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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
探偵夜話シリーズのうちの1作。明治の初め、東北の寂しい村で起こった尼僧殺し。その背景には……。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 狸 尼 (たぬきあま)  『探偵夜話』より
 
             岡 本 綺 堂 kido_in.jpg


      一

 A君は語る。

「僕の郷里には狸が尼に化けていて、托鉢中に犬に咬み殺されたという古い伝説がある。現にその尼のかいた短冊などが残っているとかいうことで、僕は子供のときに祖母から度々その話を聴かされたものだ。しかし今日(こんにち)になってみると、そういうたぐいの伝説は諸国に残っていて、どれがほんとうであるか判らないくらいだ。ところが、僕の郷里にはそれに類似の新しい怪談がもう一つ伝えられている。それは明治十四年、僕が九つのときの出来事であるから、僕もその人間をよく知っているのだ。」
 梶沢君はこう言って、眼のふちに小皺をよせながら私の顔を軽く見た。その顔付きがなんだか一つからかってやろうとでも言いそうに見えたので、こっちも容易に油断しなかった。
「そりゃ君の生まれ故郷だから、そんな人間もたくさん棲んでいるだろう。現に僕の目の前にも、狸だかむじなだか正体のわからない先生が一人坐っているからね。」と、わたしは煙草のけむりを鼻から噴きながら、軽く笑っていた。
「いや、冗談じゃない。これはまじめの話だ。」と、梶沢君は肩をゆすりながらひと膝乗り出した。
「その人間が果たしてほんとうの狸であったかなかったかは別問題として、とにかくに一種不思議な事件の発生したことは事実だ。今もいう通り、僕もその人間を見識っているし、ほかにも証人が大勢ある。まあ、黙って聞きたまえ。事実の真相はまずこうだ。」
 梶沢君は医師で、神田の大きい病院の副院長を勤めている。快活な性質で、ふだんから洒落や冗談を得意としている人物であるから、うっかりすると見事に引っかつがれるおそれがあるので、われわれもこの先生とむかい合った時には内々警戒しているのであるが、きょうはどうやらまじめらしく、その専門の医学上から何かの秘密を説明しようとするかのようにも見えたので、わたしも相手の命令通りに、おとなしく黙って聞いていると、梶沢君はまずこんなことから話し始めた。

