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半七捕物帳を読む

  半七考




半七考 その7   捕物帳をめぐる食3 蕎麦(屋)

半七をめぐる「食」として、鰻・鮨に次ぐ、第3弾! 半七に登場する蕎麦・蕎麦屋

問 半七はシリーズ中に、何度、蕎麦を食したか?

 蕎麦や蕎麦屋が作品に登場する頻度では、『春の雪解』『鷹のゆくえ』『松茸』などがベスト3の方であろう。登場する季節は、予想通り、寒い季節である冬や春先という設定の場合がほとんどである。したがって、ざる蕎麦よりも、掛け蕎麦系の方が多い。

関西ルーツの饂飩(うどん)(屋)は、一つも出てきません。私は関西系なので、蕎麦よりうどん派ですが、関東では蕎麦に決まっています。落語にも、うどんの悪口がありますね。みみずを食っているようで、いけねぇ、とか。が、河竹黙阿弥さんは、饂飩や鍋焼き饂飩の話を芝居にも使っているのです。しかし、綺堂さんが一個も使っていないのはなぜだか不思議な気がしますね。江戸への外部人口(とくに関西系)の流入が増加するにつれて、うどん文化に浸食されていくという次第。

夜鷹蕎麦を2杯、食う。○○

「二人はそれぎりで黙ってしまって、暗い柳原の堤《どて》をならんで行った。……枯れ柳の暗いかげを揺りみだす夜風が霜を吹いて、半七は凍るように寒くなった。かれは柳の下に荷をおろしている夜鷹蕎麦屋の燈火をみて思わず足を停めた。」(『松茸』)

岡っ引きに誘われて、蕎麦をおごってもらうのは……。探索する者とされる者の、食欲の違い?が、出ています?!

「辞退するお鉄を無理に誘って、半七は熱い蕎麦を二杯たのむと、蕎麦屋は六助といって、下谷から神田の方へも毎晩まわって来る男であった。」

「おやじを相手に冗談を云いながら、半七は蕎麦を二杯代えた。そのあいだにお鉄は一杯の半分ほどをようよう啜《すす》り込んだばかりで箸をおいてしまった。」(『松茸』)

そして、ある時、夜鷹蕎麦屋の六助に出会った。情報源として彼にいろいろ話を聞く。
「半七は明神下の妹をたずねてゆくと、その町内の角でかの蕎麦屋の六助に出逢った。」(『松茸』)

昼飯に蕎麦2杯 ○○  翌日にも同じ所で、もう1パイ。

「そのあいだに遅い午飯《ひるめし》を食うことにしたが、ここらの勝手をよく知らない半七は、迂濶《うかつ》なところへ飛び込むのは気味が悪いと思って、当座の腹ふさぎに近所の蕎麦屋へはいると、……。蕎麦を食いながら亭主の話を聞くと、……。」(『唐人飴』)

「「むむ」と、半七は蕎麦の代りをあつらえながら又訊いた。」(『唐人飴』)

きのうのそば屋で、2回目 ○

「庄太の戻って来るのを待つあいだ、三人が寺門前に突っ立ってもいられないので、源次だけをそこに残して、半七と亀吉は百人町の表通りをぶらぶらと歩き出した。ほかに行く所もないので、二人はきのうの蕎麦屋へはいった。」(『唐人飴』)

食したかどうかは微妙だが、可能性は高い ○

「きのうの今日であるから、蕎麦屋の亭主も半七に余計なお世辞などを云っていた。きょうは亀吉が一緒であるので、半七も酒を一本注文した。」(『唐人飴』)

半七は下戸でした。

掛け蕎麦トッピングは何? ○

蕎麦の中身について、わりと詳細なやり取りがあるのは、つぎである。あられ蕎麦。あんまを蕎麦屋に誘って、半七は、話を聞き出そうとする。場所は入谷田圃

「半七は小さな蕎麦屋の暖簾《のれん》をくぐると、徳寿は頭巾の雪をはたきながら、古びた角火鉢へ寒そうに咬《かじ》り付いた。半七は種物(たねもの)と酒を一本あつらえた。…… 「これはあられでございますね。江戸前の種物はこれに限ります。海苔の匂いも悪くございませんね」と、徳寿は顔じゅうを口にして、蕎麦のあたたかい匂いを嬉しそうに嗅(か)いでいた。」(『春の雪解』)

