかかえて出た。もう薄暗い夕方で、炉の火に照らされた毛皮の柔かそうなつやつやしい色が古河君の眼をひいた。それは狸の皮であるらしかった。
 雪は袖を払いながら行くほども降らなかったが尖った寒い風はいよいよ身にしみて来た。三人は黙って狭い坂路を降りていくと、石で畳んだ急勾配の溝(みぞ)を流れ落ちる水の音が冷たい耳を凍らせるように響いた。
「随分お寒うございますね。」と、婦人はうつむきながら言った。
「まったく寒うござんすよ。と、古河君は咳(せ)きながら答えた。「こっちは長く御滞在の御予定ですか。」
「さあ、どうしますか。まだ判りませんのです。」と、婦人は答えた。「あなたは当分御滞在ですか。」
「まあ二、三日遊んで行こうかと思っています。」
 温泉場は停車場から遠くないので、長い坂を降り尽くすと、古風な大きい旅館の建物がすぐ眼の前に突っ立っていた。古河君は表二階の新しい六畳の座敷へ通った。それからひと間離れたやはり六畳らしい座敷へ、この婦人は案内されたらしかった。
 寒さ凌ぎに古河君はすぐに風呂へ行って、冷え固まっている手足を好い心持にあたためて、ようよう人心地が付いて帰ってくると、やがて夕飯の膳を運んで来た。
「今晩はお静かでございますね。」と、女中は給仕をしながら言った。「夜になってお泊まりがあるかも知れませんが、唯今のところではこのお座敷と十一番だけでございますから。」
「滞在は一人もないの。」
「はあ、お寒い時分はまるで閑(ひま)でございます。ここらはどうしても三月の末からでなければ、滞在はめったにございません。」
「そりゃ寂しいね。」と、古河君は少し首をすくめた。
「ちっとお寂しいかも知れません。十一番さんは御存じの方じゃないんですか。」
「いや、知らない。休憩所から一緒になったんだ。」
 女中の話によると、その婦人はかぜを引いたようだとか言って、風呂へもはいらずに寝てしまったとの事であった。

 汽車の疲れで、古河君はその晩ぐっすり寝入ってしまった。眼をさまして枕もとの懐中時計をみると、けさはもう九時を過ぎていた。いつの間にか女中が火を運んで来たとみえて、火鉢に炭火がいせいよく起こっていて、茶道具などもきれいに掃除してあった。床の上に這い起きて巻煙草をすいつけようとする時、階子(はしご)をあがって来る足音がしずかにきこえた。と思うと、障子の外からそっと声をかけた者があった。
「もうお目ざめでございますか。」
 それは十一番の婦人の声であった。
「はい。大寝坊をして、今ようよう目をあいたところです。」と、古河君は床の上で答えた。
「あの、ちょっとお邪魔をいたしてよろしゅうございましょうか。」
「まだ寝床にはいっているんですが……。」と、古河君は迷惑そうに言った。
「さようでございますか。」と、外でも躊躇しているらしかったが、やがて又押し返して言った。「お寝みのところへ失礼でございますが、お差し支えがございませんければ、ちょっとお目にかかりたいのでございますが……。」
 それでも悪いとも断わりかねて、古河君はその婦人を座敷へ呼び入れると、彼女は忍ぶようにいざり込んで来てささやいた。
「実は私、すこし紛失物がございますのですが……。」
「なにがなくなったんです。」
「膝掛けがなくなりましたので……。」
「ああ、あの毛皮の……。」
「さようでございます。狸の皮の……。」
 ゆうべは気分が悪かったので、風呂へもはいらずに寝てしまったが、狸の皮の膝掛けは鞄と一緒に床の間に置いた筈である。それが今朝になると見えなくなってしまった。しかし鞄にはなんの異状もなく、膝掛けだけが紛失したのである。正直のところ、あの膝掛けは自分のものではなく、他に縁付いている妹の品を借りて来たのであって、妹は去年の暮れに百八十円で買ったとか聞いている。それも時の災難と諦めるよりほかはないが、ゆうべこの宿にはほかに一人も泊まり客が無かったということであるから、差しあたっては宿の者疑惑をかけたくなる。それ表向きにしようか、それともいっそ黙って泣き寝入りにしてしまおうかと、彼女は古河君のところへ相談に来たのであった。 「そりゃ表向きにした方がいいでしょう。」と、古河君はすぐに答えた。