 僕の郷里――君も知っている通り、宇都宮から五里ほども北へ寄っている寂しい村だ。それでも人家は百七八十戸もあって、村の入口には商売店なども少しはある。昔は奥州街道の一部で、上り下りの大名の道中や、旅人の往来などでかなりに繁昌したそうだが、汽車が開通してからは、まるで火の消えたように寂れてしまった。この話の起こった明治十四、五年の頃はまだ汽車もなかった時代だが、それでも昔にくらべると非常に衰微したといって、僕の祖母などはときどきに昔恋しそうな溜め息をついていたのを、僕も子供心に記憶している。これから僕が話すのは、その亡びかかった奥州街道の薄暗い村里に起こった奇怪な出来事だと思ってくれたまえ。
 その頃は村の奥に大きい平原があって、それはかの殺生石(せつしようせき)で有名な那須野ケ原につづいているということであった。今日(こんにち)では大抵開墾されてしまって、そこには又新しい村がだんだんに出来たが、僕の少年時代にはなるほど九尾(きゆうび)の狐でも巣を作っていそうなすすき原で、隣り村へいくにはどうしてもそのすすき原の一角を横切らなければならない。そこには、夏になると大きい青い蛇が横たわっているのを見た者がある。秋から冬にかけては狐が啼く。維新前には追剥ぎにむごたらしく斬り殺された旅人もあった。そんな噂のかずかずに小さい魂をおびやかされて、僕も日が暮れてからは決してそのすすき原を通り抜けたことはなかった。ところが、ある時に父の使いでどうしても隣り村まで行かなければならないことが出来(しゆつたい)した。
 それがすなわち明治十四年の三月なかばのことで、その当時十三の兄貴は修行のために東京の親類へあずけられていて、家にいる者は祖母と作男二人と下女一人とで、作男はほかにいろいろの用があるから、昼間は遠方へ使いなどにやってはいられない。父は侍あがりで、身体も達者、気も強い方であったから、大抵の用事ならば自分自身でどこへでも出ていくという風であったが、そのとき半月ほど前から風邪をひいて、まだ炬燵を離れずに寝たり起きたりしていたので、僕が名代(みようだい)として隣り村まで使いにやられることになってしまった。その用向きはなんだか知らないが、父は僕に一封の手紙を渡して、これを田崎の小父さんのところへ届けて来いと言ったばかりであった。その頃、父は隣り村の田崎という人と共同で、開墾事業を計画していたから、それについて何か至急に打ち合わせでもしたい用件が出来たらしかったが、子供の僕は別にそれを詮議する必要もないので、ただ言い付けられたままに手紙をしっかり握って、隣り村へすたすた出て行ったのは正午を少し過ぎた頃であった。
 となり村といっても一里余も離れていて、その途中の大部分は例のすすき原を通らなければならない。勿論、春のはじめですすきはみんな枯れ尽くしていたが、那須ケ獄から吹きおろして来る風はまだ寒い。お前もかぜを引くといけないといって、ふだんから僕を可愛がってくれる祖母が一種の耄碌(もうろく)頭巾(ずきん)のようなものをかぶせてくれたので、僕はその頭巾のあいだから小さい目ばかり出して、北の方を向いて足早にあるいて行った。原を通りぬけて無事に隣り村へ行き着くと、田崎の小父さんは近所までちょっと用達しに出たから少し待っていてくれという。そこの家にもおばあさんがあって、僕の来たのを珍らしがって、丁度きょうは先祖の御命日とかで五目飯をこしらえたからまあ上がって、ゆっくり食って行けというので、僕も囲炉裏のそばに坐り込んで、その五目飯を腹いっぱいに食った。
 食ってしまったが、田崎の小父さんはなかなか帰って来ないので、家でも待ちかねて迎いに行ってくれると、小父さんはやがて帰って来たが、その返事を書くのが又なかなかひま取ったので、僕がいよい手紙をうけとって、家の人達に挨拶してそこを出たのは、もうかれこれ四時近い頃であった。
「日が暮れないうちに早く帰れよ。」
 小父さんの優しい声をうしろに聞きながら、僕はふたたび耄碌頭巾をかぶった人となって、もと来た路をまっすぐに急いで帰った。この頃の日はまだ短い。途中で日が暮れたら大変だと思いながら、僕は小さい足を早めて行くと、原の途中で来かかった頃には男影がだんだんに薄れて来て、広い平原をざわざわと吹いて通る夕暮れの風が、いよいよ身にしみ渡るように思われた。僕は手紙をふところに入れて、俯向きながら急いで行くと、僕の目のまえに、一人のうしろ姿があらわれた。おそらく突然にあらわれた訳ではあるまい。僕はさっきからうつむいて歩いていたので、自分の行くさきに立っている人間のあることを今まで見いださなかったのであろう。いずれにしてもこの寂しい原なかの夕暮れに、突然自分の前に立っている人影を発見したときに、僕はぎょっとして立ちすくんだ。
 その人は鼠色の法衣(ころも)を着て、おなじ色の頭巾をかぶっていた。白足袋に低い朴歯の下駄をはいて、やはり俯向き勝ちにとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]と歩いていた。そのうしろ姿をこわごわ透かしてみて、僕は少し安心した。その僧形の人間は、僕の村はずれの小さい堂を守っている地蔵尼という尼僧らしく思われたのであった。こうなると、僕もだんだんに気が強くなって、更にその正体を確かめるために、足を早めてそのうしろ影を追って行った。原は広いが、往来の人に多年踏み固められたひと筋の通路は、蛇のようにうねって細い。僕はその細い路をまっすぐにたどって行って、やがて追いついた頃から少し横にそれて、すすきの根の残っている高低(たかひく)の土を踏みながら、ふた足三足通り越して振り返ると、尼も僕の足音に初めて気がついたらしく、俯向いていた目をあげてこっちをぬすむようにそっと見た。僕の推量通りで、それは果たしてかの地蔵尼であった。
「坊さん。どちらへ。」と、尼はほほえみながら言った。
 断わって置くが、彼女が僕に対して坊さんと呼びかけたのは坊主という意味ではない。いわゆる坊ちゃんという意味である。父が士族であるので、土地の者は僕を尊敬して坊さんと呼ぶのが普通であった。坊さんの僕は呼ばれて立ち停まった。そうして、尼に対して丁寧に頭を下げた。
「隣り村へお使いでござりますか。」と、尼は何もかも知っているように又言った。
「はい。」
 このままにかの尼を置き去りにして行くのは、なんだか失礼であるかのようにも思われたので、僕は自然に足の速度をゆるめて、尼が路を譲ってくれるままに、狭い路をならんであるき出した。日が暮れかかって、このさびしい野原のまん中を唯ひとりで行くよりも、路連れのある方が気丈夫であると思ったのと、もう一つには僕の祖母がふだんからこの尼を尊敬して、尼が托鉢に来るときには必らず幾らかの米か銭かをやるのを見馴れているので、僕も尼に対しては一種の敬意と懐かし味とをもっているためであった。  宗旨はなんだか知らないが、尼はきょうも隣り村へ托鉢に出たとみえて、片手には鉄鉢(てつばつ)をささげていた。片手には珠数をかけて、麻の袋をさげていた。袋のなかには米のはいっていることを僕は知っていた。尼はしずかに歩きながら優しい柔かい声で僕にいろいろのことを話しかけたが、子供の僕は軽く受け答えをするだけで、大抵はだまって聞きながら歩いていた。原を通りぬける間、路を行く人には一人も出逢わなかった。
 尼の足が遅いので、原をぬけた頃にはもう暮れ切ってしまって、僕とならんで行く尼の顔も唯うす白く見えるばかりであった。夕の寒さはだんだんに深くなって来て、青ざめた大空の下に僕の村里の灯が微かに低く沈んでいた。原の入口には石の地蔵がさびしく立っている。古い地蔵は二十年ほど前の大雪に圧し倒されて、鼻や耳をひどく傷めていたので、その後新しく作りかえるに就いて、日光の町から良い職人をわざわざ呼んで来て、非常に念を入れて作らせたのだとかいって、村の者がふだん自慢しているのを僕もうすうす聞いていた。
 地蔵さまは僕よりも大きかった。まず十五六の少年ぐらいの立像で、その顔はいかにも柔和な慈悲深そうな、気高い、美しい、いわゆる端麗とでもいいそうな、ここらの田舎には珍らしいくらいの尊げな石像であった。これを作る費用は幾らかかったか知らないが、ともかくもこれ程の立派な地蔵さまが我が村境に立たせたもうことは、村に取って一種の誇りであったであろうと僕は今でも思っている。この地蔵さまがこの話に大関係をもっているのだから、よく記憶していてもらいたい。
 われわれ二人が今この地蔵さまの前に来かかると、尼は僕のそばをつい[#「つい」に傍点]と離れて俄かに立像の下にひざまずいた。鉄鉢も麻袋も投げ出すように地に置いて、尼はしばらく尊像を伏し拝んでいた。僕は一緒になって拝む気にもなれなかったので――その癖、祖母と一緒に来て、花を供えたりしたこともあるのだが――唯ぼんやりと突っ立っているばかりであった。
 尼は僕という路連れのあることを忘れたように、しばらくそこにひざまずいて拝んでいた。

