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綺堂と弟子たち 2

お弟子さんたちとの交流を、記述した記事から採録した。追悼号となった『舞台』から採録した。故あって、岡田禎子、北林余志子氏両名の分は、2週間の期間限定で公開させて頂く。両氏ともに劇作家として活躍された。両氏の文は、岡本綺堂との出会いを描いたもので、当時の女学生や女子がどのように劇界や劇作家を見ていたかの参考にもなろうと思う。とくに、講演依頼をしてきた岡田禎子氏は、当時東京女子大学の学生であった。
この後、額田六福氏、大村嘉代子氏分を掲載する予定です。

大村嘉代子(予定)

額田六福(01/01/2004)

趣味を通じての先生

                            額田六福


 松の樹が嫌いだった。
「君、あれは放蕩息子だよ。」
冗談によくそんな事を云われた。誰もが知っている通り、春夏秋冬と、松の木位手入れに手数のかかる木は尠い。自然物入もかさむ。全くやっかい至極な放蕩息子だ。
 が、しかし、先生が松を愛されなかったのはそう云う手数がかかるとか、物入が嵩むとか云う理由ではなかった。手入は植木屋にやらせればいいのだし、費用だって先生の懐を脅かすほどの事はないし、又必要なら何百金でも平気で投出される人だったのだ。それについて詳しい説明をきいた事はなかったが、あのゴツゴツした、骨ばつた木ぶりが嫌いであったらしい。とにかく庭にも盆栽にも松は一本もなかった。
 お花見と云う行事は大すきだった。しかし、同じ様な理由で桜の木も木としては好きでなかった。私が麹町にいた時代、よく散歩のお供をして英国大使館前をぶらついたが、あの桜並木を見て、
「もう少し木肌が滑かだといいんだがなあ。」
と云われたのを思い出す。
 同じ様な意味で梅もそう好きではなかったらしい。けれど、初春の縁起物として盆梅は(殊に紅梅)賞玩された。しかし、花時がすむと、きまって庭の片隅にほうり出されて、大部分はそのままに枯れて仕舞い、残った物も、翌年にはもう花をつける事が出来なかった。方々から贈物があって、時には相当高価らしい盆梅もあるので、慾ばり屋の私は、
「もう少し手入をなすったら。」
 とよく云ったものだ。と、先生は、
「だって君、我々が枯らして仕舞うから植木屋が立ってゆくんだぜ。」
 先生はそう云う人だった。由来、盆梅の仕立ての事は云わない事にした。

      *

 ゴツゴツした松の木肌の感触を嫌われた先生は、自然の反対現象として、柳、楓、百日紅なぞの肌のなめらかな木が好きであった。目黒の遺邸の庭には、空を覆う百日紅がある。そしてあの花の色も好きだった様である。青山の墓所には、出来ればこの木を植えさせて貰いたいと思う。
 同じ意味で、猫柳もすきだった。随筆集の題名にもなっている。これは、後に説く俳諧趣味から出発していると思う。

           *

 草花は早春のクロッカス、ヒヤシンス等から、秋の終りまで、どこの家にもある様な和洋の花が植えられて、交る交るに咲いていたが、その中で一番巾をきかしていたのは、千日紅、葉鶏頭等の、純粋な、そして野生に近い日本草花だった。花はないが、薄も好きで、例の百日紅の下に傲然とはびこっている。真夏には糸瓜棚が出来て、その下で、実が長くなるのをよろこんでいられた。烏瓜もすきだったが、地味に合わぬとみえて目黒の山にはなく、私の処から数回球根を運んだが、遂に実がならずにしまった。
 それ等の庭の花や、又到来の花なぞ、すべて自分で活けられた。別に何流を習われたと云う事もきかなかったが、自然の風格があった。

