一
星崎さんの話のすむあいだに、又三四人の客が来たので、座敷は殆ど一杯になった。星崎さんを皮切りにして、これらの人々が代るがわるに一席ずつの話をすることになったのであるから、まったく怪談の惣仕舞という形である。勿論そのなかには紋切形のものもあったが、なにか特色のあるものだけを私はひそかに筆記して置いたので、これから順々にそれを紹介したいと思う。しかし初対面の人が多いので、一度その名を聴かされたゞけでは、どの人が誰であったやら判然しないのもある。又その話の性質上、談話者の姓名を発表するのを遠慮しなければならないような場合もあるので、皮切りの星崎さんは格別、ほかの人々の姓名はすべて省略して、単に第二の男とか第三の女とか云うことにして置きたい。
そこで、第二の男は語る。
享保の初年である。利根用の向う河岸《がし》、江戸の方角から云えば奥州寄りの岸のほとりに一人の座頭が立っていた。坂東太郎という利根の大河もこゝは船渡しで、江戸時代には房川《ぼうかわ》の渡と呼んでいた。奥羽街道と日光街道との要所であるから、栗橋の宿には関所がある。その関所をすぎて用を渡ると、むこう河岸は古河の町で、土井家八万右の城下として昔から繁昌している。彼の座頭はその古河の方面の岸に近くたゝずんているのであった。
座頭が利根川の岸に立っている。――唯それだけのことならば格別の問題にもならないかも知れない。かれは年のころ三十前後で、顔色の蒼黒い、口のすこし歪んだ、痩形の中背の男で、夏でも冬でも浅黄の頭市をかぷって、草鞋《わらじ》ばきの旅すがたをしているのであるが、朝から晩までこの渡し場に立ち暮しているばかりで、曽て渡ろうとはしない。相手が盲人であるから、船頭は渡し賃を取らずに渡してやろうと云っても、彼は寂しく笑いながら黙って頭を掉《ふ》るのである。それも一日や二日のことではなく、一年、二年、三年、雨風を厭《いと》わず、暑寒を嫌わず、彼はいかなる日でもかならずこの渡し場にその痩せた姿をあらわすのであった。
こうなると、船頭共も見逃すわけには行かない。一体なんのために毎日こゝヘ出てくるのかと屡々聞きたゞしたが、座頭はやはり寂しく笑っているばかりで、更に要領を得るような返事をあたえなかった。併しかれの目的は自然に覚られた。
奥州や日光の方面から来る旅人はこゝから渡し船に乗ってゆく。江戸の方面から来る旅人は粟橋から渡し船に乗り込んでここに着く。その乗降りの旅人を座頭は一々に詮議しているのである。
「もし、このなかに野村彦右衛門というお人はおいでなされぬか。」
野村彦右衛門――侍らしい苗字であるが、そういう人は曽て通り合せないとみえて、どの人もみな答えずに行き過ぎてしまうのである。それでも座頭は毎日この渡し場にあらわれて、野村彦右衛門をたずねている。それが前にもいう通り、幾年という長い月日のあいだ一日もかゝさないのであるから、誰でもその根気のよいのに驚かされずにはいられなかった。
「座頭さんは何でその人をたずねるのだ。」
こうした質問も船頭共から屡々くり返されたが、かれは唯いつもの通り、笑っているばかりで、決してその口を開こうとはしなかった。かれは元来無口の男らしく、毎日この渡し場に立ち暮していながら、顔はみえずとも声だけはもう聞き慣れている筈の船頭どもに対しても、曽て馴々しい詞《ことば》を出したことはなかった。こちらから何か話しかけても、かれは黙つて笑うか首肯《うなず》くかで、なるべく他人との応答を避けているようにもみえるので、船頭共も後には馴れてしまって、かれに向って声をかける者もない。かれも結局それを仕合せとしているらしく、毎日唯ひとりで寂しくたゝずんでいるのであった。