      二

 村にはいって、小さい茅ぶき堂のまえで僕は尼と別れた。
 ここでこの尼の身の上を少しく説明しておく必要がある。僕は前にその名を地蔵尼といったが、ほんとうの名は無蔵尼というのだそうである。生まれは京都だとか聞いているが、その優しい音声に幾らかの京なまりをとどめているだけで、ふだんの言葉には上方弁(かみがたべん)らしい点もなかった。若いときから諸国の寺々を修行してあるいたと本人自身も言っていたが、ほんとうの年は幾つだか誰も知らない。本人も人に話したことはなかったが、もう三十ぐらいであろうと僕の祖母は推測していた。しかしその推測の年よりも若くみえるので、僕の母などはまだ廿五六ではないかとも言っていた。
 かの尼が年よりも若く見えるというのは、その容貌(きりよう)がいかにも、若々しいからであったろう。大抵里の尼僧は痩せ枯れて蒼白い人が多いのであるが、地蔵尼は大柄でこそなけれ肉付きは決して貧しくなかった。もちろん肉食などをする筈はないのであるが、白い顔に薄い紅味(あかみ)を帯びて、見るから色艶のいい、頗の肉の豊かな、ちっとも俗人と変わらないみずみずしい風※[※三に縦棒、JIS 3-4, 1406, 2E26 ](ふうぼう)を具えているのが、村の若い者の注意をひいた。
「あれが尼さんでなければなあ。」
 こんなことを言う不埒な奴もあった。その不埒な若者の二、三人がある晩酒に酔った勢いで、尼のところへからかいにいくと、尼は堂の扉をかたく鎖ざして入れなかった。そうして、仏前にむかって高い朗かな声で経をよみ始めた。その威厳におびやかされて不埒者の群れは喧嘩に負けた犬のように早々に逃げ帰った。こんなことから、かの尼に対する村の信仰はいよいよ強められた。
 尼がこの村に足を入れたのは今から三年ほど前で、それまでは宇都宮の方にいたとの話であった。修行のために奥州の方角を廻るつもりで、この街道を托鉢しながら通る途中、かのありがたい石地蔵の前に立ったときに、尼は言い知れない随喜渇仰(ずいきかつこう)の念に打たれて、ここにしばらく足を停めることに決心して、村はずれに茅ぶきの小さい堂を建立(こんりゆう)した。僕は子供の時のことで、それらの事情を詳しく知らないが、なんでも以前からやはりそこには堂のようなものがあって、堂守がどこへか退転した後は久しく破損のままになっていたのを、かの尼が村じゅうを勧化(かんげ)して更に修復したのだとも聞いていた。いずれにしても、かの尼は一人でその小さい堂を守って、経を読むのと托鉢に出るのと、かの地蔵さまを拝むのと、それだけを自分の日々の勤めとして、道徳堅固に行ない澄ましていた。尼は地蔵さまを信仰することが厚いので、本名の無蔵尼がいつか地蔵尼に転じてしまって、村の者はみな地蔵尼と呼ぶようになった。僕の祖母も母もやはり地蔵さんと呼んでいた。
 その晩、家へ帰ると、僕の戻りの遅いのを幾らか不安に思っていたらしい祖母や母も、地蔵さんと一緒に帰って来たと聞いて喜んでいた。祖母はあくる朝、かの尼が托鉢に来るのを待ち受けて、きのうの礼を頻りに言っているらしかった。
 それからふた月ばかりは別に何事もなかったが、五月ももうなかば頃のことと記憶している。ある晩、父がかの田崎の小父さんのところへ行って、酒の馳走になって夜更けて帰って来ると、原の出はずれで不思議なことを見たと言った。
「あの尼はどうもおかしい。おれが今あすこを通ったら、石の地蔵さまにしっかりすがり付いて、何か泣いているようであった。」
「いつもの御信心でお地蔵さまを拝んでいたのでしょう。」と、母は別段気にも留めていないらしかった。
「それに相違ない。お前は酔っているから何かおかしく見えたのだろう。」と、祖母も母に合い槌を打った。
 なにぶんにも酔っているという弱味があるので、父はあくまでも自分の口を信ずるわけにもいかないらしかったのと、かの尼に対して格別に強い信仰も持っていなかったのとで、父もそれに対して深く反抗しようともしなかった。父はそれぎり黙って囲炉裏のそばに寝ころんでしまった。しかしそれが僕の幼い好奇心を動かして、その夜の父の話はいつまでも耳の底に残っていた。
 その後も尼は毎日托鉢に出て、ときどき僕の家(うち)の門(かど)にも立った。祖母はかならず米か銭かをやった。僕もかの尼の顔をみると必らずお辞儀をした。こうして又ふた月ほど経つうちに、かの尼に対して更に一種不思議な噂が伝えられた。それを僕たちに報告したのは、家の作男の倉蔵であった。
「皆さま、お聞きなせえましよ。あの地蔵さんはこの頃気が狂い出したのかも知れねえという者もあるし、又別になんだかおかしなことを言い触らす者もありますよ。どっちが本当か知れねえが、なにしろ変な話でね。」
「あの地蔵さんがどうしました。」と、母は縁側にいる倉蔵に声をかけた。
「どうしたといって……。」と、かれは声を低めた。「夜ふけに村はずれへ出て行って、石地蔵さまにしっかり取っ付いて、泣いたり笑ったりしているそうですよ。村じゅうで確かに見たというものが二、三人ありますから、よもや嘘じゃあるめえと思います。」
 いつかの父の話を思い出したらしく、母と祖母とは不安らしい目をみあわせた。庭に遊んでいた僕も眼をかがやかして縁さきへ戻って来た。
「なぜそんなことをするのかね。」と、祖母はまだ半信半疑らしい口ぶりで言った。
「そりゃ判りません、だれにも判りません。」と、倉蔵も不思議そうに又ささやいた。「それからね。まだおかしいことを言い触らす者があるんですよ。どうもあの尼さんは尋常の人間じゃないと……。」