やはり、再び同じ蕎麦屋で食する。○

「二人をやり過ごして、半七も起った。かれは蕎麦の代を払いながら女に訊いた。」(『春の雪解』)

食う ○

「相手はなかなか出て来そうもないので、待ちくたびれて近所の蕎麦屋へ行って、寒さ凌ぎに熱い蕎麦をすすり込んでまた引っ返して来ると、もう夜はよほど更《ふ》けている。」(『人形使い』)

おそらく食したといえるだろう。○

「「仕方がねえ」と、半七も溜息をついた。「だが、餓鬼のこった。まさかに草鞋を穿《は》くようなこともあるめえ。いずれ何処からか這い出して来るだろう。なにしろ、腹が空《へ》って来た。そこらで蕎麦でも手繰(たぐ》ろう」 (『お照の父』)

蕎麦も後払いが一般的だった?!

「しかも其のお鉄はなかなか出て来ないので、男はすこし焦《じ》れて来たらしく、二杯の蕎麦を代えてしまって銭《ぜに》を置いて、すっ[#「すっ」に傍点]と出て行った。」(『松茸』)

半七、まずい花巻蕎麦を食う ○

「花巻蕎麦」とは、浅草海苔を炙って、揉んで加えてものをいうらしい。今日ではない食し方であろう。

「村はずれまで来かかると、時雨がとうとうざっと降って来たので、半七は手拭をかぶりながら早足に急いでくると、路ばたに小さい蕎麦《そば》屋を見つけたので、彼は当座の雨やどりのつもりで、ともかくも暖簾《のれん》をくぐると、四十ばかりの女房が雑巾(ぞうきん)のような手拭で濡れ手を拭きながら出て来た。」(『鷹のゆくえ』)

「半七は家のなかを見まわした。この小ぎたない店付きではどうで碌なものは出来まいと思ったので、彼は当り障りのないように花巻の蕎麦を註文すると、奥から五十ばかりの亭主が出て来て、なにか世辞を云いながら釜前へまわって行った。すすけた壁をうしろにして、半七は黙って煙草をのんでいると、外の時雨はひとしきり強くなって来たらしく、往来のさびしい街道にも二、三人の駈けてゆく足音がきこえた。と思ううちに、一人の男がこの雨に追われたように駈け込んで来た。」(『鷹のゆくえ』)

「半七も自分のまえに運ばれた膳にむかって、浅草紙のような海苔(のり)をかけた蕎麦を我慢して食った。そのいかにも不味《まず》そうな食い方を横目に視て、鳥さしの老人は笑いながら云った。」

「浅草紙」というのは?
紙を漉き直して、再生利用した紙だが、粗悪なものの代表のようだ。

つぎの3つは、有名な蕎麦屋の方。

名代の蕎麦

・藪蕎麦

「松吉もまじめになって拝んだ。名代の藪蕎麦(やぶそば)や向畊亭(こうこうてい)はもう跡方もなくなったので、二人は茗荷屋へ午飯を食いにはいった。松吉は酒をのむので、半七も一、二杯附き合った。二人はうす紅い顔をして茶屋を出ると、門口で小粋なふうをした二十三四の女に出逢った。女は妹らしい十四五の小娘をつれて、桐屋の飴の袋をさげていた。小娘は笹の枝につけた住吉踊りの麦藁人形をかついでいた。」(『帯取の池』)

『帯取の池』は、市ヶ谷月桂寺の西、尾州家の中屋敷の下に所在したようだが、子分の松吉と半七は、捜査のために雑司ヶ谷まで出かけるという話の箇所である。

たくさん名物が出てきました。
今日ではどこにでもあるようだが、「名代の藪蕎麦」とは、ここでは雑司ヶ谷のそれを指す。また「向畊亭(こうこうてい)」も同所にあった蕎麦屋のようだ。