一体かれはどこに住んで、どういう生活をしているのか、それも判らない。どこから出て来て、どこへ帰るのか、わざ/\そのあとを附けて行った者もないので、誰にもよく判らなかった。こゝの渡しは明け六つに始まって、ゆう七つに終る。彼はそのあいだこゝに立ち暮して渡しの止まるのを合図にどこへか消えるように立去ってしまうのである。朝から晩まで斯うしていても、別に弁当の用意をして来るらしくもみえない。渡し小屋に寝起きをしている平助という老爺《じい》さんが余りに気の毒に思って、あるとき大きい握り飯を二つこしらえて遣ると、その時ばかりは彼も大層よろこんでその一つを旨そうに食った。そうして、その礼だと云って一文の銭を平助に出した。もとより礼を貰う料簡もないので、平助は要らないと断ったが、かれは無理に押付けて行った。それが例となって、平助の小屋では毎日大きい握り飯を一つこしらえて遣ると、かれは屹と一文の銭を置いてゆく。いくら物価の安い時代でも、大きい握り飯ひとつの値が一文では引合わないわけであるが、平助の方では盲人に対する一種の施しと心得て、毎日こゝろよくその握り飯をこしらえて遣るばかりでなく、湯も飲ませてやる、炉の火にもあたらせて遣る。こうした深切がかれの胸にも沁みたと見えて、他の者とは殆ど口をきかない彼も、平助老爺《じい》さんだけには幾分か打解けて暑さ寒さの挨拶をすることもあった。
往来の繁しい街道であるから、渡し船は幾艘も出る。しかし他の船頭どもは夕方から皆めい/\の家へ引揚げてしまって、この小屋に寝泊りをしているのは平助じいさんだけであるので、ある時かれは座頭に云つた。
「お前さんはどこから来るのか知らないが、眼の不自由な身で毎日往ったり来たりするのは難儀だろう。いっそこの小屋に泊ることにしたら何《ど》うだ。わたしのほかには誰もいないのだから遠慮することはない。」
座頭はしばらく考えた後に、それではこゝに泊らせてくれと、云った。平助はひとり者であるから、たとい盲でも話相手の出来たのを喜んで、その晩から自分の小屋に泊らせて、出来るだけの面倒をみて遣ることにした。こうして、利根の川端の渡し小屋に、老いたる船頭と身許不明の盲人とが、雨のふる夜も風の吹く夜も一緒に寝起きするようになって、ふたりの間はいよいよ打解けたわけであるが、兎かくに無口の座頭はあまり多くは語らなかった。勿論、自分の来歴や目的については、堅く口を閉じていた。平助の方でも無理に聞き出そうともしなかった。強いてそれを詮議すれば、かれは屹とこゝを立去ってしまうであろうと察したからである。それでも唯一度、なにかの夜話のついでに、平助はかれに訊いたことがあった。
「お前さんはかたき討かえ。」
座頭はいつもの通りにさびしく笑って頭を掉《ふ》った。その問題もそれぎりで消えてしまった。
平助じいさんが彼を引取ったのは、盲人に対する同情から出発していたには相違なかったが、そのほかに幾分かの好奇心も忍んでいたので、かれは同宿者の行動に対してひそかに注意の眼をそゝいでいたが、別に変ったこともないようであった。座頭は朝から夕まで渡し場へ出て、倦まず怠らずに野村彦右衛門の名を呼びつゞけていた。
平助は毎晩一合の寝酒で正体もなく寝入ってしまうので、夜なかのことは些とも知らなかったが、ある夜ふけに不図眼をさますと、座頭は消えかゝっている炉の火をたよりに、何か太い針のようなものを一心に磨いでいるようであったが、人一倍に感のいゝらしい彼は、平助が身動きしたのを早くも覚って、たちまちにその針のようなものを押隠した。その様子が唯ならないようにみえたので、平助は素知らぬ顔をして再び眠ってしまったが、その夜なかに彼の盲人が竊《そつ》と這い起きて来て、自分の寝ている上に乗りかゝって、彼の針のよ一うなものを左の眼に突き透すとみて、夢が醒めた。その魘《うな》される声に座頭も眼をさまして、探りながらに介抱してくれた。平助はその夢に就てなんにも語らなかったが、それ以来なんとなく彼の座頭が怖しくなって来た。