「ただの人間じゃない。まあ、どうして……。」と、母も目をみはりながら直ぐに訊き返した。
「皆さまも御承知でしょう、あの尼さんはふだんから犬が大嫌いで……。犬が吠えると顔色を変えるそうですよ。それがこの頃はだんだん烈しくなったようで、この間もあの石地蔵さまを拝んでいるところへ、原の方から野良犬が二匹出て来てわんわん[#「わんわん」に傍点]吠え付いたら、尼さんは怖ろしい顔をして、はじめは手に持っている珠数で打ち払うような真似をしていたんですが、しまいにはもう気違いのようになって、そこらにある石塊(いしころ)や木の切れを拾って滅茶苦茶に叩きつけて、じだんだを踏んで飛びあがって……。そこへ村の利助が丁度に通りかかって、犬どもを追っ払ってしまったんですが、その時の尼さんの顔はまるで人相が変わって、目を据えて、歯を食いしめて……。利助も思わずぞっとしたといいますよ。それがみんなの耳にはいると、さあどうもおかしい、そんなに犬を嫌うのは唯事じゃあるめえ、ひょっとすると尼さんの正体は狐か狸じゃあるめえか……。」
 こういうと、僕の生まれ故郷の人間はひどく無知蒙昧のように思われるかも知れないが、なにしろまだ明治十四五年頃の田舎のことで、しかもその近所には九尾(きゅうび)の狐で有名な那須野ケ原がある。前にもいった通り、狸が尼僧に化けていたという古い伝説もある。そうした空気のなかで育てられたその当時の人たちが、こういう考えを懐(いだ)くのはあながちに笑うべきではあるまいと、僕は郷里の人間を代表してここに一応の弁解をのべて置きたい。実はこの話をする僕自身ですらも、それを聞いたときには驚いて顔色を変えた。祖母も母も息をのみ込んでしばらくは声を出さなかった。
「でも、めったなことを言ってはなりません。犬の嫌いな人は世間にないことはない。犬が嫌いだからといって、狐の狸のと……。まあ、まあ、黙ってもう少しなりゆきを見ている方がいい。」と、祖母はまだ素直にそれを信用しないらしかった。
 外から帰って来た父は、それを聞いて笑い出した。
「はは、いま時そんなことがあって堪まるものか。しかしあの尼が石地蔵に取っ付くというのは本当だ。いつかも話した通り、おれも確かに一度見とどけたことがある。」
 いつかの話が裏書きされたので、僕達ももうそれを疑う余地はなかった。なぜそんな変な真似をするのか、その子細は誰にも判らなかった。判らないにつれてそこに又いろいろの臆説も湧き出して、尼に対する諸人の信仰も尊敬もだんだんに薄れて来た。僕の家ではその後も相変わらず米や銭を喜捨していたが、村の或る者はかの尼が托鉢の鉦(かね)を鳴らして来ても、顔をそむけて取り合わないのもあった。あるいは手を振って断わるのもあった。
 こういう風に自分の村の信仰がだんだん剥落(はくらく)して来たので、尼は生活の必要上、かのすすき原を遠く横切って、専ら隣り村の方へ托鉢に出るようになった。隣り村ではかの尼をどう見ていたか知らないが、僕の村ではその評判がますます面白くなくなって来た。いたずら小僧はそのあとをつけていって、わざと犬をけし[#「けし」に傍点]かける者もあった。ある若者は夜の更けるまで村はずれに忍んでいて、尼が石地蔵に取り縋りに来るところを確かに見とどけようと企てたが、それはみな失敗に終ったらしく、その後に尼の怪しい行動を見つけたという者は一人もなかった。
「それ見なさい、ここらの人達はなにを言うのか。」と、祖母は自分の信用の裏切られないのを誇るように言った。
 祖母ばかりでなく、根が正直な村の人達は、あまりに早まって尼をうたがい過ごしたのをいささか悔むような気にもなったらしく、一度は顔をそむけていた者もこの頃では再び親しみをもつようになって、自分の村じゅうを廻っただけでも尼の托鉢はかなりに重くなるらしかった。こうして、かの尼に対する村人の信仰がだんだんよみがえって来ると反対に、尼の顔容(かおかたち)のだんだんにやつれて来るのが目についた。豊かな頬の肉はげっそりと痩せて、顔の色は水のように蒼白くなった。今までは毎日欠かしたことのない托鉢を、ときどきに怠る日さえあった。
「地蔵さんこの頃は病気じゃないかしら。」と、祖母は心配そうにひたいを皺めていた。
 尼の顔色の悪いのは、この間からの悪い噂に気を痛めたせいであろうと、祖母は言った。さもなければ、女の足で遠い隣り村まで毎日托鉢に出て行った疲労であろうと、母は言った。村の人たちもやはりそんな風に解釈したらしく、取り留めもない噂を立てて直接間接にかの尼を迫害した自分たちの罪をいよいよ悔むようになった。その罪ほろぼしというわけでもなかろうが、尼の住んでいる茅ぶき堂も近来よほどいたんで来たので、孟蘭盆でも過ぎたらばみんなが幾らかずつ喜捨して、堂の修繕をしてやろうという下相談まで始まった。しかも尼の顔色の衰えはいよいよ目立って来て、この頃ではいたましいほどにやつれてしまった。
「御病気でございますか。」
 尼が托鉢に来たときに、僕の祖母が同情するように訊いたが、尼はそれを否認して、別に変わったこともないと答えた。
 そのうちに孟蘭盆が来た。その当時、ここらではもちろん旧暦によっていたので、新暦ではもう八月の末であったろう、口が落ちるとひやひやする秋風が那須野の方から吹いて米た。旧暦十五日の宵には村の家々で送り火を焚いた。僕の家でも焚いた。その夜、地蔵尼は例の地蔵さまの足もとに死んで倒れていた。
 それが又、村じゅうの大問題になった。

