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半自伝ともいえる、岡本綺堂『明治劇談 ランプの下にて』(岩波文庫)の記述をもとに、少年綺堂が見た芝居を取り上げてみた。扱う時期は、ちょうど市川団十郎が第一期活歴劇を行なう明治10年代半ばあたりから、明治22年の歌舞伎座開場頃までである。近代歌舞伎への模索中ではあったが、明治歌舞伎の黄金時代といってよい。
○明治8年2月 綺堂満2歳4ヶ月 住所・飯田町二合半坂 岡本綺堂『明治劇談 ランプの下にて』17頁(以下、頁は同書)
守田座(のちの、新富座) 1月28日より
黙阿弥作 「扇音々大岡政談(おうぎひょうしおおおかせいだん)」
「梅鎌田大力巷説」
満2歳のときの記憶があるわけではないので、後に両親に聞いて覚えたかしたものだろうと思われる。
明治5年10月、守田座は、猿若町から新富町(いわゆる島原)へ移転して、守田座として開場した。この明治8年の1ー2月あたりに、負債のために新富座と名を改めた(田村成義編続々歌舞伎年代記169頁(大正11年11月、市村座刊))。いわゆる新富座時代のはじまりである。
舞台上の欄間には、福地桜痴源一郎の揮毫にかかる「天地間一大劇場」、右前舟の欄干には、団十郎筆になる牡丹の額が懸けられていた。(鏑木清方・明治の東京190頁)
○明治12年3月9日 早朝 元園町 25頁 6歳
新富座 西桟敷 2月28日より
「赤松満祐梅白旗」 「勧進帳」 「人間万事金世中」 「魁花春色音黄鳥」
人気があったようで、この興行60日打ちつづけ、とある。
綺堂少年、団十郎と、楽屋で会う
「人間万事金世中」は、リットンの「マネー」を福地桜痴が紹介し、黙阿弥が翻案したものと言われている。
左図は、豊川豊斎、恵府林(中村芝翫)、おくら(市川女寅)。場所は横浜、遠くに帆船と洋館も見える。
主な登場人物は、
恵府林太郎 エヴリン
おくら クララ
逸見勢左衛門(廻船問屋) ベシイ卿
おらん(逸見の妻)
おしな(逸見・おらんの娘) ジョージナ
毛織五郎右衛門(代言人・弁護士) ヘンリ・クレーブス
あらすじ
場所は、横浜。逸見は甥の恵府林と姪のおくらの二人を引き取って養っているが、下男下女同様にこき使っている。逸見には娘のおしながいる。恵府林は自分の乳母が病気なのでその見舞いにと借金をおしなに申し出るが、おしなは誠意がなさそうである。かわりに恵府林に好意を寄せるおくらがこの金をだまって用立てて、乳母に送ってやる。
長崎の門戸(モードント)が遺言を残して病死する。その代言人(弁護士のこと)である毛織が蒸気船でやってきて、門戸の親類である恵府林に遺産の大半が譲られる旨の遺言を伝える。2万円の遺産を受け取った恵府林は、一文もないおくらに遺産を分けてやる。遺言にはおしなかおくらのどちらかと結婚することが条件となっている。
* * *
おしな「いえ持参金さへたんとあれば、男振りには構いませぬ。」
おしな「どんな醜い男でもお金のうんとあるのが好き、わたしやお金にや惚れるけれど、男に惚れはしませぬわいな。」
藤七「世界は開化に進むほど人が薄情になるといふが、……」
* * *
林之「忠臣蔵の浄瑠璃に、国が乱れて忠臣が知れると書いてありますが、」
林之「まことに人の親切は落目にならねば知れぬもの」
* * *
など、印象的な言葉や台詞が嵌め込まれている。
逸見は、遺産が転がり込んできた恵府林と娘のおしなとを結婚させようとし、現金なおしなも強引に恵府林に迫るが、断わられる。恵府林は、お金をめぐる人間関係に嫌気がさし、賭博師の壽無田(ダドリー・スムース)と謀って、譲られた遺産を全額失ったように(父親の借金の返済に充てたということで)一芝居打った。
そこで、恵府林は、打ち明けて、おしなに百円の借金を頼むが、にべもなく断られる。しかし、おくらが一万円を用立ててやる。金を失った恵府林を、逸見は、親戚でもないとして冷たく追い出す。しかる後、恵府林とおくらはめでたく結婚する。
この明治12年7月16日、府会議長・福地源一郎らの発起によって、来日中の前合衆国大統領グランド将軍を新富座へ招待した。
○明治13年6月15日より 42頁 7歳
