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綺堂ディジタル・アーカイヴ




つぎは綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。 同名の作品2つです。なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。



湯屋
           岡本綺堂
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 湯屋《ゆうや》の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小奇麗な姐さんが二三人居た。
 わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列《なら》べてある。のちに思えば例の三馬の「浮世風呂」をその侭《まま》で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
 時はちょうど五月の初めでおきよさんという一五、六の娘が、菖蒲を花瓶に挿していたのを記憶している。松平紀義《まつだいらのりよし》のお茶ノ水事件で有名な御世梅《ごせめ》お此《この》という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
 その頃の湯風呂には、旧式の石榴口と云うものがあって、夜などは湯煙が濛々として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画《か》いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝の花和尚《かおしよう》と九紋龍《くもんりゆう》、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯とのあいだは硝子《ガラス》戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、一九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。
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底本:岡本綺堂『綺堂むかしがたり』87頁(1995年8月20日刊、光文社時代文庫)「思い出草」より




湯屋
           岡本綺堂
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 湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬《さんば》の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯《せんとう》とか湯屋《ゆうや》とかいうのが普通で、元禄のむかしは知らず、文化文政から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
 湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
 五月節句の菖蒲湯《しようぶ》、土用のうちの桃《もも》湯、冬至の柚《ゆず》湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止《や》められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
 むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方《さんぽう》が据えてあって、客の方では「お括《ひね》り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取つては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰《き》するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
 朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。
 江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。



底本:『綺堂むかしがたり』87頁(1995年8月20日刊、光文社時代文庫)「新旧東京雑題」より
入力:和井府 清十郎
公開:2000年9月18日
なお、振りかな(ルビ)は《》で示す




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