かれはなんの為に針のようなものを持っているのか、盲人の商売道具であると云えばそれまでゝあるが、あれほどに太い針を隠し持っているのは少しく不似合のことである。あるいは偽盲《にせめくら》で実は盗賊のたぐいではないかなどと平助は疑った。いずれにしても彼を同宿させるのを平助は薄気味悪く思うようになったが、自分の方から勧めて引き入れた以上、今更それを追い出すわけにも行かないので、先ずそのまゝにして置くと、ある秋の宵である。この日は昼から薄寒い雨がふりつゞいて、渡しを越える人も少かったが、暮れてはまったく人通りも絶えた。河原には水が増したらしく、そこらの右を打つ音が例《つね》よりも凄じく響いた。小屋の前の川柳に降りそゝぐ雨の音も寂しくきこえて、馴れている平助もおのずと佗しい思いを誘い出されるような夜であった。肌寒いので炉の火を強く焚いて、平助は宵から例の一合の酒をちびり/\と飲みはじめると、ふだんから下戸だと云っている座頭は黙って炉の前に坐っていた。
「あ。」
座頭はやがて口のうちで云った。それに驚かされて、平助も思わず顔をあげると、小屋の外には何かびちや[#「びちや」に傍点]/\云う音が雨のなかにきこえた。
「何かな。魚《さかな》かな。」と、座頭は云った。
「そうだ。魚だ。」と、平助は起ちあがった。「この雨で水が殖えたので、なにか大きい奴が跳ねあがったと見えるぞ。」
平助はそこにかけてある蓑を引っかけて、小さい掬い網を持って小屋を出ると、外には風まじりの雨が暗く降りしきっていた。川の水は濁っているので、いつもほどの水明りも見えなかったが、その薄暗い岸の上に一尾の大きい魚の跳ねまわっているのが朧《おぼろ》げに窺われた。
「あゝ、鱸《すずき》だ。こいつは大きいぞ。」
鱸は強い魚であることを知っているので、平助も用心して抑えにかゝったが、魚は予想以上に大きく、どうしても三尺を越えているらしいので、小さい網では所詮掬うことは出来そうもなかった。うっかりすると網を破られる虞《おそれ》があるので、かれは網を投げすてゝその魚を抱こうとすると、魚は尾鰭を振って自分の敵を力強く跳ね飛ばしたので、平助は湿《ぬ》れている草に滑って倒れた。その物音を聞きつけて、座頭も表へ出て来たが、盲目の彼は暗いなかを恐れる筈はなかった。かれは魚の跳ねる音をたよりに探り寄ったかと思うと、難なくそれを取抑えてしまったので、盲人としては余りに手際がよいと、平助はすこし不思議に思いながら、兎も角も大きい魚を小屋の内へかかえ込むと、それは果して鱸《すずき》であった。鱸の眼には右から左へかけて太い針が突き透されているのを見たときに、平助は何とはなしに慄然《ぞつ》とした。魚は半死半生に弱っていた。
「針は魚の眼に刺っていますか。」と、座頭はきいた。
「刺っているよ。」と、平助は答えた。
「刺りましたか、確に、眼玉のまん中に……。」
見えない眼をむき出すようにして、座頭はにやり[#「にやり」に傍点]と笑ったので、平助は又ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
二
盲人は感の好《い》いものである。そのなかでもこの座頭は非常に感の好いらしいことを平助もかねて承知していたが、今夜の手際をみせられて彼はいよ/\舌をまいた。もとより盲人であるから、暗いも明るいも頓着はあるまいが、それにしてもこの暗い雨のなかで、勢よく跳ねまわっている大きいい魚をつかまえて、手探りながらに其眼のまっ只中を突き透したのは、よのつねの手練でない。かれが人の目を忍んで磨ぎすましている彼の針がこれほどの働きをするかと思うと、平助はいよ/\怖しくなった。かれはその晩も盲人の針に眼を突き刺される夢をみて、幾たびか魘《うな》された。