       三

「尼さんが死んだ。地蔵さんが死んだ。」
 こういう噂が村じゅうに広まると、大勢の人達はおどろいて村はずれに駈け付けた。僕も無論に駈けていった。それは午前六時すこし過ぎた頃であったろう。まだ晴れ切らない朝霧は大きい海のように広い平原の上を掩っていて、冷たい空気がひやひやと襟にしみた。僕がいきついた頃には、もう十二三人の男や女がかの石地蔵のまわりを取り巻いて、なにかわやわや[#「わやわや」に傍点]と立ち騒いでいるので、その袖の下をくぐって覗いてみると、地蔵尼は日ごろ信仰する地蔵さまの台石を枕にして、往来の方へ顔をむけて横さまに倒れていた。その顔が生きている時と同じように白く美しくみえたのが今でも僕の記憶に残っている。かの尼は死んだのではない、疲れて眠っているのではないかとも思われた。
 駐在所の巡査も出張した。裁判所の役人も来た。その後の手続きはどうであったか、子供の僕にはなんにも判らなかったが、父や母の話を聞くと、地蔵尼の死体にはなんの異状もなく、唯その左の脛(はぎ)に薄い歯のあとが残っているだけであった。どうして死んだのか判らない。むろん自殺ではない。さりとて他殺ともみえない。医師の検案によると、死後五、六時間を経過しているらしいとのことであるから、尼の死は夜なかの十二時頃から一時頃までの間に起こったものであろうと想像されたが、そんな時刻になぜそこらにさまよっていたのか、その子細ももちろん判らなかった。
 その夜なか頃に地蔵さまのあたりで犬の吠える声を聞いた者がある。尼の白い脛に残っている薄い歯のあとから鑑定して、あるいは犬に咬まれたのではないかという噂も起こったが、警察の側ではその説に耳を仮さないらしく、なにか頻りに他の方面を捜査しているとのことであった。
「村の若い奴等が何か悪さをしたのかな。」
 父が母にささやいているのを、僕は小耳に聞いた。父がなぜそんな判断をくだしたのか僕にはちっとも判らなかったが、父は駐在所の巡査とふだんから懇意にしているので、その方から何か聞き込んだことでもあるのかも知れないと、ひそかに想像していた。
「もし本当にそんなことでもあったのなら大変です。お地蔵さまの罰(ばち)があたります。」と、母も容易ならぬことのように顔をしかめていた。
 とりわけてふだんから地蔵尼に信仰をもっていた祖母は、尼の死を深くいたむと同時に、その怪しい死にざまについていろいろの判断をくだしているらしかった。それから三、四日経ってから隣り村から田崎の小父さんがたずねて来たが、隣り村でもいろいろの臆説が伝わっているらしく、そのなかでも犬に咬まれたというのが最も有力な説であるらしかった。しかし僕の父は一言のもとにそれを破ってしまった。 「なんの馬鹿な、急所でも咬まれたら知らぬこと。足をちっと咬まれたぐらいで、人間ひとりが死んでたまるものか。」
 田崎の小父さんもしいてそれに反対しなかった。実をいうと、僕も二、三年前に右の足を野良犬に咬まれたことがある。しかし五、六日の後にはすっかり癒ってしまって、こうして平気で生きている。それを思うと尼が犬に咬み殺されたというのはどうも嘘らしいと、僕もひそかに父の意見に賛成していた。田崎の小父さんが帰ったあとで、父は家内の者にこんなことを言った。
「隣り村でもやっぱり馬鹿なことを言っているらしい。今に見ろ、ほんとうの罪人があらわれてびっくりするから。」
 果たしてそれから十日あまりの後に、村の若い者が二人まで拘引された。一人は喜蔵、ひとりは重太郎といって、人間は悪い者ではないが、酒の上がよくない上に、身持ちも治まらない道楽者であった。かれらはかつて酒に酔った勢いで、夜ふけに尼の堂を襲いに行ったいたずら者の仲間であった。そればかりでなく、重太郎は現場に有力な証拠品を遺していたということが、この時はじめてはっきりした。
 巡査は尼の倒れていた石地蔵を中心として、その付近のすすき原を隈なく穿索すると、地蔵さまの足もとから二間ほども離れたすすき叢(むら)のなかに馬士(まご)張りの煙管(きせる)の落ちていたのを発見したが、捜査の必要上、今まで秘密に付していたのであった。もう一つは、尼の死体にもかの歯の跡ばかりでなく、なにか怪しむべき点のあったことが発見されていたのであった。
