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明治の演劇小史 その1 ―綺堂登場の時代と背景:明治43年まで




 岡本綺堂が劇界に誕生する背景と要因を探ろうと考えた結果、明治の演劇史の一端をメモする必要があることを痛感した。個人的には歌舞伎や明治の演劇そのもの素養がないため、いきおい「年代(時代)史」的になった。何が起こったのか、何が問題だったのかを、綺堂と密接な関係がある、春木座(のち本郷座)関連、川上音二郎の新派、それと明治座の二世市川左団次の動きのおおよそ三つを柱として注目したい。

 明治文明開化の流れは、演劇界とくに江戸以来の代表的芸術である歌舞伎をも押し流さざるを得なかった。それは、一つには歌舞伎本流への改良という動きになった。つまり伝統的な歌舞伎の立場を旧派とすれば、旧派も何らかの形での歌舞伎やそれをとりまく制度考え方を変化させざるを得なかったのである。そこに、岡本綺堂やその先人たちが登場する舞台と機会を作ったのである。

 もう一つの流れは、御一新とともに、いわば西から東京へ来た、新派(新派劇)である。書生芝居、壮士芝居と半ば軽蔑的に呼ばれながらも、当時の東京市民の心を捉えたのであることも間違いではない。新派劇は、形を変えながらも、今日に至っている。
 旧劇は旧派内部でのみで改良を進めたのではない。両者は、とくに新派の演劇上の勢いや演劇環境の改良があって、それといわば競い合った・競争したのである。旧派においては、綺堂が深く絡んでいる「新歌舞伎」と目される動きとなったのである。

 明治期は、歌舞伎の黄金時代の一つであった。あの団菊左がいたのである。しかし、明治24年頃から、書生芝居・壮士芝居などの新派劇が誕生・興隆する。団菊左も明治36・7年頃には没してしまい、歌舞伎はつまらないという空虚感があった。改良・改革を内部から、また外からも迫られていたのである。綺堂はどのように登場し、どのように音二郎を見、左団次と連携していったか、がテーマです。

本項の姉妹篇として、次もありますので、ご覧ください。
 ・明治の演劇小史 その2
 ・綺堂らの文士劇(明治39年以降)―綺堂の演劇実験


幕末
 江戸三座制 猿若町
 東京三座制 猿若町
  守田座、中村座、市村座


明治元年

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 1月3日 鳥羽伏見の戦
 2月9日 官軍、江戸へ進発
 4月 江戸城明渡
 5月 上野、彰義隊の戦
    (5世菊五郎、九蔵、仲蔵らは、上野でいくさ見物)
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 正月 各座とも休場
 2月 三座とも開場  
    守田座:2月8日
      芝翫、団蔵(69歳)、三津五郎、友右衛門、田之助、菊次郎、訥升、九蔵らで、
      「富貴自在魁曾我」ほか
     
     中村座:2月10日初日
      彦三郎、紫若、訥升、田之助、新車(48歳)、三十郎(64歳)、友右衛門らで、
      「千歳鶴東入双六」ほか

     市村座:2月22日開場
      亀蔵(69歳)、三十郎、田之助、仲蔵(60歳)、左団次、三津五郎、家橘、権十郎ら、
      「隅田川鶯音曾我」
 9月
  市村座の13世市村羽左衛門(家橘)は太夫元を実弟に譲り、5代目尾上菊五郎を襲名

明治初年の若手の人気役者としては、
 5世坂東彦三郎、4世中村芝翫、河原崎権十郎(31歳、のちの9世団十郎)、市村家橘(のちの5世菊五郎)、沢村訥升(30歳、のちの高助)、市川九蔵(のちの団蔵)、岩井紫若(のちの半四郎)、沢村田之助(23歳、訥升の弟)、友右衛門、三津五郎、左団次(26歳)らがいた。

