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言葉と身ぶり



   もくじ 
・『電報をかける』表現の変遷はいつか?
『歌舞伎では拍手しなかった』
江戸・明治の湯屋・風呂 ――石榴口
『かれ』表現について(6/3/2002)



「電報をかける」表現の変遷はいつか

 今日では、ほとんど「電報を打つ」ですが、こうなるまでには変遷があったとは知りませんでした。ただ、もう電報を打つということも生活のレベルでは冠婚葬祭くらいになりましたが。
岡本綺堂『西瓜』
 「さっそく京都の方へ電報をかけようと思った」
 明治・大正の東京人の言い方だった。打つの方は地方出身者が使い始めて、大正から昭和にかけて広まったというのは、都筑道夫「解説]『白髪鬼』光文社時代文庫263頁である。

 この都筑説には二つのテーゼを含んでいます。
(1)「電報をかける」は“東京人の言い方だった”。
(2)“変化は大正から昭和にかけて、地方出身者が使い始めて広まった、
というものです。
 まず、テーゼ(2)の方から見ましょう。いつ頃がターニング・ポイントなのか、手近の作品を捜してみました。まずは、1867年生まれで東京・牛込育ちの夏目漱石です。

夏目漱石『三四郎』 (初出掲載・朝日新聞1908(明治41)年9.1−12.29、下記の引用は、いずれも岩波書店版『漱石全集』第5巻より。冒頭漢数字は章・節番号)
  ・三(の十一)  「只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。」
  ・八(の二)  「……国へ電報でも掛けるんだな」

夏目漱石『行人』 (1912(明治45/大正元)年12月〜大正2年4月まで連載。下記の引用は、岩波書店版『漱石全集』第8巻より。冒頭漢数字は節番号)
  ・二九  「宅(うち)へ電報を打つという三沢を……」
  ・四一  「自分は母の命令で岡田の宅(うち)迄(まで)電報を打った。」

 同 『心』 (掲載 朝日新聞1914(大正3)年、後『こころ』として岩波書店同年刊。下記の引用は岩波書店版『漱石全集』第9巻)
  ・(「先生の遺書」)四六  「それで両方へ愈(いよいよ)という場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。」

 このように、興味深いことに、明らかに三作品では異なりますね。『三四郎』は初期の作品と言ってよいですが、これ以後の『行人』と例の先生が登場する『心』では、「電報を打つ」に変わっていました。同一作品内での混用はないようです。『三四郎』と後2作品はわずかに4年ばかりの隔たりです。文章表現では、この間に変遷したと推定してよいかもしれません。
 ただ、漱石の場合は、松山・熊本といわば地方を点々としたわけで、その間に身についた語法という可能性もあります。だとすると、『三四郎』を書いたときにすでに「打つ」の表現が出ていなくてはなりませんね。鏡子夫人の口述になる「漱石の思い出」(昭和4年、松岡譲録)にも、電報を打つという表現がありました。
 明治から大正にかけて作品中で電報を登場させた、漱石はよい素材を提供してくれました。
 時期として、一応、明治末から大正初期と絞り込めるので、つぎに目をつけましたのが、有島武郎『ある女前・後編』(1911(明治44)年1月―1913(大正2)年「白樺」に連載)です。有島は小石川の生まれで東京育ち、のち北大の教授を経て作家でした。作品の時期は申し分なかったのですが、作品中に電報の件は出てくるのですが、多くは「置く」「取り出す」などの表現で、電報そのものの行為を示す用例はありませんでした。実に惜しかったです。そこで、石川啄木、国木田独歩や芥川龍之介もねらい目でしたが、捜した幾つかの作品ではありませんでした。あとは森鴎外とか、尾崎紅葉、幸田露伴ですか……。
 尾崎紅葉(1867―1903)は、江戸芝生まれという。有名な『金色夜叉』は1987(明治30)年から1902年にかけて読売新聞に断続的に連載されました。

 尾崎紅葉『続続金色夜叉』
  ・「今朝(けさ)から御心配遊(あそば)して、停車場(ステエション)まで様子を見がてら電報を掛けに行くと有仰(おつしや)いまして、……」