     *

 生き物は概して好きでなかった。鳥も犬も飼われていなかった。尤も、旅行先の湯の宿で、たまさか縁側へ来た犬を愛撫されていたのは時折見た。それが、揃いも揃って田舎の駄犬であったのも先生らしい。
「飼うならキリギリスをお飼いなさい。あいつは江戸っ子でさあ。」
 半七老人がそう云っている。鈴虫も蛍もいた。ある人の書いた評伝の中に、「蟻を殺されなかった」とあるが、その事は私はききもらした。が総じて、こうした小さい、果敢いものは好きだった。
 その中では、蛙が一番好きだった。雨蛙でもよし、蟇でもよし、おそらく先生のペットの中で、これが一番だったと思う。麹町の元園町時代は、市街の中央だったが、それでもお城のお濠が近く、番町の大溝が近かったりした関係上、折々その庭に蛙が来た。目黒の新邸は、名に負う西郷山の山つづきなので、蟇がよく出た。と、もう「蟇だ。蟇だ。」で家内中大騒ぎだった。その蟇は毎年の様に出て来て、毎夕の様に沓ぬぎの下に来たそうであるが、しらず、今年の夏は? 無心の彼にも、歎きがあるであろう。
「何故蛙が好きだった?」
 本統に好きなものには、その理由があるわけではない。しかし、痩蛙に負けるなと云った一茶の様な、ねじけた心持でなかった事丈けは判然云える。澤田正二郎が、蛙をマークとした意味とも全く違う。

     *

 先生と玩具類と結びつけた話は有名である。それも、手のこんだ高価なものより、一刀彫とか、土焼とか、張子とか、そうした郷土玩具的なものが好きだった。震災前には客間が和室の八畳だったので、その違い棚に一杯にならんでいた。その後の新邸ずれも洋風の応接間なので、沢山並べられない。物置台の上に数個ずつ並んでいるにすぎなかったが、それが気に入った物ほど長く置かれてあった。私は密かにその日数で、その玩具がどの程度にお気に入ったかを占うバロメーターにしていた。去年の春は寅年なので、阿佐ケ谷通りの店で金二十銭也の張子の虎をもって行ったが、これは相当長く飾られてあって、面目をほどこした。

     *

 書画骨董の類については、概して無関心であられたと思う。勿論、諸方から持込みもあり、びむを得ざる隅部で買われた品もあり、相当の数があったし、御自分でも、季節季節の変り目にはこくめいに取りかえられてはいたが、「主婦の友」の附録の石版刷、婦人クラブ附録のかけ軸なぞも表装して掛けていられた。無頓着と云えば云われるが、一面、「何々画伯の絵」と云った風に、名声や、金額の多少について考える先に、「好きな品をかけておく」と云った処に、先生の気概があったと思う。

     *

 食道楽であった。
 尤も、これは、世間で云う様な、初物を食うために、何処そこへ旅行したとか、身を忍んで屋台店へ行ったとか云う風な食道楽ではなかった。無理をしないで、あるがままに楽しむと云う風だった。だから若い時はあったかも知れぬが「どこそこで闇汁をやった」とか「河豚を食った」とか云う様な話はきいた事がなかった。
 一番すきだったのは、鰻と寿司だった。元園町時代は近くもあるし、丹波屋が御贔屓だった。魚は、まぐろだとか鯛とか云う大きなものより、キスとかコチとか鱒とかの、近海ものの小魚がよかった。白魚なぞもよかった。
 肉類もすきであった。日露戦争以来と云う事であるが、牛の缶詰もすきだった。それからサンドウィッチも好まれた。病中には殊にそうだった。
 それに反して果実類は、そうすきでなかった。ただパインアップル丈けはよく好まれ、病気になられてからは、枇杷だの何だのの缶詰を召上られたが、平生は概して上らなかった。それに反して私は、法外の果物好きなので、宴会なぞで一緒になると、そっと私の方へ廻して下すったり、到来のメロンなぞ殆ど私が代って頂いて仕舞ったと云っていい。

     *

 煙草は朝日だった。相当に強い量だった。病気になられて、一時、一日十本と云う事になっていたが、とても気の毒なので間もなくその事は止めになった。最後近くには「もううまくなくなった」と云っていられたが、一日の朝、「煙草を」と云われるので差し上げたが、二口ほど吸われた。それが最後だった。勿論、棺にはいくつもの朝日が入れられた。

