綺堂は、鰻が好物だった。 作品中にもよく出てくる「うなぎ」であるが、たとえば大きな鰻が出てくる「魚妖」や、生うなぎ食癖のある、失踪した夫を千住の鰻屋で見かけたという「鰻に呪はれた男」、「置いてけ堀」(『三浦老人昔話』)などにテーマとしたものがある。 綺堂の養子の青蛙房主人の岡本経一氏によると、「週刊朝日」の編集者であった土師清二氏は「魚妖」の原稿をもらって読んだら、しばらく鰻を食えたものではなかったというエピソードなどもあるらしい(―種村季弘「江戸殺し始末」同編日本幻想文学集成23「岡本綺堂 猿の眼」(1993、国書刊行会)246頁の紹介による)。 綺堂は、東京日日新聞の若き記者だった頃、新富町の「竹葉(ちくよう)」へたびたび出かけた。
―岡本綺堂「ランプの下にて 明治劇談」岩波文庫171頁 「やつこ」は現在ものれんを出している。雷門通りを国際通りに突き当たる、すぐ右手にあるそうだ。今井金吾・「半七捕物帳」江戸めぐり―半七は実在した133頁(1999・ちくま文庫). 山本笑月(1873−1936)は、深川生まれで、浅草花屋敷の創設者の山本金蔵の長男。弟に長谷川如是閑、大野静方がいる。やまと新聞を経て、東京朝日新聞に勤務。綺堂とほぼ同世代のジャーナリストで、やまと新聞にも居たことがあるから互いに知っていたかもしれない。笑月は、川上音二郎や朝日新聞の文芸部長も勤めた関係で夏目漱石のことも書いている。 彼の『明治世相百話』(中公文庫、1983年刊)にも、江戸の鰻や鰻屋の「竹葉」の話しが出てくる。 鰻屋は、たいてい紺の暖簾に「蒲焼」の行燈、竹格子の板場、奥の小座敷、ぷんと鼻を打つ好い匂い、とある。鰻の焼けるまで香の物で一杯、気長に待つ。鰻は、小串、中串、中アラがあった。現在では鰻丼は一般的だが、「遠国の場違いが幅を利かせてウナ丼が流行」していると書いている。 ただ、彼は、江戸前の鰻が少なくなったと歎いている。もうこの当時、大半は養魚場育ちや遠国仕入れだった。このため、江戸前の香味はうせて、泥臭いといっている。 鰻の方は、近県からの輸入物が千住へ送られたらしい。最初に挙げた作品のうち、綺堂が「鰻に呪はれた男」で舞台(の一つ)としたのがなぜ千住であったか分かりますね。 明治中期までは、大川に生簀があったが、水質の悪化があり、30年頃から水道水を利用した水船囲にしていたものの、後には宅の前で水道で囲っているという有様であった。 |