 煙管の持ち主がはっきりすると同時に、その晩一緒に帰ったというかの喜蔵も共犯者の嫌疑をうけた。かれらふたりは盆踊りに行って、夜ふけに連れ立って帰って来た。そうして、尼の死体の傍らに重太郎の煙管が落ちていた。殊にかれらはふだんから身持ちがよくない。酒の上も悪い。それがいよいよかれらの不利益となって、尼僧殺しの嫌疑者と認められてしまったのである。僕の父が予言した通り、かれらはなにかの悪さをして、尼僧を死に致したものと認められたのである。二人が拘引されると、村じゅうの者は又たちまちにかれらを悪魔のように憎んだ。
「呆れた奴等だ。とんでもねえ奴等だ。人もあろうに、清浄の尼さんにそんないたずらをして、挙げ句の果てが殺すとは……。あいつら、どうせ地獄へ堕ちるに決まっている。首を斬られても仕方がねえ。」
「それ見ろ。」と、僕の父も誇るように言った。「犬に食われたなんて嘘の皮だ。犬よりも人間の方が余っ程おそろしい。」
 嫌疑者のふたりは強情に白状しなかった。かれらは警官の取り調べに対して、こういうことを申し立てた。なるほど自分たちは先年も尼の堂を襲おうとしたことがある。実は盆踊りの夜にも尼に出逢った。しかし自分たちは決して尼の徳操を汚したこともなければ、からだを傷つけたこともない。その晩、盆踊りに夜がふけて、踊り疲れた二人が村はずれの地蔵さまのそばまで戻ってくると、すすきのあいだに白い影がぼんやりと浮き出してみえた。幽霊かと思って怖々ながら透かしてみると、それはかの地蔵尼であった。尼は白い着物をきて、地蔵さまのまわりを幾たびかしずかに廻っていた。
 何をしているか判らなかったが、ともかくもその正体が判ったので、ふたりは急に心強くなった。そればかりでなく、尼が夜ふけに地蔵さまの近所をさまよっていることは今までにも度々聞いているので、かれらは尼が一体何をしているかを見とどけようとして、ひそかにささやき合ってすすきの茂みに身を隠していると、尼はそんなことに気が付かないらしく、夜露に裳(もすそ)をひたしながらしばらくはそこらをうろうろと迷っていた。
 尼は安らかに眠られないので、冷たい夜風に吹かれているのかも知れないと二人は想像していた。尼は容易にそこを立ち去らなかった。遠い原なかで狐の啼く声がきこえた。薄い月がぼんやりと弱い光りを投げて、そこに立っている石地蔵の姿がまぽろしのように薄白く見られた。尼はやがて立ち停まって、狐のように左右を見まわしていたが、さながら吸い寄せられたように地蔵さまの前にふらふらと近寄った。と思うと、尼は両手を大きくひろげて冷たい石に抱きついた。そうして、何かひそひそとささやいているらしかった。
 この奇怪な行動を二人は眼を放さずにうかがっていると、尼のからだは吸い着いたように離れなかった。それが五分もつづいた。十分もつづいた。二人はもう根負けがしたのと、藪蚊に襲われる苦しさとで、思わず身動きをすると、かれらを包んでいるすすきの葉がざわざわと鳴った。その物音に初めて気がついたらしく、尼は石をかかえた手を放して、急にこっちを見返った。どこかで狐の鳴く声が又きこえた。なんだか薄気味悪くもなって来たので、二人はやはり息を殺して忍んでいると、尼は何者かをあさるようにこちらへだんだんに歩み寄って来た。二人のすがたは忽ちに見いだされた。
「おまえさん方はさっきからそこにおいででしたか。」と、尼は弱い声で訊いた。
 二人は黙っていると、尼は更に摺り寄って来て、今度はすこし力強い声でまた訊いた。
「おまえさん方は何か見たでしょうね。」
 二人は正直に答えるのを躊躇した。かれらは何とはなしにこの尼が怖ろしいようにも思われて来て、とてもここでからかうような元気は出なかった。ただ黙ってその白い顔をながめていると、尼はしずかに言い出した。
「見たらば見たとはっきり言ってください。見ましたか、見たに相違ありますまい。今夜のことは決して誰にも言ってくださるな。もしおまえさん方の口からこの事が世間に知れると、わたしは未来までも怨みますぞ。」
 尼の顔色は物凄かった。気のせいか、その口は耳までも裂けるかと思われた。二人はぎょっとしてほとんど無意識に承諾の返事をあたえると、尼はかさねて念を押した。
「きっと他言してくださるな。」
「ようごぜえます。なんにも言いません。」
 早々に二人はそこを逃げ出した。行き過ぎてそっと見かえると、尼はやはりそこにたたずんで、すすきのあいだに白い半身をあらわしながらこっちをじっと見つめているらしかった。二人はいよいよ気味が悪くなって、足を早めて帰ってしまった。