     *

 先生の旅ぎらいは有名である。ことに晩年はそうであった様である。半七老人は日光と箱根へ一度ずつ行ったきりと云う事になっている。それも御用と誰かの病気見舞かなにかで、よんどころない事になっている。
 先生は、記者時代には、相当に旅行されているし、日露戦役には従軍もされ、世界大戦後には欧洲旅行までされて、なかなかどうして旅嫌いどころではなく、普通人の何十倍もの旅をされたわけであり、銚子、磯部、成東、長瀞、国府津、箱根、湯河原、熱海、修善寺、等へ殆ど毎年の様に旅行されていた。ただ、いつの場合も、病後の静養か、仕事のためが多かったから、已むを得ざる旅であったとも云えない事はない。
 銚子、磯部なぞの外では、大抵な処にはいつも後から出かけて行って、御馳走になったり一緒に近所を歩いたりするのが、殆ど例になっていた。嫩会全員で押し出した事も再三ならずあった。堂ケ嶋の宿では、「佐々木高綱」が演ぜられた。
 そうした時、先生の宿で、先生の室へ最もよく出入したのは、宿の主人でなく、内儀でなく、客引の番頭や、湯番や、庭掃きの爺さん等であった。かつて長瀞の時には、この爺さんが、畑の唐もろこし等よくもぎって来ていた。先生はそれらの人々と隔意なく、世問話をするのがお好きだった。人間綺堂の面目が躍如としている。こんな時に、前に書いた野良犬なぞが可愛がられた。先生はその犬の事を話すのに「この人が−−この人が−−」等云われた。それがちっとも可笑しく響かなかった。

     *

 こうした旅の最後は、去年の夏の強羅の宿だった。いつもは大勢揃って出かけるのだが、今度は一夏中と云うので、自然たいくつだろうから、一人乃至二人で別れ別れで来る様にと云われていた。しかし、いずれにしても御迷惑になる事なので、一晩泊りの心組で、熱海から廻って登った。丁度小林(宗吉)君がお尋ねしたあとだったが、非常になつかしがられて、尚、もう一泊する様に切にすすめられた。その中に、東宝で撮る北條(秀司)君の映画の打合せで、岸井(良衛)君も来合せるし、丁度箱根権現で灯籠流しがあると云うので、北條君のすすめで、夜に入って先発した岸井兄弟のあとを追って、ただ二人で駿豆の専用道路を走らせた。
 その時の事は、先生御自分でも文藪春秋にも書かれていたが、夜が更けて、見物の殆どが帰って仕舞った宿の一室で、私と先生とは枕を並べて眠った。それが、そうした事の最後だった。今も判然と思い出す。そして、よくもよくも甘えて来たものだと思う。
 あくる朝、権現様へ参詣して、バスで強羅へ戻った。十二時に早昼をよばれて、豪雨の中を東京へ立った。入れ違って三橋(久夫)君が上ったが、その雨にはだいぶ困ったらしい。夏中の予定だったが、思えば憎い雨だった。

     *

 ほんの一時だったが、写真機をいじられた事がある。震災後の元園町時代に、激しい神経衰弱にかかられた時、丁度素人写真流行時代だったので、大村(嘉代子)さんが、病気見舞に「これでも持ってゆっくりして下さい」と、ベストコダックを進呈された。
 そこで、例の大使館前や清水谷公園や靖国神社なぞの、先生の朝夕の散歩区域の中で幾十枚かの写真が出来たはずであるが、どうなったか。その年の秋には、それをもって例の徽会の連中と青梅から、多摩上流を氷川村まで行かれた。そこでも二本ばかり写された筈だが、それも今は見あたらない様である。私が写したのがアルバムにたった一枚残っている丈けである。そして、その遠足きりで写真機はどっかへしまって仕舞われた様子である。
 綺堂と写真機、凡そ似つかわしからぬ風景の一つであるが、そう云う事もあった事丈け書いておきたい。そして、折角の大村さんの親切に報いるため、やがて一年あまりも持ちつづけられた奥床しさを今もなつかしく思う。

     *

 こうした遠足は、湯の旅の外に、必ず年に春秋二度位ずつあった。桜の国府台なぞには二度も行った。帝釈様へ参詣して、名物の大煎餅なぞ竹につけてかついで、ブラブラと歩いた。
「どう見てもみんな仕出しだな。」
 と笑われたりした。そこの草餅屋へ入って、そのまずさに、流石に閉口された事なぞも思い出の一つである。こうした日の帰りには浅草かどっかへよって、一同御馳走になるのが例だった。