新富座
「星月夜見聞実記」
黙阿弥作「霜夜鐘十字辻筮(しもよのかねじゅうじのつじうら)」(2番目狂言)(黙阿弥全集15巻所収)
「二十日月中宵闇」
2番目狂言「霜夜鐘」についての、父母の評判は、まあまあというところだったようだ。オンリー・イェスタディのような旧幕臣や士族の没落話なので、身につまされたというか、知り合いを思い出して、自分の身や家庭を顧みたことだろうと思う。話は霜月だが、興行は夏なので、だいぶ暑かったらしい。
初演時の主な配役は、市川団十郎(演説師楠石斎)、尾上菊五郎(査官杉田薫)、市川左団次(天狗小僧讃岐金助)、中村宗十郎(士族六浦正三郎)、岩井半四郎(石斎妻おむら)ら。
没落した士族の六浦正三郎は、かつて3・4回ほど通った小紫(現在、お村という)に出会い、わが身を語る―
「正三 志(こころざ)しの此(この)金子(きんす)、忘れはおかぬ忝(かたじけな)い。(ト金包みを戴き、懐中へ入れ、)今は何をか包み隠さん、瓦解(ぐわかい)此方貯(たくは)への金子を遣ひ果たせし故(ゆえ)、余儀なく家禄奉還なし、官より賜はる資本金にて一度商法開きしかど、馴れぬ手業に損のみ多く、それを気病(きやみ)に母親が長病煩らひ死去致し、間もなく又も我大病、それ故二ヶ年座食なし生活の道失ひし、折柄妻が不慮の最期、物入(ものいり)多き其中へ盗難に遭ひ衣類を失ひ、負債の爲に家屋を払ひ、今は行方も定めぬ身に足手纏(まとひ)の此小兒、何れへなりとも遣はさんと思へど添へる金子もなく、止むを得ずして貰ひ乳(ぢ)なし困苦(こんく)致して居つたるが、……。」(黙阿弥全集15巻 477頁)
妻は不慮の最期となっているが、密通を夫正三郎に咎められ、乳飲み子を残して、自害した。
乳飲み子連れの男所帯もまたつらい……。彼によると
「正三 昼は浮世の雑事に紛れ、何も心に浮まねど、夜は乳呑(ちのみ)に泣立てられ、四辺(あたり)の人の氣を兼ねて、誑(だま)し賺(すか)してやう/\に、子は寝入れども透間(すきま)洩る小夜風寒く我は寝られず、露命を繋ぐ貯へも薄き蒲團に終夜(よもすがら)、目前(めさき)に昔のことが見え、斯迄(かくまで)愚痴になるものかと、我と我身に異見(いけん)なし、枕に就けば夜も白み人の寝倦(あ)きる冬の夜の、長きも僅一時間、樂に寝られぬはかなさを、推量なして下されい。 (ト正三郎愁ひの思入、此内お豊お竹ぢつと是を聞いて居て、)
お竹 ハアゝ。(ト泣伏す。)」(黙阿弥全集15巻542頁)
お豊お竹もまた、貧しい義太夫弾きの母子。
七五調の台詞といい、哀れを誘いますね。これが実にオンリー・イエスタディなのですから。
肝心の、士族の貰い乳(乳貰い)のシーンは……。昔馴染みの、元太夫の、お村は、我が子を亡くしたばかり。お静はその家人。
正三 「妻は先月死去致し、乳呑を跡へ残されて難儀致す処、……」
お村 「それはあなたのお手一つで、さぞお困りなされませう。」
お静 「大そうお泣きなされますな。」
正三 「先刻出掛に隣家にて、貰ひ乳なせしのみなれば、ひもじうなつたと見えます。」
お静 「もし、ご新造様、あなたのお乳をあのお子さんに、お上げ申してはどうでござります。」
お村 「人見知りさへなされませずば、一杯お上げ申しませう。」
……
お静 「まだ上がり物は上がりますまいし、お乳が無くてはそのお子さんに、さぞお困りなさいませう。」
(―同474−475頁)
図は、守川周重筆
郵便報知新聞の劇評子によると、この芝居、あまり芳しくはなかったようだ。この作は、前評判が高かったとしているが、俳優の演技にも見るべきものは少なかったといっている。また、楠石斎が楠正成公の格好で登場するのが唐突過ぎるとしている。脚本を読んでいても、突然南北朝時代では混乱するだろうと思ったことだった。また、六浦正三郎が仕官するとか言うので、慷慨家か知士かわからないが、結局は杉田薫の仇敵であって、これに討たれようとするのが中途半端であった。私も読んだ限りではそのように感じた。討たれるだけの人なのかと。結局、当時の社会や世俗の「瑣末の俗体陋習を写せしまで」と思いっきりがいい(郵便報知新聞明治13年7月1日)。
(綺堂少年は、この頃、芝居見物に気が進まず。観劇の家族とは別に、自宅で)