 彼女は宿の者を疑うと言っているが、ほかに泊まり客が一人もない以上、自分もたしかに有力な嫌疑者であることをまぬがれないと古河君は思った。それは是非とも表向きにして、ほんとうの犯人を探し出さなければ、単に被害者の迷惑ばかりでなく、自分としても甚だ迷惑であると考えたので、彼はあくまでもそれを表向きにすることを主張した。
「よろしいでしょうか。なんだか罪人をこしらえるのも気の毒のようにも思われますので……。」と、女はまだ躊躇していた。
「いいえ、気の毒なんて言っている場合じゃありません。そうして下さらないと、わたくしも困ります。あなたから言いにくければ、わたくしが帳場へいってその訳を話して来ましょう。」
 古河君はすぐに飛び起きて、宿のどてらのままで縁側へ出ると、まばらにあけてある雨戸のすきまから外一面が真っ白にみえた。雪はゆうべのうちによほど降り積もったらしく、軒さきに出ている槙(まき)の梢もたわむほどに重い綿をかぶっていて、正面にみえる坂路の方からは煙りのような粉雪が渦をまいて吹きおろして来た。このあいだから毎日の雪に責められつづけている古河君は、この景色を見ただけでもううんざり[#「うんざり」に傍点]してしまった。いっそきのう真っ直ぐに東京へ帰ってしまえばよかったと悔みながら、彼はどてらの袖をかき合わせて階段を足早に降りていった。
 店の帳場へいって、毛皮紛失の一件を報告すると、主人も番頭もおどろいた。一と口に狸の毛皮といっても、それが百八十円の品と聞いてはいよいよ打つちゃっては置かれなかった。当時はここらも商売がひまなので、夏場にくらべると男女の奉公人の頭かずが非常に減っている。帳場の番頭ひとりと若い者が一人、ほかに料理番二人と風呂番が一人、座敷へ出る女中はたった二人つきりで、いずれも身許の確かな者ばかりである。夏場繁昌の時季になると、渡り者の奉公人も随分入り込むが、現在のところではそんな疑いをかけるような者は一人もいない筈であると主人は言った。
「しかしほかの事と違いますから、誰が出来心でどんなことをしないとも限りません。ともかくも十一番の座敷へ出まして、詳しいことを伺ってまいりましょう。」
 主人と番頭は古河君と一緒に表二階へあがっていくと、婦人は蒼ざめた顔をして火鉢の前へ坐っていた。主人からいろいろのことを訊かれても、彼女は歯がゆいような返事をしていた。そうして、結局こんなことを言った。
「そんなに皆さんをお騒がせ申しては済みません。なに、ほかに類のないという品じゃありませんから、そんなに御詮議をなすって下さらないでもよろしゅうございます。」
「いえ、あなたの方ではそう仰しゃっても、手前の方では十分に取り調べをいたします。」
 こう言って、主人と番頭は引きさがった。雪はまだやまないので、婦人はもう一日滞在すると言っていた。古河君もむろん出発する勇気はないので、遅いあさ飯を食って、風呂にはいって、再び衾(よぎ)を引っかぶってしまった。狸の皮の問題で一時興奮した神経もだんだんにしずまって、かれは午過ぎまで好い心持に眠った。
「随分よくお罧られますね。ほほほほほ。」
 女中に笑われながら、古河君が遅い午飯(ひるめし)の膳の前に坐ったのは、もう午後三時を過ぎた頃で、勿論それまでに女中が幾度も起こしに来たが、古河君はなかなか目を醒まさなかったとのことであった。
「十一番のお客はどうしたい。」と、古河君は飯をくいながら訊いた。
「お午前の汽車でお連れさんがお出でになりまして、一緒にお午の御飯を召し上がって、一時間ほど前にどこへかお出掛けになりました。」
「連れというのはどんな人だい。」