     *

 こうした思い出を書くと限りがない。最後にお祭がすきだった事、火事が好きだったと云うと語弊があるが事を書いて筆を擱く事にしよう。
 湯治先から等の手紙で、
「何月何日はお祭だから、それまでに帰る。」
 と云った意味の手紙をよく貰った。そして、キッとその通り戻って来られた。と云って、氏子総代の中に交って神輿の渡御の供に立たれると云うわけではない。ただ、赤飯を焚いて、軒提灯を吊して、祭らしい一日を送るのが楽しみだった様である。元園町時代には、神輿界に祝儀を打って、宅の前で神輿を揉むのを興がられたと云う話もあった。如何にも江戸っ子らしい面目が溢れている。

     *

 火事は好きだったが、地震は大嫌いだった。凡そ嫌なものの随一であったろう。勿論、好きな人間もなかろうが、我々では殆ど感じない様な微震でも、すぐに感じて庭へ駈け出された。その人が、あの大震災のたえ間ない余震の中で、避難の二日目から日記を記し、やがて復興する時のために手にふれる限りの本から叮寧にノートされていた事は、何と云っていいか、頭の下る限りである。

     *

 地震についでは、風の日がいけなかった様だ。早稲田の遺品展覧会を見た人は、その遺愛品の中に、あまりに沢山の文鎮があったのを妙に思ったであろう。風ぎらいな先生は、あれで、本であれ、原稿であれ、片っぱしから、押えつけて置かれたのだった。一時華やかなりし左翼連中が、しきりに弾圧され出した時、
「君、あれと同じだね。」
 と、笑われた。
 反対に雨の日は静かでいいと云われた。
 今夜も春の細い雨が降っている。噫!
                                                    (三月三十一日夜)



底本:『舞臺』第一〇卷第五號 岡本綺堂追悼號 昭和14年5月1日發行
公開:2004年1月1日
入力:和井府 清十郎

※新漢字新仮名づかいに改めた。

なお、「舞台」は岡本綺堂主宰で、その弟子たちの集まりである嫩(わかば)会を中心とした雑誌で、1930年から刊行、市販された。また、掲載の作品のいくつかは舞台化もされた。この追悼号をもって終刊した。

額田六福(ぬかだ ろっぷく、1890−1948)氏は、岡山生まれの、早稲田大学出身で、はやくからの綺堂門下の劇作家。「天一坊」白野弁十郎などの作品がある。編集人でもあった。翻訳家の額田やえ子氏はその娘。