* なお、明治初年の頃の立作者として、桜田治助(67歳)、瀬川如皐(63歳)、河竹新七(53歳、のちの黙阿弥)とがいた。

明治5年

  9月 東京府、劇場に課税するようになった。
 10月 守田座、新富町(元新吉原遊郭跡)に移転
 10月13日 初開場。座頭・河原崎権之助(のちの9世市川団十郎)、半四郎、仲蔵、翫雀、左団次ら。「三国無双瓢軍扇」「国姓爺合戦」ほか。


明治6年

   府下に、10ヵ所の劇場を許可。上記3座のほか、既存の、中島座・喜舞座(いずれも両国)、薩摩座(外神田)と新たに4座(本郷の奥田座、四谷座、深川の沢村座、芝新堀の河原崎座)が出願した。合計10座となる。


明治7年

 7月10日 河原崎座、芝新堀に開場した。座頭・9世市川団十郎(まえの河原崎権之助が襲名)。訥升、左団次、海老蔵、新車、国太郎、時蔵らで、「新舞台巌楠」「一の谷嫩軍記」ほか。


明治9年

 11月 新富座全焼。翌10年4月再建。


明治10年

  2月 西南戦争勃発

明治11年

  3月 新富座(仮建築興行)、河竹新七(黙阿弥)作「西南戦争」
     団十郎が西郷隆盛に扮す。

     * この間、新富座座主の守田勘弥、薩摩出身の政治家や貴紳はじめ、当時の知識人・学者らに接近。

  6月7・8日 新富座落成。福地桜痴代筆の祝辞。百目蝋燭を廃して、劇場内外にガス灯設置。
  団十郎、菊五郎、半四郎、宗十郎、仲蔵、左団次ら。
  「松栄千代田神徳」(河竹新七作、依田学海の助言)ほか。

     * 演劇改良の動き、盛んとなってくる。

明治12年

 3月 新富座の興行で、依田学海(漢学者)立案の「赤松満祐梅白旗」を採用。また、リットン原作の小説「銭(マネー)」を福地桜痴が翻訳した「人間万事金世中」(河竹新七脚色)を上演。狂言作者以外の演劇脚本を採用した最初の例。
    満7歳の岡本綺堂は、父に連れられて、これを3月9日に見物している。「赤松満祐」「勧進帳」「人間万事金世中」の3本であったとしている。初代左団次の渥美五郎(「赤松満祐」)には息を詰めて見たとある。中幕の「勧進帳」のあと、父と共に、座主の守田勘弥と出会い、また団十郎の楽屋を訪問する下りがある。「すると、団十郎は父にむかって、『芝居の改良はこれからです。』と云ふようなことを云ひ、私にむかって、『あなたも早く大きくなって、好い芝居を書いてください』と笑ひながら云った。」(岡本綺堂・明治の演劇9−19頁(大東選書、昭和17年刊)より)また、綺堂の父と団十郎の関係はこれより以前からあったと思われるが、どのような経緯からかは不明。


明治14年

  7月 春木座が本郷に開場。権十郎、小団次らに、団十郎が出勤する。
 11月 河竹新七引退、黙阿弥と号す(ただし、引退後も劇作は継続)。

明治15年

  春 猿若座 全焼す。

  市川団十郎 活歴癖の悪評あり
   なお、「活歴」とは、「かなよみ新聞」の仮名書垣魯文の造語で、明治11年10月新富座の中幕に団十郎が「斎藤実盛」を演じたときに、当時の歌舞伎服装にはなかった、源平時代の風俗を調べて、立烏帽子・水干・白の大口袴という斬新な服装(拵え)であったため、「活動する歴史」という意味であった(下記、伊原青々園・173頁による)。ただし、有職故実に忠実であろうとしたのは、明治11年6月の「千代田神徳」からであるという。