 「桐屋の飴」「住吉踊りの麦藁人形」は、今のところ不明。茗荷屋は雑司ヶ谷の鬼子母神の近く、あの大きなケヤキ並木のところにあった料理屋でしたね。

・砂場の蕎麦屋 食したかどうかは不明。

これも有名な砂場の蕎麦。きっと食したのだろうとは思いますが、前後不明なのでカウントせず。

「八月十三日の夕七ツ(午後四時)頃である。半七は砂場の店に腰をかけて煙草を吸っていると、一人の小僧が暖簾《のれん》をくぐってはいってきた。彼は天ぷら蕎麦をあつらえて、同じく腰をかけた。どうも見たような小僧だと、半七は顔をそむけながら、横眼で睨むと、彼は鍋久の店の小僧であった。彼はやがて運んで来た天ぷら蕎麦を食ってしまって、更にあられ蕎麦を註文した。それを又食ってしまうまで半七は気長に待っていると、小僧は銭を払って出た。」(『大阪屋花鳥』)

「むむ、宇吉か。お前はなかなか景気がいいな。お店者《たなもの》の小僧のくせに、蕎麦屋へ来て天ぷらに霰《あられ》とは、ばかに贅沢をきめるじゃあねえか。その銭はだれに貰った。それとも盗んだのか、くすねたのか。はっきり云え」(同上)

蕎麦のうちでも、天麩羅は今日でも高価な方だが、「あられそば」とは、ばか貝の貝柱を蕎麦の上にくわえたものというが、いずれも贅沢な方。

・老人と青年、冬木弁天の蕎麦 ○

芭蕉の句碑もあり、ちょっと風雅な蕎麦屋。冬木はいまも地名があるが、深川八幡様の裏手の地域。冬木の蕎麦といえば、今もあるのでしょうか。 青年は記者で、老人は半七とおぼしき人である。たまたまここで出会ったが、青年は老人に洲崎の帰りかと冷やかされる……。

「二人は話しながら連れ立って境内にはいった。老人は八幡の神前でうやうやしく礼拝していた。そこらを一巡して再び往来へ出ると、老人はどこかで午飯を食おうと云い出した。宮川(みやがわ)の鰻もきょうは混雑しているであろうから、冬木(ふゆき)の蕎麦にしようと、誘われるままにゆくと、わたしは冬木弁天の境内に連れ込まれた。……例の芭蕉の句碑の立っている所である。蕎麦屋と云っても、池にむかった座敷へ通されて、老人が注文の椀盛や刺身や蝦の鬼がら焼などが運ばれた。池のみぎわには蘆(あし)か芒(すすき)が枯れ残っていて、どこやらで雁(かり)の声がきこえた。」(『歩兵の髪切』)

つぎは、岡っ引きの心得、その1、ですね。

張り込みと忍耐と見つけたり!

「なんの商売でもそうであるが、この商売は根気が好くなければならない。殊に科学捜査の発達しない此の時代には、眼の捷(はや)いのと根(こん)の好いのが探索の宝である。半七はその日から山谷の蕎麦屋を足溜りにして、油断なく小左衛門の出入りを窺っていたが、彼は近所の銭湯《せんとう》へ行くか、小買い物に出るほかには、何処へ出かけることも無かった。たずねて来る人もなかった。」(『大阪屋花鳥』)

そして、そのためには夜蕎麦や夜鷹蕎麦も捕物の夜には欠かせない。

『三河万歳』にも、夜鷹蕎麦が登場する。あるいは夜蕎麦屋も、
「夜蕎麦売りの仁助で、その隣りが明樽(あきだる)買いの久八です」と、庄太は答えた。」(『河豚太鼓』)

「あれから引っ返して寺門前へ行って、食いたくもねえ蕎麦屋へはいったり、飲みたくもねえ小料理屋へはいったりして、出来るだけ手を伸ばして見ましたが、思わしい掘出し物もありませんでした」(『地蔵は踊る』)

「半七は谷中の方角へ足を向けた。千駄木の坂下から藍染川を渡って、笠森稲荷を横に見ながら、新幡随院のあたりへ来かかると、ここらも寺の多いところで、町屋は門前町に過ぎなかった。その寺門前で市子のおころの家を訊くと、彼女は蕎麦屋と草履屋のあいだの狭い露路のなかに住んでいることが判った。」(『菊人形』)

慣習と風情

すす掃きの日、12月13日に蕎麦を祝う、習わし。

「この話は極月(ごくづき)十三日と大時代に云った方が何だか釣り合いがいいようである。その十三日の午後四時頃に、赤坂の半七老人宅を訪問すると、わたしよりもひと足先に立って、蕎麦屋の出前持ちがもりそばの膳をかついで行く。それが老人宅の裏口へはいったので、悪いところへ来たと私はすこし躊躇した。」(『吉良の脇差』)