岡田禎子

御縁のはじめ

             岡田 禎子

 私が先生のところへ伺つた初めは、大正十二年の一學期−−多分、五月であつた。震災の年の震災前である。元園町のお宅であつた。
 女子大學で流行の劇研究會をはじめ、發會式のお祝ひに講演會を持つことになり、講師の一人に、先生をお願ひすることになり、先生係が私といふことになつたのである。その後、私が先生から頂いた御恩の大きさを思ふと、餘りに偶然で出鱈目な始まりだけれども、世の中にはこんなことも多いやうである。
 とはいへ、私にとつては大變幸先のいゝ偶然であつた。この時の係で、成功したのは私だけだつたのだ。例へば小山内薫係なぞは見事失敗して、何度も足を運びながら−−つひには私が加勢に出たが−−到頭小山内氏に講師として、御出張を願ふことが出來なかつた。先生は、一度伺つたきりで御快諾下すつたので、私は、大層うれしかつた。
 いつたいが、女子大學なぞといふものは田舍者揃ひで、その上學校といふところが一種の田舍なのだから、今思ふと、先生なぞには、肌に合はないことばかりだつたらうと思はれて冷汗が出る。第一、この綺堂係は、一度お願ひに上つて、何日の何時から始めますと申上げておいたまゝ二度と伺はず、お手紙も差上げず、當日お車も差上げなかつた。そんな事が必要だとは全く思はなかつたのだから少しひどい。
 當日は又、皆幾分のぼせてゐるし、變に手は足りないし、校門までお出迎へする位の智慧はあつたのだけれども、その運びにならないうちに、もう先生は來ておしまひになつた。
「岡田さん、岡田さん、なにかお爺さんの人がお出でになつて、あなたを探してらつしつてよ。」
と上級生が云ふので玄關へ出て見ると、先生であつた。私はこの時のこの上級生の臺詞を變に忘れることが出來ない。むろん先生と知つて云つたことではないだらうけれどむ、當日講演會があり、講師にはどんな方が見えるといふことは、學校中に知らせてあつたのだから、皆の頭がゲーテやトルストイで一杯にさへなつてゐなかつたら「岡田を探すお爺さん」が、綺堂先生かも知れない位の見當はついた筈なのである。その見當さへついたらば、こんなアナウンスの仕方はない筈である。
「講師の方ではないかしら、あなたを探してらつしつてよ。」位のことは云つていゝのである。
 こんなことをこんなに力んで話すのは、この小さな挿話は、當時の女子大學生−−むろん、私もその一人である。−−なぞの頭に、岡本綺堂といふ名前がいかなるものであつたかをよく現はしてゐると思ふし、そしてやがてそのことは、傳統のないといはれる我國文化の特殊性といふやうなものを具象してゐると思ふのだが、その後、凡ゆる機會に考へさせられたこの問題に、私が初めて氣がついた挿話だからである。むろん私はこのことを、女子大學の責任だなぞとは思はない。只、我國の不幸なのである。
 それにしても、どうしてあの時の會に、先生を講師にお願ひすることになつたかは今思つても不思議である。會員の大部分は先生の文章を一行も讀んだことはなく、先生の舞臺も一度も見てはゐなかつた。その會のリーダーが秋田雨雀氏であり、講師の人選も秋田氏がなすつたのだから、これは秋田氏の見識だつたのだらうと思ふ。田舍の女學校を一緒にすまし、私は東京、彼女は日本と、別々の女子大學へ分れて入つた友達が、この講演會を聞きにきて、
「秋田氏を講壇に立たせるなんて、流石、角筈は新しいな。」
「目白ぢや駄目なの?」
「駄目よ。だつて、秋田氏は無政府主義でせう。」
 かういふ問答をしたのを思ひ出す。そんな時代だつたのだが、やはり秋田氏の見識だつたのだらう。
 とまれ應接室へ御案内すると、
「流石、女の學校で、方々きれいですね。」と仰有つた。
私はどきんとした。當時、私達の女子大學は、所謂角筈時代といはれる草創期で、校舍は古い建物を借り住居であつた。私達にすれば、私達なりの愛情があつたけれども、他所のお客樣に縞麗だなぞと見て頂ける何もないやうに私には思へた。
 今、女流俳人として、高名な星野立子氏が、まだ袴をはいた可愛らしい高濱立子の姿で、お茶を持つて來てくれた。それは實際可愛らしかつた。すると、先生が又仰有つた。
「いや、全くよく行届くことで……。」
 私は全くひやひやした。どこかそこらの窓枠に埃でもたかつてはゐないか、これから御案内する講堂までの廊下で、すれ違ふ學生達が、先生にお辭儀をなしないといふやうなことはないか、紙屑が落ちてゐたりしはしないか、急に神經質になつて、わく/\と、そんなことを心配し始めたのを思ひ出す。
 こんなことばかり憶えてゐて、肝心の講演會で先生が、何をお話し下すつたのか少しも思ひ出せないのは、多分用ばかりさせられてゐて聽かれなかつたのだと思ふ。何時でも、自分で會をしては駄目である。
 とまれ講演會は無事に終つた。お禮を持つて伺つたのもむろん私であつた。先生はびつくりなすつて、
「そんな、人場料をとつた會といふのでもないだらうし、失禮だけれども學生の身分で、あなた方も大變でせう。」
 内容が内容だから無理にお納め願つたのだけれども、實はこの會は三十錢の入場料をとつたのである。先生方には一圓位寄附して頂いたやうに思ふ。このことを申し上げやうかと思つたけれども、未だに私はさうだが、その頃は一層、先生の前なぞで氣輕に話しなぞ出來なかつた。もぢ/\して默つてゐたのだと思ふ。
 劇研究會では、何をするともたなしに一學期を終り、二學期になればもう震災のあとであつた。大切なメムバーに壓死したりしたのがあつて、私達の頭も變つてしまひ、會は自然に無くなつたのだが、私は一人で對話を書き始め、誰かに見て貰ひたいと思ふけれども、、知る人とてもなく、少し仰山すぎるとは思ひながら、結局綺堂先生のお宅へ持つて行つたのである。麻布であつた。そのアドレスは新聞で見たと思ふ。
 そして、今日に至つた。滿十六年になる。この間のことを考へると、私はまるで、寶の山に居りながら、ふところ手でぶら/\してゐたやうな氣持がする。先生から教へて頂いておくべき澤山のことを、少しも教はらないですんでしまつたのである。どうして、こんなになつたかといへば、私には變な氣がね性があり、人の時間をとることが極度に怖しい。今に先生が御老人になられ、のんびり御隱居なすつたら、毎日伺つて、ほんとのお弟子にして頂かうと思つてゐた。かう思つてゐるうちに、先生は御病氣勝ちになられ、而も相變わらずお書きになる。氣がひけて、どうしても伺へなかつた。
 そして、つひに亡くなつてしまはれたのである。     (三月廿四日記)