明治16年

  1月、団十郎、求古会を発起する。メンバーに、柏木探古、黒川真頼ほか、岡本純(きよし、岡本綺堂の父)ら。    
    綺堂自身の記憶によると、紙鳶上げから帰ってきたら、築地の成田屋から人が来て、父はいないかという。「団十郎は小林清矩、黒川真頼、川辺御楯なとという人達を集めて、求古会というものを作ることになって、父もその会員の一人に加へられた。今日(=1月3日、引用者・注)突然にその第一回の会合を団十郎の自宅で催すことになったので……」(岡本綺堂・明治の演劇44−45頁(大東選書、昭和17年刊)より)とある。団十郎の「活歴」を作り出す準備の会で、有職故実を研究しようとしたものである。


明治18年から21年までの4年間は、綺堂少年が、早朝から本郷の春木座へ通った時期でもあるので、やや詳しく当時の動きを見る。

明治18年

  春、過般類焼した久松座が千歳座(久松町、座主・加藤市太郎)と改めた。
 2月2日 初日。
  勘弥の新富座の協力を得て、菊五郎、左団次、家橘、福助、八百蔵、芝翫、団十郎ほか
  「千歳曾我源氏礎」、黙阿弥の「水天宮利生深川」(筆屋幸兵衛)など初演。

 4月 千歳座座主・加藤は新富座の守田勘弥と不仲となり、菊五郎、芝翫、九蔵、権十郎、我童、家橘、福助らで興行。

 新富座の1月本興行はなし。
 なお、守田勘弥と菊五郎の軋轢が、新富座と千歳座との競争となり、またそれが、団十郎と菊五郎の不仲を醸成したという(秋庭太郎・東都明治演劇史148頁)。
千歳座の勝ち

 5月1日 大阪の興行師の三田村熊吉が明治17年末より休場していた、春木座で興行。以降、「鳥熊芝居」の盛況で、各座を圧倒する(―明治19年末まで)。
嵐鱗升、市川鯉之丞、市川駒三郎、中村芝鶴ら。
1番目「菅原伝授手習鑑」、中幕「恩愛雪宗清」、二番目「男競三国湊」

安値芝居とともに広告には仮名字が用いられて親しみやすく、庶民に人気があった。この点は、綺堂『明治の演劇』にも詳しく書いてある。「鳥熊芝居」というのは、三田村熊吉が鳥獣の見世物師であったことに因んでいるという。なお、明治21年半ばに一座は解散、明治23年4月に没。

 10月 警視庁令、演劇興行時間を8時間以内に限るとす。

 12月 団、菊、和睦。
 伊藤博文の仲介もあり、菊五郎は団十郎と仲直りし、握手。また、新富座へ復帰した。
 12月の復帰興行は、「文殊知恵義民功」「伊勢三郎」(黙阿弥の史劇)、「張良兵書賜」など。1年ぶりの顔合わせで人気となったが、菊五郎駈け持ちの千歳座は打撃を受けた。

明治19年

 9月 演劇改良会の創立。末松謙澄が主唱。
   会員:井上馨、穂積陳洪、外山正一、和田垣謙三、依田百川、高木兼寛、矢田部良吉、矢野文雄、中上川彦次郎、福地源一郎、藤田茂吉、箕作麟祥、森有礼、渋沢栄一など。この他に、伊藤博文、田口卯吉、西園寺公望、陸奥宗光など、政治家、実業家、学者などの賛同者がいる。

漢学者の依田学海と団十郎、協力して、活歴劇(新時代物)の発展に努力する。
 「吉野拾遺名歌誉」(明治19)、「拾遺後日」「文覚上人勧進帳」「小御門」。
 依田学海と団十郎と完全に一致していたのではなく、劇改良も過激で、その作品は、正史の事実に重点を置きすぎた、長き台詞は事実の叙述に流れた、人物の性格を描写せず、事件を重視したこと、などの欠点があったという。ただ、のちの、福地桜痴の史劇創生への橋渡しになったと見られている。