「四十ぐらいの男のかたです。」と、女中は説明した。その人相や風俗から想像すると、彼はきのうの汽車の中でむやみに正宗のびん詰をあおっていた男であるらしく思われた。
「雪はやんだの。」
「はあ、さっきから小降りになりました。」
 女中は障子をあけて見せた。なるほど天から舞い落ちる影は少しまばらになったが、地に敷いた綿はいよいよ厚くなって、坂下の家々の軒は重そうに白く沈んでいた。女と男とはこの雪のなかを何処へ出て行ったのであろう。河原の方へ雪見に行ったのかも知れないと、女中は言った。
「ずいぶん風流なことだな。」と、古河君は笑っていた。
 日が暮れてもかの二人は帰って来ないというので、宿では又騒ぎ出した。もしやこの雪に埋められたのではないかと、宿の者は総出でその捜索に行った。近所の宿屋の者も加勢に出た。土地の若い人たちも駐在所の巡査と一緒になって広い河原の上下をあさりに出た。河原は古河君の宿から半町ばかりの北にあって、このごろの水は著るしくやせているが、まん中には大小の岩石がおびただしくわだかまっていて、その石を噛んで跳り越えていく流れの音はなかなかすさまじくきこえた。水明かりと、雪あかりを頼りにして、大勢の人影は白いゆうぐれの中をさまよっていた。
 古河君は二階の縁側に出て、河原を眼の下に見おろしていると、雪は叉ひとしきり烈しくなって来て、河原もだんだんに薄暗くなったのであろう、町からは松明(たいまつ)を持ち出して来たものもあった。魚を捕るための角燈を振り照らしているのもあった。その火のひかりが吹雪の底に消えるかと思うと又あらわれて、美しいような物凄いような雪の夜の景色をいろどっていた。
 午後八時ごろになって、二人の死体は川しもの大きい石のあいだに発見された。男と女とは抱き合ったような形で倒れていたが、二人とも石で頭を打ったらしい形跡が見えた。土地の勝手を知らない二人は、河原をうかうか歩いているうちに、雪に埋められている大きい石につまずいて、倒れるはずみに頭を強く打たれて、一時気を失ってしまったのを、誰も認める者もなかったので、そのまま凍え死んだのであろうという鑑定で、ふたりの死体はひとまずその宿へ運び込まれた。
 しかし、その鑑定は間違っているらしかった。医師の検案によると、男は劇薬をのんでいるらしいというのであった。女の方にその形跡はない。女は諸人の想像通りに、頭部を石で打たれて気絶してそれから凍え死んだものであろうという診断であった。こうなると、二人の死因が容易に判らなくなって来た。
 もう一つの不思議は、この婦人が紛失したといった狸の皮が、その座敷の戸だなの隅から発見されたことであった。百八十円で買ったとかいう狸の皮の裏には黒い汚点のあとがところどころに残っていて、それは生々しい人間の血であると医師は言った。婦人は故意に紛失したといって騒いだのか、あるいは戸棚の隅へしまい忘れていたのか、それは判らなかった。
「それにしても血のあとがおかしい。」と、古河君は首をかしげた。
 そのうちに彼はふとある事が胸に泛(う)かんだ。それは古河君がきのうの一番汽車で出発した越後の町のある旅館で、宿泊客の一人が劇薬自殺を遂げたということであった。古河君はそのとなりの旅館に泊まっていたので詳しいことは知らないが、なんでも男と女との二人づれで、女は宵から出て帰らないへ男は劇薬をのんで死んでいたという噂であった。狸の皮の膝掛けをかかえた婦人は、その翌朝の一番汽車で古河君と一緒に、まだ薄暗い停車場を出発したのである。しかも彼女と共にここの河原で死んでいた男も、やはり劇薬をのんだ形跡があるという。古河君はかの事件とを結びあわせて考えたくなった。