これは、遅くとも明治末の作品で、「電報をかける」の方ですね。このように、都筑説の大正から昭和期よりはもっと早く、明治末といえるでしょう。当然ですが、話し言葉はもっと早かった可能性があります。

つぎに、明治30年代には「電報をかける」というテーゼを補強する例を挙げます。
 青空文庫でデジタル化された徳富蘆花の小説「不如帰」(明治30年代)が公表されたので、さっそくダウンロードして、「電報」で検索する。すると……「あった!」。デジタル化によって便利になった事を痛感する瞬間でもある。入力・校正・公表した方々に感謝。

 徳富蘆花『不如帰』
  ・「おや、千々岩様――どうしていらッしゃいまして?」と姥(うば)はびっくりした様子にて少し小鼻にしわを寄せつ。
 「おれがさっき電報かけて加勢に呼んだンだ」


 『不如帰』は徳富蘆花作の小説で、明治31〜32年にかけて、兄の徳富蘇峰の主宰する「国民新聞」紙上に発表(完結)された。海軍少尉川島武男の出征中に肺結核を理由に姑に離縁される妻、浪子をめぐる悲劇を描く。モデル小説あるいは明治の家庭小説でもある。
 作者の蘆花は、1868(明治元年)年熊本県水俣の富豪の生まれで、1886年、新島襄の同志社大学に入学するも、その後退学した。1889(明治22)年に上京して、兄の民友社に勤めた。1900(明治33)年1月に単行本として、民友社より刊行されて、当時のベストセラーとなった。
 ただ、「国民新聞」紙上での当該文章の表現を見たわけではないが、単行本化される明治32・33年頃に、改められた可能もないとは言えないだろう。蘆花の『不如帰』の例でも明らかなように、いずれにしても、1900・明治33年頃は、東京では「電報をかける」表現が一般的であったとえよう。ただ、下記に触れるように、熊本県出身である蘆花の育った環境や東京での記者生活に注意する必要がある(この項、2001/02/18追加)

 つぎに、都筑説(i.の東京人)ですが、こちらの方は、これを補強するようような例が見つかりました。夏目漱石が賞賛したという伊藤左千夫でした。彼は、1864年8月18日上総国武射郡殿台村の生まれです。

伊藤左千夫『野菊の墓』1905(明治39)年1月発行「ホトトギス」に発表。
  ・「誰にも仕様がないから、政夫さんの所へ電報を打った。」

明治39年当時、すでに電報は「打つ」という表現をしていたのですね。この場合、一応、東京人ではない伊藤左千夫といえるでしょう。
 「電報をかける」表現の点で、注目されるのは、徳富蘆花が熊本で育っているが、青春時代を京都それから東京で送っている点です。蘆花の場合、東京・地方と入り組んでいる点で、やや判別が難しいといえるだろう。東京出身者ではないといえば、まさしくそのとおりであるが、京都での学生および東京での記者生活の間に、「電報をかける」がその周囲で使われていて、これを模倣・踏襲した表現だとも考えられる。いずれにしても「地方」出身者である蘆花も、明治32‐3年頃は、「電報をかける」表現を用いていたことだけはいえる。この点は、都築説の「東京人」にかぎるというテーゼの一つが揺らぐ一例ともいえよう。(この項、2001/02/18追加)
 綺堂事物での仮説として、(i)「東京人」の多くは「電報をかける」表現を明治末頃までは用いていた。明治30から40年代には、電報を「かける」と「打つ]表現が混在していた。とくに、打つは東京以外の地方である。
(ii)「かける」から「打つ」(が一般化・標準化)へのターニング・ポイントは、明治30年代末である、と。
 結論を急ぐ前に、もう少し、東京生まれや地方出身作家などの用例を調査する必要があるようです。他の作家や記事でご存知の点がありましたら、ご一報くださるとあり難いです。
 もう一つの“ミステリー”は、なぜ、漱石は表現を変えたか(無意識であったにせよ)?なぜ、綺堂は、表現を改めなかったか?いずれも、当時の新聞と関わった新聞人であるのに、ですね、疑問として残ります。(この項 08/25/2000記)