「とんだ者を引摺り込んでしまった。」
平助は今更後悔したが、さりとて思い切って彼を追い出すほどの勇気もなかった。却ってその後は万事に気をつけて、その御機嫌を取るように努めているくらいであった。
座頭がこの波し場にあらわれてから足かけ三年、平助の小屋に引取られてから足かけ二年、あわせて丸四年程の月日が過ぎた後に、かれは春二月のはじめ項から風邪《かぜ》のこゝちで煩《わずら》い付いた。それは余寒の強い年で、日光や赤城から朝夕に吹きおろして来る風が、広い河原にたゞ一軒のこの小屋を吹き倒すかとも思われた。その寒いのも厭わずに、平助は古河の町まで薬を買いに行って、病んでいる座頭に飲ませて遣った。
そんな体《からだ》でありながら、座頭は杖にすがって渡し場へ出てゆくことを怠らなかった。
「この寒いのに、朝から晩まで吹き晒されていては堪るまい。せめて病気の癒るまでは休んではどうだね。」
平助は見かねて注意したが、座頭はどうしても肯かなかった。日ましに痩せ衰えてくる体を一本の杖にあやうく支えながら、かれは毎日とぼ/\と出て行ったが、その強情もとう/\続かなくなって、朝から晩まで小屋のなかに倒れているようになった。
「それだから云わないことではない。まだ若いのに、からだを大事にしなさい。」と、平助じいさんは深切に看病して遣ったが、かれの病気はいよ/\重くなって行くらしかった。
渡し場へ出られなくなってから、座頭は平助にたのんで毎日一尾ずつの生きた魚を買って来て貰った。冬から春にかけては、こゝらの水も枯れて川魚も捕れない。海に遠いところであるから、生きた海魚などは猶さら少い。それでも平助は毎日さがしてあるいて、生きた鯉や鮒《ふな》や鰻《うなぎ》などを買ってくると、座頭は彼の針をとり出して一尾ずつにその眼を貫いて捨てた。殺してしまえば用はない。あとは勝手に煮るとも焼くともしてくれと云ったが、座頭の執念が籠っているような其魚を平助はどうも食う気にはなれないので、いつもそれを眼の前の川へ投げ込んでしまった。
一日に一尾、生きた魚の眼を突き潰しているばかりでなく、更に平助をおどろかしたのは、座頭がその魚を買う代金として五枚の小判をかれに渡したことである。午飯《ひるめし》に握り飯一つを貰っていた頃には、毎日一文ずつの代を支払っていたが、小屋に寝起きをするようになってからは、平助と一つ鍋で三度の飯を食っていながら、座頭は一文の金をも払わなくなった。勿論、平助の方でも催促しなかった。座頭は今になってそれを云い出して、おまえさんには沢山の借がある。就てはわたしの生きているあいだは此金で魚を買って、残った分は今までの食料として受取ってくれと云った。あしかけ二年の食料と云ったところで知れたものである。それに対して五枚の小判を渡されて、平助は胆を潰したが、兎も角もその云う通りにあずかって置くと、座頭は半月ばかりの後にいよ/\弱り果てゝ、きょうか翌日《あす》かという危篤の容体になった。
旧暦の二月、あしたは彼岸の入りというのに、今年の春の寒さは身に堪えて、朝から吹きつゞけている赤城《あかぎ》颪《おろ》しは午過ぎから細かい雪さえも運び出して来た。時候はずれの寒さが病人に障ることを恐れて、平助は例《つね》よりも炉の火を強く焚いた。渡しが止まって、ほかの船頭どもは早々に引揚げてしまうと、春の日もやがて暮れかゝって、雪は左のみにも降らないが、風はいよ/\強くなった。それが時々にごう[#「ごう」に傍点]/\と吼えるように吹きよせて来ると、古い小屋は地震のようにぐら[#「ぐら」に傍点]/\と揺れた。