       四

 喜蔵と重太郎の申し立ては、その後幾たびの取り調べに対しても決して変わらなかった。かれらはその以外にはなんにも知らないと固く言い張っていた。煙管は重太郎の所持品に相違なかったが、それはすすきのなかに忍ぶ時に遺失したもので、ほかには何の子細もないといった。しかし尼の行動に対するかれらの中し立てがあまりに奇怪であるために、警察では容易にそれを信用しなかった。深夜に石地蔵を抱いて何事をかささやいている――しかもそれを決して他言するなという――そんな不思議な事実をならべ立てただけでは、道楽者二人が無罪であるという証拠にはならなかった。
 かれらがなんと言い張っても、警察の側では尼の死体を検案の結果、一つの動かない証拠をつかんでいるので、嫌疑者は尼の徳操を汚したものと認められていた。かれらは泣いて無実を訴えたが、ひとまず裁判所へ送られてしまった。しかしかれらの申し立てた事実が世間に洩れきこえると、一方にはまたかれらを弁護する者があらわれて来た。今までにも尼が夜ふけに地蔵さまのほとりをふらふら俳徊しているのを見かけた者は、かれら二人のほかに幾人もあった。尼が一度その信用をおとしてしまったのもそれがためであった。して見れば、尼がその当夜そんな怪しい行動を演じていたというのも、まんざら跡方のないことでもあるまいというのであった。この弁護説がだんだん広がると、かれら二人に対する大勢の憎しみが又おのずから薄らいで来た。それと同時に尼に対する新しい疑惑が再び起こって来た。これはどうしても尼さんの正体が怪しいと人々は噂し合った。僕の家の倉蔵が又こんなことを報告した。
「御隠居さま、慶善寺の話をお聴きになりましたか。」
 慶善寺というのはこの村にたった一つの古い由緒のある寺で、地蔵尼の亡骸(なきがら)はここに埋葬されたのである。その寺に何事が起こったか、僕達はなんにも知らなかったので、祖母はさらに摺り寄って訊いた。
「どうしたの、お寺に何かあったのですか。」
「この頃、お寺の墓場で毎晩のように犬の吠える声が聞こえるのでございます。それがゆうべは取り分けて激しいので、お住持がそっと起きて行ってみると、一匹の小さい狸が野良犬に咬み殺されて死んでいました。狸は爪のさきで新仏の墓土を掘り返そうとしているところを、犬に咬まれて死んでしまったのでございます。唯それだけならば、狸めのいたずらで事が済むのですが、その墓が尼さんの……。」
「まあ。」と、祖母は息をのんだ。そばで聞いている僕も耳をかたむけた。
 あとでその事件を父に訴えると、父はただ冷やかに笑っていた。
「狸めはよくそんないたずらをするものだ。」
 父の解釈は単にそれだけであったが、村の者はそれを狸のいたずらとのみ見過ごさないで、その以上に深い秘密がひそんでいるように解釈するものが多かった。地蔵尼は非常に犬を嫌っていた。その死体の脛にも薄い歯のあとが残っていた。その新しい墓土を狸がほり起こしに来て、犬に咬み殺された、こういう事実をむすび付けて考えると、地蔵尼と犬と狸と、そのあいだに何かの連絡がありそうにも思われた。尼に対する一種の疑惑が又もや強い力をもって大勢の心を支配するようになった。
「あの尼はやっぱり尋常(ただ)の人間じゃない。狸だ、狸だ。」
 死体の脛に残っていた歯のあとがいよいよ有力の証拠となって、尼は犬にくい殺されたものと決められてしまった。喜蔵と重太郎とが通り過ぎたあとで、尼はまだそこをうろうろしているところを野良犬に咬まれたに相違ないと、多数の意見が一致した。僕の母なぞも少しその説に傾きかかった。祖母と父とはいつまでも強情にそれを否認していたが、大勢(たいせい)はもう動かすことが出来なかった。たとい狸の化けたのでないとしても、地蔵尼の本性はおそらく直人間ではあるまいということに決められた。
「村の奴等にも困ったものだ。」と、僕の父はにが笑いをしていた。
 そのうたがいを解くために、尼の死体を発掘してみようという説も起こったが、慶善寺の住職は頑として肯かなかった。警察でも許さなかった。したがって、その実否を確かめることは出来なかったが、怪しい死を遂げた美しい尼僧は、だれが言い出したともなしに、狸尼の名をかぶせられてしまって、雪の深いその年の冬にも、炉のほとりの夜話にその名がしばしば繰り返された。
 足かけ四月ほども未決囚として繋がれていた二人の嫌疑者は、その年の暮れにいずれも証拠不十分で放免された。二人の嫌疑が晴れると同時に、尼に対する疑いはいよいよ深くなった。狸尼の名は僕よりも小さい子供ですらもよく知っている。堂は無住のままで立ち腐れになってしまった。尼を信仰尼していた僕の祖母も、狸が人間に化ける筈がないと主張していた僕の父も、この問題に対しては口をつぐんでしまった。
 尼の遺産――といったところで、もちろん目ぼしいものは何にもなかったが、白木の経机と、三、四冊の経文と、三、四枚の着換えとが残っていたのを、みな慶善寺に納めることになった。そのほかに古い手文庫のようなものが一つ見いだされたが、それは警察の方へ引きあげられた。文庫のなかには書き散らしの反故(ほご)のようなものがいっばいに詰めてあったが、その大部分はいろいろの地蔵さまの顔を模写したもので、問題の種になった村はずれの地蔵さまの顔は二十枚以上も巧みに模写してあったと伝えられている。昔ならばこれも狸の描いた絵などといって珍らしがられたのであろうが、警察で焼き棄てられたか、あるいはそのままに保存してあるか、そのゆくえは判らない。しかしかの尼が地蔵さまの絵姿をたくさん持っていたのから割り出して、僕の父はこういう解釈をくだしていた。
「あの尼は信仰に凝り固まって、一種のお宗旨気違いになってしまったのだ。石の地蔵さまに抱きついたとか、縋り付いたとかいうのはそのせいだ。別に不思議があるものか。」
 尼は狸ではない、気違いであったかも知れない。僕は半信半疑で父の説明を聴いていた。田崎の小父さんに逢ったときにその話をすると、小父さんもうなずいて、成る程そんなことかも知れないと言っていた。
「それにしても尼はどうして死んだのだろう。やはり犬に咬まれたのかしら。」と、小父さんは更に首をかしげていた。僕にもそれは判らなかった。
 すると、来年の二月の末になって、ここらも漸く春めいて来た頃に、隣り村の源右衛門という百姓が突然拘引された。源右衛門はもう五十以上の男で、これまで別に悪い噂もきこえない人間であっただけに、かれが尼殺しの嫌疑者として拘引されたという事実が又もや世間をおどろかした。かれは陽気の加減か、この頃少しく気が触れたような工合で、ときどきにおかしなことを口走った。
「狸が来た。狸が迎いに来た。」
 それが警察の耳にはいって、かれは遂に拘引されることになったのであった。なんだか取りのぼせているらしいので、ひとまず近所の町の医院へ送られたが、ふた月ばかりで正気にかえった。それから警察へ送られ、さらに裁判所へ送られ、小半年の後に懲役にやられた。しかしかれは直接に尼を殺しのではないということであった。そんならどうして懲役にやられたのか、子供の僕にはくわしい事情を知ることが出来なかった。祖母や母も僕にむかっては十分の説明をあたえてくれなかった。
 それからだんだんに年が過ぎて、僕は近所の町の中学校へ通うようになった。ある年の夏休みに、僕の兄が東京から帰省したとき、一緒にそこらを散歩していると、二人は村はずれの石地蔵の前に出た。兄は誰から開いたのか知らないが、狸尼のことは勿論、源右衛門のこともよく知っていて、今まで僕の知らなかった事実を話してくれた。
 源右衛門は尼の死ぬ一週間ほど前に、尼に関係したことがあるのを白状した。源右衛門が夜ふけて例の地蔵さまの前を通ると、尼は石の仏をかかえて何事をかささやいているのを見つけた。尼は自分の秘密を覚(さと)られたのを知って、決してそれを他言してくれるなと彼にたのんだ。五十を越した源右衛門は自分の足もとにひざまずいている若い尼僧を見ているうちに、俄かに浅ましい妄念を起こした。
 そうして、その口留めの代りとして或る要求を提出した。尼は無論に拒んだのであるが、かれは脅迫的に自分の目的を達して別れた。
 それから一週間の後に尼は怪しい死を遂げた。しかし狸尼の噂が隣り村まで伝えられたので、源右衛門は後悔と恐怖とに襲われた。日を経るにしたがって、その恐怖がいよいよ彼のたましいを脅かして、自分が狸に取りつかれたように感じられて来た。かれは取り留めもないことを口走って、とうとう自分のからだを暗いところへ運ぶようになったのであった。しかしかれ自身が尼を殺したのでないという申し開きが立って、軽い懲役で済んだ。
 兄もその以上のことは知らないらしかった。