『歌舞伎では拍手はしなかった』

 芝居や公演などでは、たいてい聴衆や観客は拍手をしますが、そうだったのでしょうか。岡本綺堂のものを読んでいると、そうではなかったのではないかという疑問が出てきます。さて、そこで、ここでは歌舞伎と拍手(喝采)の話しになります。歌舞伎に疎いのでなんともいえませんが、今日では、当然のように、芝居が終ったら拍手するのではないかと思います。ところが、綺堂少年が家族とともに新富座を見物に出かけたとき

「実際、それは初代左団次が最も膏の乗ってゐる当時であるから、舞台が踏み抜けるほどの目ざましい大活動を演じたに相違ない。その証拠には子供のわたしばかりでなく、満場の観客もみな息を嚥んで舞台を見詰めてゐるらしかつた。俳優の名を呼ぶ声も頻りにきこえた。併し手をたたく者は一人もなかつた。その頃には、劇場で拍手の習慣はなかつたのである。」
―岡本綺堂『明治の演劇』12頁(1942年3月刊、大東出版社)

また、『半七捕物帳』でも、芝居好きの半七親分は、贔屓の役者に声を掛けていたようですね。拍手はなかったようです。

「 明治二十六年の十一月なかばの宵である。わたしは例によって半七老人を訪問すると、老人はきのう歌舞伎座を見物したと云った。
「木挽町《こびきちよう》はなかなか景気がようござんしたよ。御承知でしょうが、中幕は光秀の馬盥《ばだらい》から愛宕《あたご》までで、団十郎の光秀はいつもの渋いところを抜きにして大芝居でした。愛宕の幕切れに三宝を踏み砕いて、網襦袢の肌脱ぎになって、刀をかついで大見得を切った時には、小屋いっぱいの見物がわっ[#「わっ」に傍点]と唸りました。取り分けてわたくしなぞは昔者《むかしもの》ですから、ああいう芝居を見せられると、総身《そうみ》がぞくぞくして来て、思わず成田屋ァと呶鳴りましたよ。あはははは」 「まったく評判がいいようですね」
「あれで評判が悪くちやあ仕方がありません。今度の光秀だけは是非一度見て置くことですよ」老人の芝居好きは今始まったことではない。」

―岡本綺堂「新カチカチ山」『半七捕物帳』

 明治半ばの光景ですが、拍手があったとは書いてないのでわかりませんが、見物人は感動のあまりに息を呑んで唸っているし、あちこちから、役者への声が掛かるといった様子ですね。とすると、拍手すると言うのは、もともと西洋的身体表現だったのでしょうか。他に、相撲なんかではどうだったのでしょうか。
 では、歌舞伎でも拍手をするようになったのは、何時くらいからでしょう?
同じく、綺堂さんの劇評を読んでいたら、つぎのような表現に出遭いました。

「私も見物と一所になつて『引きつ引かれつ澤水に』のあたりを拍手喝采しました。」
―岡本綺堂「市村座覗き ―<劇評>―」『演芸画報』大正5年5月(こちらに原文があります)

 時代も下がって、大正5年あたりにあると拍手喝采がでてきているのですね、半七親分が見物した明治半ばからからざっと24年くらいの開きがあるわけですが、変化の時期は両者の間にありそうで、これまた興味が深いですね。



江戸・明治の湯屋・風呂 ――石榴口(ざくろぐち)

 わけても半七捕物帳シリーズではよく出てくるのは、湯屋(ゆうや)つまり今でいう銭湯のシーンですね。そのものずばりの「湯屋の二階」があるし、「熊の死骸」では、内風呂が修理中で備前屋という薬種店の娘が湯屋帰りに襲われる場面がありました。このは、弘化2年正月の青山権太原(権田原)からの出火に絡めた話しですが、「内風呂、「銭湯」というような語が話の中で使われていますので、そのころからあったというのが綺堂さんの考証なのでしょう。