その小屋の隅に寝ている座頭は弱い声で云った。
「風が吹きますね。」
「毎日吹くので困るよ。」と、平助は炉の火で病人の薬を煎じながら云った。「おまけに今日はすこし雪が降る。どうも不順な陽気だから、おまえさんなんぞは猶さら気をつけなければいけないぞ。」
「あゝ、雪が降りますか。雪が……。」と、座頭は溜息をついた。「気をつけるまでもなく、わたしはもうお別れです。」
「そんな弱いことを云ってはいけない。もう少し持ち堪《こた》えれば陽気も屹《きつ》と春めいて来る。暖かにさえなれば、お前さんのからだも自然に癒るにきまっている。せい/″\今月一杯の辛抱だよ。」
「いえ、なんと云って下すっても、わたしの寿命はもう尽きています。所詮癒る筈はありません。どういう御縁か、おまえさんには色々のお世話になりました。就きましては、わたしの死際に少し聴いて置いて貰いたいことがあるのですが……。」
「まあ、侍ちなさい。薬がもう出来た時分だ。これを飲んでからゆっくり話しなさい。」
平助に薬をのませて貰って、座頭は風の音に耳をかたむけた。
「雪はまだ降っていますか。」
「降っているようだよ。」と、平助は戸の隙間から暗い表をのぞきながら答えた。
「雪のふるたびに昔のことが一入身にしみて思い出されます。」と、座頭はしずかに話し出した。「今まで自分の名を云ったこともありませんでしたが、わたしは治平と云って、以前は奥州筋のある藩中に若党奉公をしていた者です。わたしがこゝヘ来たのは三十一の年で、それから足かけ五年、今年は三十五になりますが、今から十三年前、わたしが二十二の春、やはり雪の降った寒い日に、この両方の眼をなくしてしまったのです。わたしの主人は野村彦右衛門と云って、その藩中でも百八十石取りの相当な侍で、そのときは二十七歳、御新造はお徳さんと云って、わたしと同年の二十二でした。御新造は容貌《きりよう》自慢――いや、まったく自慢しても好《い》くらいの容貌好しで、武家の御新造としては些《ち》と派手過ぎるという評判でしたが、御新造はそんなことに頓着なく、子供のないのを幸いにせい/″\派手に粧《つく》っていました。その美しい女振りを一つ屋敷で朝に晩に見ているうちに、わたしにも抑え切れない煩悩が起りました。相手は人妻、しかも主人、とても何《ど》うにもならないことは判り切っているのですが、それがどうしても思い切れないので、自分でも気が可怪《おかし》くなったのではないかと思われるように、唯むやみに苛々して日を送っていると、忘れもしない正月の二十七日、この春は奥州にめずらしく暖かい日がつゞいたのですが、前の晩から大雪がふり出して、たちまちに二尺ほども積ってしまいました。雪国ですから雪に驚くこともありません。唯そのまゝにして置いても可《い》いのですが、せめて縁先に近いところだけでも掃きよせて置こうと思って、わたしは箒を持って庭へ出ると、御新造はこの雪で持病の癪気が起ったと云うことで、六畳の居間で炬燵にあたっていましたが、わたしの箒の音をきいて縁さきの雨戸をあけて、どうで積ると決まっているものを態々掃くのは無駄だから止めろと云うのです。それだけならば好かったのですが、さぞ寒いだろう、こゝヘ来て炬燵にあたれと云ってくれました。相手は冗談半分に云ったのでしょうが、それを聞いてわたしは無暗《むやみ》に嬉しくなりまして、からだの雪を払いながら半分は夢中で縁側へあがりました。灰のような雪が吹き込むので、すぐに雨戸をしめて炬燵のそばへ這入り込むと、御新造はわたしの無作法に果れたように唯黙ってながめていました。まったく其時にはわたしも気が違っていたのでしょう。」