「話はまずそれだけのことさ。」と、梶沢君は言った。「結局、その地蔵尼はどうして死んだのか判らないことになっているのだ。今日(こんにち)であったならば死体解剖の結果その死因を確かめることも出来たのだろうが、なにしろ明治十四五年の頃で、しかもまだ開けない田舎の村の出来事であるから、とうとうそれなりになってしまったらしい。警察では無論に狸とは認めていないが、土地の者は今でも半信半疑で、やはり狸尼の噂が残っているのを見ると、むかしから各地に伝えられている怪談も、大抵はこんなたぐいが多いのだろうと想像される。それで、尼の死因はまず疑問として、もう一つの疑問は尼と石地蔵との一件だ。夜ふけに石地蔵を抱いて何事をかささやいていたとかいう、それを僕の父が解釈したように一種の宗教狂と認めることが出来ないでもないが、僕は医学上の見地からむしろそれを一種の色情狂と認めたいと思っている。早くいえば、尼はその地蔵さまに惚れているのだ。いや、冗談じゃない。外国にもそんな例はたくさんある。外国にも銅像を抱く色情狂もある。靴をふところにする色情狂もある。尼が地蔵さまに恋していたことは、その手文庫のなかにその絵像をたくさん持っていたのを見ても想像することが出来る。殊に普通の人間と違って、若い女盛りで尼僧生活を送っている以上、その生理上にも一種の変態をおこすのは怪しむに足らない。尼はなんでもない、単に一種の色情狂者に過ぎないのであろうと僕は鑑定している。尼が犬をなぜ嫌ったか、それは判らない。それが彼女を狸の方へひき寄せる一つの理由になっているのであるが、おそらく子供の時に犬に咬まれた怖ろしい経験をもっているか、あるいは生まれついて犬を嫌う性質であるか、単にそれだけのことで、他に深い理由がありそうにも思われない。それから割り出していけば、彼女の死もほぼ想像されないこともない。その晩、例のごとく石地蔵を抱いていたところを二人の若い者に見付けられたので勿論その口留めをしなければならない。しかしその前の源右衛門じじいの凌辱に懲りているので、彼女は一生懸命に、努めて端厳の態度で二人に接したに相違ない。それが一方にはなんとなく薄気味悪いようにも感じられたのだろう。二人が立ち去ったあとへ、大嫌いの野良犬がどこからか出て来て、突然に彼女の裳(すそ)をくわえたか、あるいは足を咬んだか、それに強くおびやかされて、彼女は心臓を破ったか、あるいはおどろいて倒れたはずみに石地蔵で頭を打って、脳震盪でも起こしたか。死因はおそらくそこらにありはしまいかと思われるが、今日になってはもう確かなことは断言できない。尼の新しい墓を狸が掘ったとかいうのは、この事件になんの関係もないことで、新仏の墓を犬や狸がほり返すことは往々ある。ある地方では河童の仕業(しわざ)だなどと言い伝えている所もある。まあこれで狸の正体も大抵判ったろう。狸に関係したと思いつめていた源右衛門おやじは出獄後どうなったか、それは僕も聞いていない。



底本:岡本綺堂読物選集 第6 探偵編 1969、青蛙房
入力:和井府 清十郎
公開:2003年7月8日

※誤字訂正。喜八さん、ご指摘ありがとうございました。(7/24/2003)




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