明治20年

 8月 千歳座、内外に電気燈を用いる。


明治21年

  演劇矯風会(演劇改良会の後身)設立。のち、演劇協会と改名。


明治22年

  歌舞伎座落成(木挽町)
  福地源一郎、千葉勝五郎の資本による。


明治23年

  5月6日 千歳座、春木座それぞれ全焼。


明治24年 ○新派劇の誕生

角藤定憲
 岡山の出身で、元自由民権論の壮士。明治21年8月 自作の「剛胆の書生」を大阪で、初めて壮士芝居。「新派劇の祖」といわれる。中江篤介(兆民)・中村宗十郎などの賛助を得る。京都、四国、中国地方へ巡業。

川上音二郎
 博多生まれ、20歳のとき巡査を奉職。のち自由党の壮士となり、京阪地方で活躍するも、入獄30数回。落語、政談などを経て、一座を形成する。大阪にて、オッペケペー節を演じた。

明治24年

 2月 大阪堺。卯の日座にて旗揚げ。こののち、横浜・蔦座にて、「経国美談」大切りに「オッペケペ―節」を付けて好評。「板垣君遭難実記」小田原そして東京へと東上を企図する。

明治24年

 6月20日、鳥越座(中村座)に出演した。川上の父と権十郎とが懇親である縁で、権十郎が尽力して、団十郎・菊五郎が一門を引き連れて芝居を見物。団菊みたさに、大入りだったという。

明治25年
 1月 第三回目の興行には、「佐賀暴動記」(久保田彦作作)、「平野次郎」(福地桜痴作)
 いずれも好評であった。京阪方面を巡業、再び東京へ戻り、中村座や市村座などに出勤した。川上一座の芝居は、拙劣低級だったという評価があるが、劇界への影響も大きかった。意気込みと熱心さ、進取的態度に観客は惹きつけられたという。

明治26年

 1月22日 黙阿弥、逝く。
 3月 市村座(前年11月、下谷二長町に移転・落成)類焼。

 年末 旧千歳座(明治23年5月全焼)が、明治座として復興・落成する。
    洋風の外観で、創立者は市川左団次であった。

    ちなみに、半七親分が、木挽町の歌舞伎座へ、団十郎の光秀を見物に行って、「成田屋ァ」と怒鳴ったのは、この年の11月半ばである―半七捕物帳「新カチカチ山」。


明治29年

 7月 音二郎の川上座、神田三崎町に落成。のちに、「改良座」と改名。「日本娘」上演。


明治30年

 3月 東京座、神田三崎町に落成。
 4月 歌舞伎座:団十郎が、桜痴作の「侠客春雨傘」
歌舞伎座の立作者で、また黙阿弥門下である竹柴其水に諮らず、桜痴門下の榎本破笠に加筆訂正させた。これがもとで、其水を疎外し、その体面傷つけた。歌舞伎座から、河竹派の作者を排斥する結果となった。これは、団十郎の後押しがあってのことという。ここに団十郎と桜痴の連携がある。団十郎の活歴に、桜痴が史劇を発表して、提供した。『春日局』『大久保彦左衛門』『求女塚身替新田』『小楠公』『関原誉凱歌』『芳哉義士誉』ほか。


明治32年

7月 明治座:左団次、権十郎、小団次、源之助、寿美蔵、中村成太郎(大阪)、河竹其水作「夢物語筺碑」、松居松葉作「悪源太」上演。

 ことに、松居松葉の「悪源太」は、局外文士つまり座付きの狂言作者以外の作家の作品が上演されたことを意味する。当時としては、破天荒な珍事であったという。むろん、左団次が門外作者である松居の作品を採用したことが大きい。後の作者に大きな光明を与えることになったのである。


明治33年

 この頃、新聞劇評盛んで、各社、競った。新聞記者で劇評家には、つぎの人たちがいた。
竹の屋主人(饗庭篁村)、幸堂得知、右田寅彦、半井桃水(いづれも、朝日新聞)、条野採菊(やまと新聞)、杉贋阿弥(毎日新聞)、松居松葉(万朝新聞)、寺山星川(時事新報)、関梅痴・鍋田氷村(いづれも、東京日日新聞)、岡本綺堂(京華新聞)、山岸荷葉(読売新聞)、山本規外(国民新聞)、林田春潮(報知新聞)、永持徳一・山口桃太郎(富士新聞)、岡鬼太郎(千代田新聞)、伊東厭花・伊原青々園(いづれも、都新聞)、岡野紫水(二六新聞)ほか