底本:『舞臺』第一〇卷第五號 岡本綺堂追悼號 昭和14年5月1日發行
114−116頁。
公開:2003年10月27日−11月9日
入力:和井府 清十郎


北林余志子 (旧姓・鈴木)

劇作家

師事十二年

             北林 余志子

 私が初めて大人の讀物を讀んだのは、婦人公論に連載された、先生の小説「玉藻の前」だつた。
 まだその頃は、ほんの子供だつたので、大人の雜誌など讀むのをゆるされてはゐなかつたのだが、怪奇的な「九尾の狐」の物語なので、何うしても讀みたくてたまらず、姉達の眼を盜んでは、毎月樂しんでゐたものだつた。
 また恰度その頃、うちへ遊びにきた姉の友人等が、芝居の話の出た時など、
「岡本綺堂さんの芝居は實に面白い。」
と、みんなが話合つてゐるのを側で聞いてゐた私は、「玉藻の前」の作者の芝居なら、どんなに面白い事だらうと、一度見たくて、胸をワク/\させてゐたのだが、
「子供には大人の芝居なんか見せません。」
と云ふ絶對的な母や姉の意見に、何うすることも出來ず、仕方なしに、お小遣ひの中から、そつと、先生の戯曲集を買つて來て、解らないながら讀みふけつたものだつた。
 だから、「岡本綺堂先生」の御名は、「巖谷小波先生」の次に、私の頭の中に深く刻まれたお各前で、たとひ、私が先生の弟子にならなくとも、一生忘れる事の出來ないお名前だつたに違ひない。
 しかし、私が戯曲作家にならうとは、先生のお宅の御門をくゞるまで、いや、先生から入門のおゆるしを頂くまで、半信半疑な氣持でゐたのだから、今から考へると、可笑しやうな話である。
 實の所、本當に芝居を見始めたのは、震災直後からで、たゞ面白がつて見てゐる中に、見やう見眞似で脚本のやうな物を書いて獨りで喜んでゐたのを、私の友達が、
「芝居を書くなら、ちやんとした先生について學んだら何うだ。」
と勸められ、次いで、先生のお宅へ寺入りの子のやうに連れて行かれる運びになつたのである。
それが昭和三年の六月。
「あなた方のやうな若い方は、私の樣な老人でなく、若い先生について勉強なさい。」と、先生からお斷りされたのだが、初めてお目にかゝつた先生のお顏を、じつと見てゐると、なんだか「玉藻の前」が私をこゝまで導いて來てくれたものを、このまゝすご/\歸られようか、と云ふやうな大膽な氣持になつて夢中で、
「先生をお慕ひして來たんですから、無理にでもお願ひします。」
と頑張つて、到頭おゆるしを得たのだが、先生もさぞ氣の強い女だとお思ひになつたらうと、今思ふと、冷汗が出て來る。
 そんな譯で、碌に脚本の書き方も知らない時から、云はゞ「よひはまち」から先生に手を取つて教へて頂いたので、先生の御煩しさは、どんなであつたかとお察しする次第である。
 入門して三ヶ月目に、二度目の脚本をお目にかけた時、先生から初めてお手紙を頂いたのだつた。
    ◇ [以下、一コマ落ち]
原稿一讀、別封で返送いたしました。
この作の方が前回の「女房を呑む話」よりは好いと思ひます。
唯、第二幕が少しゴタ/″\し過きるやうです。さうしてわざ/\川岸の場などを見せないで、何とか、一幕で纒める方が好ささうです。女房や子供が留るのも肯かずに、泥坊に飛び出してゆくといふのは、餘りお芝居過ぎるやうですから、健三郎は何とかごまかして、體好く出て行く。そのあとへ傳次が歸つて來て少し不審に思ふ。(中略)
先づこんな事にしたら、どうかと思ひます。あなたの作のやうでは餘りに芝居氣が多過ぎるやうです。[一コマ落ち、了]