○明治16年10月22日より 11歳 父、姉 「島原の夢」(『綺堂むかし語り』所収)
新富座
「妹背山女庭訓」「神霊矢口渡」「千種花音頭新唄」
「島原の夢」『綺堂むかし語り』には、父と姉弟の3人で、島原つまり新富町の新富座に出かけて芝居見物をしたことが懐かしい、甘美な思い出として書かれている。
「新富座その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見出される。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻りでこしらえた太い鼻緒の草履をはいている。」
「築地の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮べている。河岸の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣をしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣を着て、日よけの頬かむりをして粋な莨入れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴屋もある。」
「幕があく。「妹背山婦女庭訓」、吉野川の場である。……高島屋とよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川左団次の久我之助である。」
『ランプの下にて 明治劇談』には何時とは書いていないので、上の文章から推測したのが、明治16,17年頃の秋である。明治17,18年の新富座の演目には「妹背山……」はなかった。そこで、つぎを探したら、明治16年10月末に、上演があった。おそらくこれだろうと思われる。
確かに、綺堂少年は数え年で12歳であった。
明治17年頃には、仮名垣魯文も新富座の近くに住んでいた。新富座横の新富町7丁目に仏骨庵と名づけた自宅があった。魯文が団十郎のこの時期の史劇をいわゆる「活歴劇」と名づけるのはもう少し後だったでしょうか。
○明治17年4月末 70頁 母と姉
新富座 4月29日より
「満二十年息子鑑」「仲光」
活歴劇
○明治18年1月 満13歳 父 77頁
千歳座(開場)
「碁盤忠信」「水天宮利生深川(筆売幸兵衛)(すいてんぐうめぐみのふかがは)」
楽屋にて、父らとともに尾上菊五郎に会う
劇場内で、府立一中の中学教師に出会う。その後、綺堂少年は、芝居見物をする不良と看做されたという。芝居見物するなど持ってのほかという当時の社会のモラルというか、価値観が興味深い。
「水天宮利生深川」についてはこちら(きどう散歩6)もご覧ください。
さて、「水天宮利生深川」にも有名な、士族の乳貰いシーンがある。これは、このほか、上の「霜夜鐘……」でも用いられたものだ。没落士族の涙と同情を買うストーリに打ってつけだといえる。黙阿弥の筆が冴える。妻を亡くした筆売幸兵衛が、剣術家の妻むらの家の前を通りかかる。抱いている赤子がひもじくて泣く。
杢藏 いえなに捨て置れぬ赤兒の泣聲、様子を見に出て來たが、母御は一緒ではござらぬか。
幸兵 實は先月母親が、亡なりましてそれからは、私が商ひながら諸方を貰つて歩きまする。
杢藏 それは嚥(さぞ)困りなさるだらう、儘になるなら御新造様の乳を貰つてやりたいが。
幸兵 へえ、御新造様は、お乳は出まますかな。
杢藏 いや出るとも/\、丁度先月お坊様が麻疹(はしか)でお亡なりなされ、それからお乳が張切るので、今も女中が耳盥で川へ流した位のこと、もう一足早かつたら、あれでも飲ましてやつたもの。
幸兵 すりや、流すほど出ますとな。
……
せん 赤さんの泣聲に、今お窓から御新造が御覧なすつて様子を聞き、嚥お困りなさんせうから、一ぱい上げようと仰しやる故、お呼び申しに來ましたわいな。
幸兵 左様ならお乳を下さりますとか。えゝ有難うござりまする。(ト禮を言ひながらぢつと思入あつて、)あんまりむさい此装では、
……
むら 乳呑があらば飲ましたいと思ふ所へあの子の泣聲、飲ましてやつたことならば、菩提の爲にもならうかと、それで呼びにやつたわいの。