死にかゝっている座頭の口から、こんな色めいた話を聞かされて、平助じいさんも意外に思った。
三
座頭はまた語りつゞけた。
「わたしはこの図《ず》を外してはならないと思って、ふだんから思っていることを一度にみんな云ってしまいました。家来に口説かれて、御新造はいよ/\呆れたのかも知れません。やはり何にも云わずに坐っているので、わたしは焦れ込んでその手を捉えようとすると、御新造は初めて声を立てました。その声を聞きつけて、ほかの者も駈けて来て、有無を云わさずに私を縛りあげて、庭の立木に繋いでしまいました。両手をくゝられて、雪のなかに晒されて、所詮わが命はないものと覚悟していると、やがて主人は城から退《さが》って来ました。主人は仔細を聞いて、わたしを縁さきへ引き出させて、貴様のような奴を成敗するのは刀の汚れだから免《ゆる》してやるが、左様な不埒な料簡をおこすと云うのも、畢竟はその眼が見えるからだ。今後再び心得違いをいたさぬように貴様の眼だまを潰してやると云って、小柄をぬいてわたしの両方の眼を突き刺しました。」
今もその眼から血のなみだが流れ出すように、座頭は痩せた指で両方の眼をおさえた。平助もこの酷《むご》たらしい仕置に身顫いして、自分の眼にも刃物を刺されたように痛んで来た。かれは溜息をつきながら訊いた。
「それからどうしなすった。」
「俄盲《にわかめくら》にされて放逐されて、わたしは城下の親類の家へひき渡されました。命には別条なく、疵の療治も済みましたが、俄盲ではどうすることも出来ません。宇都宮に知り人があるので、そこへ頼って行って按摩の弟子になりまして、それから又江戸へ出て、ある検※[#手偏+交]《けんぎよう》の弟子になりました。二十二の春から三十一の年まで足かけ十年、そのあいだに一日でも仇《かたき》のことを忘れたことはありませんでした。かたきは元の主人の野村彦右衛門。いっそ一と思いに成敗するならば格別、こんな酷《むご》たらしい仕置をして、人間ひとりを一生の不具者《かたわもの》にしたかと思うと、どうしてもその仇を取らなければならない。と云って、相手は立派な侍で、武芸も人並以上にすぐれていることを知っていますから、眼のみえない私がかたきを取るにはどうしたら可《い》いか、色々かんがえ抜いた揚句に思いついたのが針でした。宇都宮でも江戸でも針の稽古をしていましたから、その針の太いのをこしらえて置いて、不意に飛びかゝってその眼玉を突く。そう決めて、閑《ひま》さえあれば針で物を突く稽古をしていると、人の一心はおそろしいもので、仕舞には一本の松葉でさえも狙いを外さずに突き刺すようになりましたが、さて今度はその相手に近寄る手だてに困りました。彦右衛門は屋敷の用向きで、江戸と国許のあいだを度々往復することを知っていましたので、この渡し場に待っていて、船に乗るか、船から降りるか、そこを狙って本意を遂げようと、師匠の検※[#手偏+交]には国へ帰ると云って暇を貰いまして、こゝヘ来ましてから足かけ五年、毎日根気よく渡し場へ出て行って、上り下りの旅人を一々にあらためていましたが、野村彦右衛門ともいう者にどうしても出逢わないうちに、自分の命が終ることになりました。いや、こんなことは自分の胸ひとつに納めて置けばよいのですが、誰かに一度は話して置きたいような気もしましたので、とんだ長話をしてしまいました。かえす/″\もお前さんには御世話になりました。あらためてお礼を申します。」
云うだけのことを云ってしまって、かれは俄に疲労したらしく、そのまゝ横向きになって木枕に顔を押付けた。平助も黙って自分の寝床に這入った。