十二日、十三日には、煤掃き用の笹竹売り、→赤穂義士の芝居や講談でおなじみの大高源吾の笹売り →吉良上野介、という次第。

蕎麦の風情

しばれる寒夜と蕎麦の温かさを強調したもの。まるで絵のような……。

「今夜も暗い宵で、膝のあたりには土から沁み出してくる霜の寒さが痛いように強く迫って来た。男は熱い蕎麦のけむりを吹きながら、時々にあたりを見まわしている……」(『松茸』)

夕闇時の、行燈の光に沈んでゆく牡丹雪の色や如何に。ちょっと芝居的というか、絵的ですね。

「蕎麦屋の女房は門(かど)の行燈に灯を入れると、その薄暗い灯かげに照らされて、花びらのような大きい雪が重そうにぼたぼた落ちているのが暖簾(のれん)越しに見えた。」(『春の雪解』)

これは、季節が変わって、夏の終わり頃、残照

「半七考・鰻編」でも利用した、再引用で申し訳ない。
(追憶)蒸籠の熱い湯気に潜んでいる、甘い饅頭のにほひ。蒸かし饅頭も好きです。祖母や母が家で、また、バス停の近くの店で。

「妹に頼んで半七はそこを出ると、どこの店でももう日よけをおろして、残暑の強い朝の日は蕎麦屋の店さきに干してあるたくさんの蒸籠(せいろう)をあかあかと照らしていた。」(『筆屋の娘』)

まとめ

 半七がシリーズで食した蕎麦は、合計11杯である。但し、番外編を入れると12杯である。多いように思うが、半七は、蕎麦が好きのようだ。いや商売柄と限定づけるべきかも知れない。あるいは鮨など他の食品より、手近で値段が手頃であったということかも知れない。明治9年の統計によると、当時の東京府で1年間に150玉以上の蕎麦を食べた計算になるという(小木新造・東京時代−江戸と東京との間で86頁(1980)「東京府統計書(1876)」)。これが、半七にも当てはまっているのかも知れませんね。他方、69作品にうどんや饂飩売りが登場した例はない。

 また、半七作品の中では、鮨や鮨屋よりも蕎麦(屋)の方の登場がはるかに多いといえる。ところが、江戸市中では、鮨屋の方が圧倒的に多かったという。どの町にも鮨屋が1,2軒、蕎麦屋はその半分くらいであったという。むろん、鮨屋台も含めてのことでしょう。三田村鳶魚『娯楽の江戸・江戸の食生活』285頁(鳶魚江戸文庫5、中公文庫)。

 冒頭にも触れたように、河竹黙阿弥は、江戸から東京への移り変わりを、その人口構成比から想像させるように、夜蕎麦が売れなくなり、鍋焼饂飩が増え始めたことを話の枕に置いたりしている。『嶋鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)』(明治14年作)の「招魂社前」の段などにそれが出てくる。綺堂氏もそれを意識してはいただろうが、ついぞ半七(シリーズ)では使わずじまい。

「地方の人が多くなった証拠として、饂飩(うどん)を食う客が多くなった。……鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、……」(『綺堂むかし語り』)

江戸っ子には、饂飩は流入食文化であったという次第です。
 三つ目には、江戸はやはり一大消費地であったということである。これは東京になって、また地方から人口が流入するにつれて、さらに強化される。地方との相違がこの点にある。三田村鳶魚氏が面白い分析をしている。江戸には職人が多い。しかし、職人は3度3度に腹一杯に飯を食えない。それは貧しいからではなく、満腹になれば、仕事がはかどらないからである。とすれば、食事の間々に、間食をしなければカロリーが保たず、空腹となる。かくして、「江戸のある食物類は大変進歩したのである」(上掲書288頁)と。今日でも大工や職人さんは、10時と15時にきっちりと休息をとりますものね。つまり、都会である江戸は、間食文化であったというのである。

 蕎麦とくれば、二八蕎麦。古くから、材料比(小麦粉2:ソバ8)説か、値段(一杯16文=2x8 のしゃれ)説の争いがある。三田村氏は、不純物の混入比を公言することはないとして、値段説。

                            2004/08/23記

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