せん そりやもう必らず坊ちやんの、お爲めになりますよい御功徳、何よりの御善根でござりまする。
……
傳八 小兒にお乳をお呑ませなさるとは、よい御善根にござれども、
泥六 毎度新聞上にも出て居ますが、得手かやうな者が此場より小用に参ると偽りて、
傳八 其儘小兒を置去りに、逐電致すこともござれば、
泥六 めつたに御油断は、
両人 なりませぬぞ。 (ト幸兵衛思入あつて、)
幸兵 斯く見苦しき風体故、其御疑惑は御尤もながら、左様な者ではござりませぬ。
『続々歌舞伎年代記』によると、明治18年2月8日よりとあるが、実際には1月末から上演されたのかもしれない。
○明治18、19年頃 84頁
森元の、盛元座、高砂座(いわゆる小劇場)に通う
○明治18年4月、大阪の鳥熊、本郷・春木座へ進出
しばしば通い、3・4年通い続ける
○明治18年11月 13歳 母・親類 94頁
新富座
有職鎌倉山(中村宗十郎)、白髪染の実盛(団十郎)、船弁慶
○明治19年5月 13歳 96頁
新富座
夢物語盧生容画(ゆめものがたりろせいのすがたえ)「水滸伝雪挑(ゆきのだんまり)」
ストーリ:
渡辺崋山と高野長英を描いたものだが、その遺族よりクレームが付いた。このいきさつと作者黙阿弥の対応については、「俄拵著作綱引……」を参照。
(劇評)郵便報知新聞明治19年6月3日−6月10日
○同頃 101頁
千歳座
「恋闇鵜飼燎(こいのやみうかいのかがりび)」菊五郎、散切物
「芝居の初日を観に行くような娘を嫁に貰うな」(104頁)と言われていたと綺堂は書いているが、当時(も?)そのようなことがモラルとしてあったのだろう。
○明治21年7月下旬 日曜日 母・叔母・姉 116頁
市村座(猿若町2丁目。のち明治25年、二長町に移転) 7月3日より
「妹背山婦女庭訓」「旅雀相宿噺(膝栗毛)」のテレコ、「てれめん」
日本画家となった鏑木清方も、この当時は少年であったが、新富座の芝居茶屋「上総屋」の息子で学校仲間の松ちゃんとこの界隈を走り回り、新富座の楽屋を覗き込んだりしていた。
「学校の帰りは、こんな子たちに誘われては道具裏から芝居を観た。伊勢の三郎の書き下ろしの時、福助(今の歌右衛門)の義経を鼻の先に観て、世にも美しいと思ったことだけはよく覚えている。」(鏑木清方・明治の東京192頁)
○同年10月
中村座(鳥越) 10月3日より
「音聞浅間幻灯画」「一谷フタバ軍記」
○明治22年7月 125頁
中村座
竹柴其水作「那智深山誓文覚」「鳥目の上使」(中幕)
団十郎に会う、2度目
○明治22年秋 120頁
中村座(鳥越)
「伊賀越」「筆売幸兵衛」
○明治22年11月 7日目の日曜日 父、133頁
歌舞伎座(開場)
黙阿弥作・福地桜痴補綴「黄門記童幼講釈」
桜痴居士と会う
○明治23年3月 3日目 142頁
歌舞伎座
「相馬平氏」「道成寺」「雁金文七」
○同5月 145頁
新富座
「皐月晴上野朝風(さつきばれうえののあさかぜ)」「釈迦八相」「勧進帳」「近江源氏」
図は歌川国貞(3代、応需香朝楼筆)、1890・明治23年4月、左より中村福助(光仁)、市川小団次(天野八郎)、中村芝翫(池田大隈守)、大谷馬十(赤馬伝内)、市川左団次(覚王院)
「皐月…」は、彰義隊の天野八郎を主役にしたもので、菊五郎が天野八郎を勤めた。芝居は花火などで鉄砲などの音を出して、写実的であったという。鏑木清方・明治の東京47頁。
作者・興行側としては、新政府に気を使ったのではなかろうか。慶応4年の上野の戦争は、オンリー・イェスタディに過ぎない。認めたことは、明治10年代の民権運動、西南戦争など各地の士族の乱、明治17,8年頃の農民蜂起など社会の不満が一息ついたという治安上の自信があったのだろうか。
歌舞伎座
「実録忠臣蔵」「太功記」
他にあまり娯楽はなかったとはいえ、岡本一家は、父親の団十郎贔屓もあって、かなりのものだったようだ。このような環境の中から、劇作家綺堂が生まれたといえるだろう。むろん、歌舞伎賛美一辺倒ではなく、そこには、俳優への嫌悪や、芝居の動きのなさなど批判的な視点もあることを見逃すべきではない。
| 巡査・杉田薫役の尾上菊五郎。まだサーベルは佩いていない。 |