 11月15日 劇場取締規則、発布。劇場27箇所(それまでは22箇所)、興行時間9時間。


明治35年

 正月
  歌舞伎座:芝翫、家橘、猿蔵、染五郎、栄三郎、松助、市蔵、八百蔵らの座付きによる、「鎌倉山春朝比奈」「本朝24孝」と、われらが綺堂と岡鬼太郎合作の「金鯱噂高浪」上演。

明治座:左団次、権十郎、寿美蔵、小団次、源之助、筵升ら
 其水「浜松城記録聞書」ほか。

明治36年

 2月
  明治座:川上一座が、正劇「オセロ」を上演。

  尾上菊五郎、60歳で没。


明治36年

 5月 藤沢、佐藤、木下吉之助らの新派、本郷座にて、徳富蘆花の「不如帰」上演、大好評。
東京座、高田・藤沢らの一座で、尾崎紅葉の「金色夜叉」を上演、大好評。

 9月13日 9世市川団十郎、逝く。


明治37年

 8月7日 市川左団次、死去(63歳)。
 俳優としては稀に見る人格者であったという。新作ものにも熱心だった。また、その史劇は、団十郎もの(活歴)よりも面白かったし、進歩的であったという(秋庭410頁)。

綺堂は、この頃、第2軍従軍記者として、中国満州・遼陽の地にあり、数日遅れの新聞記事で、左団次の死を知ることになる。明治の名歌舞伎役者としてその時代を築いた、菊五郎、団十郎がつぎつぎと逝き、ついに左団次までが…という、思いがあったためであろうか。

 9月15日
  左団次の遺児の筵升(えんしょう、25歳)、明治座旗挙げ。『牛若丸』、松居松葉作『粗忽の使者』。
興行は芳しからざる結果となる。ただ、先代左団次と親交のあった松居松葉が相談役として舞台の指導にあたり、筵升との連携がはじまった。

 歌舞伎俳優による『不如帰』(徳富蘆花原作)公演ある。

9月 東京座:
       芝翫、猿之助、高麗蔵、寿美蔵、女寅、秀調
       『不如帰』(徳富蘆花原作)

明治38年 新派劇の全盛  ○本郷座時代

正月興行
 歌舞伎座:
 東京座:
     『乳姉妹』(菊地幽芳原作)

 明治座: 座付俳優の筵升、小団次、女寅、升若、荒次郎ほか。
      ユーゴー原作・松葉訳『エルニナ』、小波作『桜太郎』
      不評。
 本郷座:河合、木村周平、山岡など
     『乳姉妹』(菊地幽芳原作)(上の東京座の旧派と本郷座の新派との新旧競演となる)

 真砂座:伊井、藤沢一座、秀調。
     『征露戦塵曾我譚』『娘節用』『結の神』上演。

2月興行
 明治座:川上夫婦、高田、落合
     舞踊『鶴亀』長田秋涛翻案『王冠』
     好評。
 真砂座:伊井一座
     田口掬汀『女夫波』

3月興行
 東京座:
    小杉天外作『魔風恋風』、芝翫の『熊谷陣屋』
 明治座:筵升
    シルレル原作・小波訳『ウイルヘルム・テル』
    不入。
 本郷座:藤沢、佐藤、木下一座
     田口掬汀『新生涯』
     大入り。場所柄、書生が多数であったという。

5月11日  歌舞伎座:新聞劇評家たちの集まりである「若葉会」による素人芝居(文士劇)
  岡本綺堂(東京日日新聞)は作者および役者として活躍。ほかに、右田寅彦・粟島狭衣(東京朝日新聞)、岡鬼太郎・岡村柿紅(二六新聞)、鹿島桜巷(報知新聞)、井坂梅雪(時事新報)、松本当四郎(人民新聞)、杉贋阿弥(毎日新聞)、小出緑水(演芸通信)
        第1回目 岡本綺堂作『天目山』、『忠臣蔵(喧嘩場)』、森鴎外作『日蓮上人辻説法』、舞踊『保名』