夜なかから雪もやみ、風もだん/\に吹き止んで、この一軒家をおどろかすものも無かった。利根の川水も凍ったように、流れの音を立てなかった。河原の朝は早く明けて、平助はいつもの通りに眼をさますと、病人はしずかに眠っているらしかった。あまり静なので、すこしく不安に思って覗いてみると、座頭は彼の針で自分の頸筋を突いていた。多年その道の修業を積んでいるので、かれは脈所《みやくどこ》の急所を知っていたらしく、ただ一本の針で安々と死んでいるのであった。
他の船頭共にも手伝って貰って、平助は座頭の死骸を近所の寺へ葬った。勿論、彼の針も一緒にうずめた。平助は正直者であるので、座頭が形見の小判五枚には手を触れず、すべて永代の回向料として其寺に納めてしまった。
それから六年、彼の座頭がこの渡し場に初めてその姿をあらわしてから十一年目の秋である。八月の末に霖雨《ながあめ》が降りつゞいたので、利根川は出水して沿岸の村々はみな浸された。平助の小屋も押流された。それがために房川《ぼうかわ》の船渡しは十日あまりも止まっていたが、九月になって秋晴れの日がつゞいたので、ようやくに船を出すことになると、両岸の栗橋と古河とに支えていた上り下りの旅人は川のあくのを待ちかねて、先を争って一度に乗り出した。
「あぶねえぞ、気をつけろよ。水はまだほんとに引いていねえのに、どの船もみんな一杯だからな。」
平助じいさんは岸に立ってしきりに注意していると、古河の方から漕ぎ出した一捜の船はまだ幾間も進まないうちに、強い横浪の煽りをうけて、あれという間に顛覆した。平助のいう通り、水はまだほんとうに引いていないので、船頭共のほかにも村々の若い者等が用心のために出張っていたので、それを見ると皆ばら/\と飛び込んで、あわや溺れそうな人々を見あたり次第に救い出して、もとの岸へかつぎあげた。手あてを加えられて、どの人もみな正気にかえったが、そのなかで唯ひとりの侍はどうしても生きなかった。身装《みなり》も卑くない四十五六の男で、ふたりの供を連れていた。
供の者はいずれも無事で、その二人の口から彼の溺死者の身の上が説明された。かれは奥州のある藩中の野村彦右衛門という侍で、六年以前から眼病にかゝって此頃では殆ど盲目同様になった。江戸に眼科の名医があるというのを聞いて、主君へも届け済みの上で、その療治のために江戸へ上る途中、こゝで測らずも禍《わざわい》に逢ったのである。盲目同様であるから、道中は駕籠に乗せられて、ふたりの家来に扶けられて来たのであるが、この場合、相当に水練の心得もある筈の彼がどうして自分ひとり溺死したかと、家来共も怪むように語った。
それとは又すこし違った意味で、平助じいさんは彼の死を怪んだ。ほかの乗合がみな救われた中で、野村彦右衛門という盲目の侍だけがどうして溺れ死んだか、それを思うと、平助はまた俄にぞっ[#「ぞつ」に傍点]とした。かれは供の家来にむかって、このお方には奥さまがあるかと竊《ひそ》かに訊くと、御新造様は遠いむかしに御離縁になったと答えた。いつの頃にどういうことで離縁になったのか、そこまで平助も押して訊くわけには行かなかった。
旅先のことであるから、家来どもは主人のなきがらを火葬にして、遺骨を国許へ持ち帰ると云っていた。平助は近所の寺へまいって、彼の座頭の墓にあき草の花をそなえて帰った。
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底本:大衆文学大系七 岡本綺堂 菊池寛 久米正雄 集 (講談社)
一九七一(昭和四一)年十月二十日 第一刷
入力:和井府清十郎
※今日の人権意識からすると不適切と思われる語句や表現が見受けられるが、時代的な背景と作品の価値に鑑み、また原文の同一性を保持・尊重する立場からそのままとしました。
公開:2001年1月29日