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劇作家への道


 綺堂が、劇作家への道を選んでゆくその背景をすこし探って見よう。最初は、当時の時代背景、家庭環境、出会いから。また、劇作家との二足のわらじをはいて、なぜ探偵物作品、怪奇・ミステリー作品をも書くようになったか、を考えてみる。

◆少年時代・麹町区元園町

 綺堂少年は、幼少の頃、父親の仕事の関係で、麹町区飯田町と元園町に住んでいた。
    「麹町の大通りから3番町の大通りに通じる表通りは、さすがに人家も続いていたが、往来から少しく引っ込んだわたしの家の周囲は一面の草原で、兎が出る、蛇が出る、狐も鳴くというような荒涼たる光景であった。」  ―岡本綺堂『ランプの下』(岩波文庫版18頁)

    「私の姉は長唄の稽古以外に、山元町の藤間大奴という師匠のところへ踊りの稽古に通っていた。私は母に連れられてその月の浚いをたびたび見に行った。」
  ―同19頁

闇と伝承

 綺堂の作品を読んでいて感じるのは、闇が好く描かれていることである。そして、その反対に昼間や蝋燭や月の明りがあざやかにときにはぼんやりと感じられることである。闇と明りが、まさしく陰影として作品に居ながらにして存在し、厚味を与えているといえよう。『影を踏まれた女』「近代異妖編」や、「十五夜御用心」『半七捕物帳』での月夜で女を後ろから付けてつけていく男の動きなどは印象的な部分である。

時代にはまだ闇があった。夏目漱石の「三四郎」は明治30年代半ば頃が舞台だが、東京帝大の近くの下宿には、まだ電燈は灯っておらず、三四郎はランプで生活している。

金さんにすすめられて芝居の正本をはじめて読んだ

 友だちの金さんに本を借りて読む。
    「その明くる年(明治十三年)の六月、「霜夜鐘十字辻筮(しもよのかねじゆうじのつじうら)」が新富座の二番目狂言として上演された。これは二代目河竹新七(後の黙阿弥(もくあみ))が巡査の保護、士族の乳貰(ちちもらい)、按摩(あんま)の白波(しらなみ)、天狗の生酔、娼妓の貞節、楠公の奇計という六題を五幕の世話狂言に脚色したもので、正本は――その頃は脚本とはいわない、無論に戯曲などとはいわない、すべて正本と唱えられていたのである――『歌舞伎新報』に連載されたのであるが、評判が好かったので更に日本紙綴りの一冊にまとめて出版された。わたしはそれを湯屋の番台にいる金さんから借りて読んだ。金さんは旗本の息子で、わたしが毎日ゆく麹町四丁目の久保田という湯屋の厄介(やつかい)になっていて、その番台に坐っていたのである。この時代にはこういうたぐいの人が多かった。
     金さんは人品の好(い)い、おとなしやかな人で、素姓が素姓だけに、番台にいる間はいつも何かの本を読んでいた。わたしも自分の家から古い草双紙(くさぞうし)などを持って行って貸してやるので、金さんの方でも他から借りた本を貸してくれる。わたしはそのお蔭で、しの草双紙などを大分読みおぼえた。かの「霜夜鐘」の正本も金さんが又貸しをしてくれたもので、わたしはこの時に初めて芝居の正本というものを読んだのであった。…略…」
                      岡本綺堂『ランプの下』「似顔絵と双六」45頁より

和洋の怪談に親しむ

 綺堂自身は、幼少の頃の自分の傾向をつぎのように述懐している。
    「少年時代のわたしは一方にかなりの暴れ者であると同時に、また一方には頗(すこぶ)る陰鬱な質(たち)で、子供のくせに薄暗いところに隠れて、なにか本でも読んでいる風であったから、金さんから借りた草双紙のなかでも怪談物を好んで読んだ。外国から帰った三番目の叔父をせがんで、西洋のお化けの話や、お化けの芝居の話を聞かせてもらうと、叔父はいつでも国王がお化けと問答をする話と、国王の息子が父の幽霊に出逢う話とを繰返して聞かせてくれた。後に思うと、前者はエインス・ウォルスの小説「ウィンゾル・キャストル」で、後者は例の「ハムレット」であったらしい。そんなわけで、わたしの幼椎な頭は芝居と怪談とで埋められてしまった。明治十七年の十月、市村座で五代目菊五郎が「四谷怪談」を上演した時、わたしはお化けの芝居というものを見たいがために、一緒に連れて行ってくれと母にせがんだが、子供の観る芝居ではないといって、やはり留守番をさせられた。」
     ―岡本綺堂『ランプの下』「似顔絵と双六」45頁より
 ちなみに、この叔父さんというのは、綺堂の父と同じく英国公使館勤務の武田悌吾らしいです。―岡本経一「綺堂先生は怖い人でした」『鳩よ!』192号57頁(2000.4)

父の影響
 父は、新富座の座主、守田勘弥と懇意であり、求古会員の一人でもあった。綺堂の父親は、旧幕臣・御家人であったが、英国公使館の日本語書記を務めていた。文芸の素養が深く、演劇や歌舞伎にも造詣が深かったし、また、役者などの知合いもあったようだ。
 綺堂が8歳当時、父に連れられて、団十郎の楽屋へ行った。団十郎は父にむかって「芝居の改良はこれからです。」というようなことを言い、更にわたしにむかって「あなたも早く大きくなって、よい芝居を書いてください。」と笑いながら言った。団十郎からカステラをもらってもいる。 ―同34頁