 自前で風呂を持っているのは、大身の武家と町屋では大店(おおだな)くらいのようです。大店でも、奥の者つまり経営者一家でしょうか、は内風呂ですが、店の者は、湯屋へ出かけることになります。

 江戸時代から男女の混浴禁止令もいくつか出ているようですが、あまり実効性はなかったようで、混浴が一般的のようです。これは、外国人から驚きを持って書かれていることが多いですね。プライバシーや風紀の乱れとか、伝染病など衛生面での配慮からですかね。 新政府も、はや明治2(1869)年に「男女入込み湯」禁止を東京府達として出しています。湯槽に仕切や男女入浴を隔日にするなどが行われたらしいです。
 読んでいると、聞きなれない言葉が出てきます。とくに、石榴口(ざくろぐち)と湯屋の二階を取り上げます。  石榴口とは面白い名前ですが、ちょっとどの辺を差すのか判りません。石榴口には色々な絵が描いてあったそうです。今日では少なくなったようですが、ひところの富士山の絵などのような物なのでしょう。

 石榴口とは湯が冷めるのを防ぐ装置のようですが、石榴口をすぎるというかくぐるというか、そうすると中には風呂桶があり、これに入るには階段を上ったようですが、中はもうもうと湯気がたちこめ、また薄暗いということになります。

江戸時代の入浴図
正面奥の方にあるのが、湯槽のある石榴口のようです。かすかに人の足が見えます。

明治12(1879)年10月には「東京府下の湯屋取締規則」によって石榴口を禁止した。これは、綺堂さんの体験的湯屋の叙述(「湯屋」)と符合します。

・料金・値段
明治12−13年頃で1銭2厘、同33年ころから大正4―5年までが3銭という料金でした。ちなみに、この時期の新聞(朝刊)の値段は30銭から45銭、ビールが22銭という変遷です。だから、綺堂さんの随筆「湯屋」にあるように、10銭出しても朝風呂にというのは江戸っ子の粋でしょうか。

・湯屋の二階
 綺堂さんが元園町に住んでいた頃の話。麹町4丁目の湯屋に毎日出かけていたようです。そこの湯屋には、明治12年頃まではやはり柘榴口があったようです。のちに、男女の浴槽には仕切があって、それはガラスでした。湯屋には二階もありました。綺麗なお姉さんがいました。

  寒書生湯屋の二階であつくなり

という明治12年の川柳があるそうです。

江戸時代だと刀掛けがあり、お茶・菓子が並んでいたり、お茶を飲みながら将棋をしたり、談話したりしていたようです。中が具体的にどんなかは、綺堂さんの随筆(「湯屋」という同名の随筆が2本)で語ってもらいましょう。

 大正8年に朝風呂が禁止されました。綺堂さんは、朝風呂していたんでしょうか。大正8年に朝風呂が禁止されて、残念だというようなことを言っています。浅草の方では、一軒くらい朝風呂を営業しているが遠くて出かけられないとも嘆いています。禁止の理由は何だったのでしょうか。

・震災後の、大久保で風呂を買う。
 綺堂さんが内風呂を買ったのは、大久保へ避難してからでした。大久保駅前まで距離があって不便だったこと、またその風呂屋がたいへん夕方混雑していることなどが、女中さんが夜遅く風呂に出かけるのに安全でなかったことなどが購入・設置の動機でした。

 このほか、風呂好きだった綺堂さんらしく、ゆず湯、菖蒲湯の思い出を書き綴った随想などがいくつかあります。「風呂を買うまで」「ゆず湯」「湯屋(「新旧東京雑題」所収)」。いずれも、岡本綺堂『綺堂むかし語り』(光文社時代文庫)所収、また、上に紹介した本ページとか青空文庫でダウンロードできます。

参考文献
武田勝蔵・風呂と湯の話(1967、塙新書)



◆『かれ』表現について(作成中)

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楊洲周延 真美人 十四(パラソル)(1897・明治30年)



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