    ◇
それは、原稿紙一枚に、細々と書かれたお手紙で、後年書き直して發表した「祭の日」の原作の御批評である。
 三度目の作品に就いて、次のやうなお手紙を頂いた。
    ◇ [以下、一コマ落ち]
竿竹拜借−−別封で御返送いたします。
小ジンマリと纒まつてゐると思ひます。これはこれで宜しいが、あなたの書く物はどれも、みな、スケッチ風の物で、かう云ふ風に進んでゆくと所詮は手先の小器用な作家になつて仕舞ひさうです。一幕物でも宜しいから、もう少し重い、ドツシリした物を書くやうに工夫しなければなりますまい。烏渡した思ひ附きで、小器用に書くといふ習慣は避ける方がよいと思ひます。かういふ作品も決して惡くはないのですが、所詮は、刺身のツマのやうな物で、劇場の興行師もこれで勝負をしようといふ氣にはなれますまい。 とき/″\にはよろしいが、いつもくかう云ふ物を書くのは考へ物でせう。現代物にしても、もう少し、シツカリしたものを書くことを練習して、それから、輕いものを書くやうにした方がよいと思ひます。[一コマ落ち、了]
    ◇
 かう云ふ有難いお手紙を頂きながら、それから以後も、まだ小器用な小品物から拔け切れず、愚にもつかない喜劇めいたものばかり書いてゐたが、昭和八年の五月に、到頭、先生から大叱言を頂いてしまつた。
    ◇ [以下、一コマ落ち]
初夏の微笑−−別封を以て返送いたしました。こんな他愛のない物にペンやインキを費すのは止めたら好いでせう。
新聞記者生活にこれと類似の事あるは、私も知つてゐます。而も、それに對して何等の批判も無しに、漫然とナンセンス扱ひにするのはいけません。
近來流行のナンセンス物には小生反對です。如何にそれがナンセンスのやうに見えても、それを一貫した作者の主張とかテーマとかいふものがなければなりません。
朗らかといふ美名の下に、他愛もないナンセンスを書くのは斷然止めて下さい。こんなことに努力してゐるのは決して一代の大家たるべき道ではありません。
クレヴアマン、イズ、シリアス−−クレヴア、ライターもシリアスが第一の條件です。他愛もないナンセンスなどにうき身をやつしてゐてはいけません。[一コマ落ち、了]
    ◇
このお手紙を頂いて、私は初めてドキンとして、慌て、先生の許へお詫びに上ると、
「うん。まア、また初めからやり直すのだね。」
と、輕く笑つておゆるし下さつたので、やつとホツとしたのだが、先年、前進座で「牛を喰ふ」が上演された時、自分の作と云ふものを初めてこの眼で見て、先生の仰有る通り、「刺身のツマ」でしかなかつた事を、しみ/″\悟つたのであつた。
 先生に師事して十二年、先生の御生活を見、先生のお言葉を親しく聞き、先生の御作品を拜見させて頂いてゐたのに、私の眼はなにを見、私の耳はなにを聞いてゐたかと、自分でも情なくなる程、自分の感受性のにぶいのに腹が立つて來る。
 お叱言を云つて下さる先生は、もうこの世にはおいでにならないのだ。もう甘つたれた氣持ちでゐる事は出來ないのだと思ふと、なんとも云へない淋しさがこみ上げて來るけれど、これからは本當にシリアスになれるやうな氣持ちがしてゐる。これからが私の新しい出發だと思ふ。

底本:『舞臺』第一〇卷第五號 岡本綺堂追悼號 昭和14年5月1日發行
116−119頁。
公開:2003年10月27日−11月9日
入力:和井府 清十郎



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