◆時代の背景

演劇改良の運動

 新しい時代に対応するという形で、これまでの歌舞伎のあり方や演劇一般が見直されるという機運が生じていたのであろうか。 綺堂少年は、歌舞伎に動きが少ないという不満を語っている。また、市川団十郎はすでに河竹黙阿弥の狂言に不満を抱いており、福地桜痴の作品に好意を示している。

新政府と旧幕

 綺堂が16歳の頃につぎの逸話が出てくる。

    「しかも父はその当時の多数の親たちが考えていたように、わが子を”官員さん“にする気はなかった。時はあたかも藩閥政治の全盛時代で、いわゆる賊軍の名を負って滅亡した佐幕派の子弟は、たとい官途をこころざしても容易に立身の見こみがなさそうである。」
    同110−111頁

父も了解してくれたが、どうやって戯曲や戯作を書くかは誰も知らなかったのである。
    「……父はわたしに何の職業をあたへると云ふ定見もなく、わたしも唯ぼんやりと生長してゆく間に、恰も演劇改良などが叫ぱれる時代が到來したので、わたしも狂言作者になつてみようかと父に相談すると、それも好からうと父はすぐに承認してくれた。扨さう決心すると最も悩んだのは、芝居の正本といふものを容易に見られないことであつた。今日と違つて脚本などといふものは滅多に出版されてゐない。下町の貸本屋のうちには、昔の正本の写本を貸す店が稀にはあると聞いてゐるが、山の手の貸本屋などには見当らない。唯一の歌舞伎新報に掲載されるものは大抵筋書であるから芝居といふものを本当に書く、その書き方を知るのに甚だ困つた、父に訊いても無論わからない。わたレの周囲には、そんなことを知つてゐる者は一人もなかつた。」
    ―岡本綺堂『明治の演劇』(1942年3月刊)



◆出会い

 ・明治22年11月、歌舞伎座が開場。
 父とともに、歌舞伎座で、団十郎の紹介で、福地桜痴と会う。桜痴はつぎのように聞く…
    「君は芝居をかくつもりだというじゃないか。そうですか。」
    「はい」

     ―綺堂『ランプの下』136頁

 ・明治23年1月
東京日日新聞社の社長である関直彦と会う。父の知り合いでもあり、福地桜痴のあとを受けた日日新聞の経営者である。同時に、演劇改良会の幹事か評議員でもある。綺堂が、劇作家になることに非常に賛成してくれた。
 ―同149頁「昔の新聞劇評家」



◆新聞記者時代
 父の知合いで、東京日日新聞社の社長であった、関直彦に頼んで、就職することになった。1890(明治23)年1月から、東京日日新聞社(銀座尾張町)に勤務することになる。時に、綺堂が、17歳の折である。2月3日の月曜日の午後に出勤したら、千歳座(のちの明治座)の招待日だったので、見物に出かけることになった。茶屋が武蔵屋で、西の桟敷へ案内してくれた。15ー6人くらいの記者がそこで見物していた。新聞記者が招待されるのは初日三―四日目であったという。
 これを元に芝居の劇評を書くことになる。
同社では先輩の塚原渋園が劇評を担当していたらしいが、この後では綺堂が担当することになる。
新聞記者仲間では、最年少ということになるが、やまと新聞社の条野採菊老人(鏑木清方の父)が綺堂を可愛がってくれたらしい。綺堂は、

「兎もかくも芝居のことに就いて江戸のことに就いて、わたしは採菊老人から教へられることの多かったことをいまでも感謝してゐる」

と書いている。 ―岡本綺堂『明治の演劇』113頁(大東出版、1942)

 劇作家になりたかったので、新聞記者になったのは一挙両得といった心境であったらしい。また、芝居、江戸のこと、劇評のしかたや文章の書き方など、のちの綺堂が形成される元がこの辺りにもあったといえよう。新聞記者時代は、この後24年間続くことになる。



◆探偵物や怪奇物を書き始めたのはなぜか

江戸の語り部として
 綺堂は、1913年にやまと新聞社を退社して、これまで24年間の記者生活に終止符を打った。当時41歳の綺堂であるが、これと相前後して、1914年(大正3年)から、『日本新聞』に「二三雄」の連載など、この頃から新聞に連載の長編小説が多く、雑誌には翻訳や創作の探偵物やスリラー物を多く書くことになる。

 1917年には、探偵・捕物の代表作として今日にも名高い『半七捕物帳』を書き始めていた。とくに、関東大震災の直後である、1924(大正13)年には、綺堂の成熟期の作品として『三浦老人昔話』、翌大正14年には『青蛙堂鬼談』を関西に基盤を置く雑誌「苦楽」に書きつづけた。このいきさつについては、本ページの「三浦老人昔話を読む」を参照下さい。
 綺堂は、むろん演劇・歌舞伎の作品をこれ以降もコンスタントに書きつづけるわけだが、小説へ著作の範囲を広げて行ったものは何か?

 おそらく、記者生活を止めたことによる時間的余裕、むしろ、それを作り出すためであったろう著作への意欲、新聞社退職後の収入の確保、演劇から新聞・雑誌への発表への機会などがあったものと見られる。



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