「僕の推測はやっぱり当たっていたのだ。」と、古河君は誇るように説明した。「狸の皮の膝掛けをかかえていた婦人は蝮とか蟒蛇(うわばみ)とかいう渾名(あだな)のある女で、いつでも汽車のなかを自分のかせぎ場にして、陶摸を働いたり、男を欺したりしていたのだ。今度も汽車のなかで心安くなった横浜の糸商人をうまく引っ掛けて、越後の宿屋へくわえ込んだのだが、仕事がどうも思うようにいかなかったと見えて、とうとう荒療治を考えてその男に劇薬をのませて、所持金を引っさらって逃げ出した。そのときに膝掛けでも敷いて坐っていたとみえて、男の口から吐き出した血のあとが毛皮の裏にも泌み付いたらしい。その毛皮をかかえて、そっと宿屋をぬけ出して、夜の明け切らないうちに一番汽車に乗り込んで、それから僕とおなじ温泉へ入り込んだのだということが、あとでみんな判った。」
「それにしても、河原で一緒に死んでいたという男は何者だろう。」と、わたしは訊いた。「それもその狸の皮の同類か。」
「いや、同類じゃない。それは高崎のやはり糸商人で、小間使のように見えた若い女は彼の妾であったようだ。汽車のなかで丁度となりに席を占めていたので、狸の皮の方からなにか魔術を施したらしい。そうして、すきを見てその紙入れを淘り取ってしまった。男は高崎の家へ帰ってからそれを発見して、すぐに警察へ告訴すればいいものを、狸の皮が下車した駅を知っているので、そのあとを追って温泉場へ探しに来た。と、まずこう判断するのだが、死人に口なしでその辺はよく判らない。あるいは狸の皮の魔術に魅せられて、紙入れの詮議以外になにかの目的を懐(いだ)いて、雪のふる中をわざわざ引っ返して来たのかも知れない。どっちにしても、自分自身で詮議に来るくらいだから、狸の皮にうまく丸められて、遂にそこに居すわることになってしまったのだ。」
「で、その男も劇薬をのまされたのか。」
「それには訳がある。」と、古河君は又説明した。「だんだん聞いてみると、その男も越後では狸の皮とおなじ旅館に泊まっていたのだそうだから、あるいはその晩の劇薬事件について幾分か感づいていたことがあるのかも知れない。女は自分の秘密をかれに知られたらしいのを恐れて、雪見とかなんとか言ってかれを河原へ誘い出して、うまくだまして劇薬をのませたものらしい。で、毒のいよいよ廻ったのを見て、男を置き去りにして逃げ出そうとすると、男の方では気がついて女をつかまえようとする。こっちは逃げようとする。そのはずみに滑ってころんで、女は石で頭を打った。それが二人の命の終りであるらしい。狸の皮の紛失問題については、僕は彼女がしまい忘れたのであろうと想像する。自分が殺した男の血が沁みていることを発見して、さすがにそれを目のさきに置くのを嫌って、宵に戸棚の奥へ押し込んでしまったのを、翌あさになってすっかり忘れて、誰かに奪られたものと一途に思い込んだのだろう。殊に他の品と違って、それには血のあとが残っているだけに、彼女も神経を痛めたのかも知れない。そうして、人騒がせをしたあとで、戸棚にしまい込んであったことを思い出したので、今更それを取り消すのもきまりが悪く、あいまいのことをいって誤魔化していたのだろう。なにしろ怖ろしい女さ。二日のうちに二人の男を殺したのだからね。もっとも色の白い、小股の切れ上がった、好い女だったが……。」
「その晩は君と二人ぎりだったというのに、女はよくなんにも係り合いを付けに来なかったね。君は狸の皮にも見放されたと見えるんだね。」と、わたしは笑った。
「こっちは神に近い人間だから、いかなる悪魔も近寄らないさ。」
 そういう口の下から、古河君はしきりに狸の皮の持ち主の美人であったことを説いていた。




底本:岡本綺堂読物選集第6巻 探偵編
昭和44年10月10日発行 青蛙房

※今日の人権意識からすると不適切と思われる語句や表現が見受けられますが、時代的な背景と作品の価値に鑑み、また原文の同一性を保持・尊重する立場からそのままとしました。

入力:和井府 清十郎
公開:2002年12月24日





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