  →この後の文士劇の詳細については「綺堂氏、歌舞伎役者となる」の項、参照。


明治39年

 1月4日 福地桜痴 死去、66歳。西南戦争時の記者、東京日日新聞の社主、政治の面では帝政党を結党、明治20年代からは劇作家、歌舞伎座の建設などの業績がある。

 2月
   明治座:川上一座が出勤。メーテルリンク原作『モンテ・ヴァンナ』、太郎冠者作『玉手箱』。連日満員。

 10月

   明治座:川上一座、落合
   サルドオ原作田口掬汀訳『祖国』、太郎冠者『新オセロ』
   不入り。川上音二郎は、以後俳優活動は停止、興行師として活躍する。
   
   真砂座:又五郎一派
       広津柳浪原作『河内屋』
  4月4日 演劇・芝居研究のため、松居松葉渡欧
 12月12日 演劇・芝居研究のため、左団次も渡欧(翌40年8月帰国)


明治40年


 8月7日 左団次、松居松葉、欧州より帰国。
      左団次、明治座の改良刷新するも、茶屋・出方など、改革への反発多し。


明治41年

 1月14日 明治座:2世左団次、帰朝第1回興行
    左団次、小団次、時蔵、女寅、筵女、団升、松蔦(しょうちょう、左団次の妹)ほか
    松居松葉作『袈裟と盛遠』、坪内逍遥訳『ヴェニスの商人』、『三国無双奴請状』
    不評失敗により松居、東京を去る。

 3月 明治座:左団次一派
    (一番目)山崎紫紅『歌舞伎物語』、(中幕)『鎌倉三代記』『鶯娘』、(二番目)『籠釣瓶』ほか

 8月
  東京座:秋月、木下
      川上眉山作『観音岩』
  新富座:伊井一派
     土肥春曙作『遺言』、塚原渋柿作『木村長門の守』、長谷川時雨作『海潮音』
  宮戸座:源之助、芳三郎、寿美蔵、九女八ほか
  他の座は休場。

9月
 市村座:青年芝居
 本郷座:川上貞奴、佐藤、深沢、山本ほか
     田口掬汀作『日本の恋』、『唖の旅行』
 旧派は、明治座のみ開場
     左団次、宗之助、寿美蔵ほか
     岡本綺堂作『維新前後』、『水滸伝』ほか
     綺堂・左団次の連携のきっかけとなる。

 帝国女優養生所創立 (川上音二郎・貞奴夫妻)

11月

 有楽座(有楽町数寄屋橋) 落成
 東京俳優養成所創立 (藤沢浅二郎)

明治42年


11月27・28日 有楽座、小山内薫と市川左団次「自由劇場」による試演(第1回)  左団次、左升、団子、宗之助、松蔦ほか
  イプセン作森鴎外訳『ボルクマン』(小山内演出)
  好評。

明治43年

 4月28・29日 有楽座にて、自由劇場 第2回公演 
   エデキント作・森鴎外訳『出発前半時間』、鴎外作『生田川』、チェホフ作小山内薫訳『犬』ほか。好評。


 やや結論的なことをいえば、明治の新しい時代に対応するために演劇改良があって、それは旧派の演劇改良、新派の演劇活動を生んだが、両派の演劇改良が岡本綺堂を生んだのではなかろうか。人物に注目すると、新派の川上音二郎が、綺堂を見出し、旧派の中にあって改良熱に浮かされていた市川左団次(2世)との橋渡しをしたのである。

参考文献
・秋庭太郎・東都明治演劇史(中西書房、1937)
・秋庭太郎・新劇史上・下(1956)
・(二世)市川左団次・左団次芸談(1939)
・伊原青々園「歌舞伎芝居の変遷」太陽―明治大正の文化(1927)
・岡本綺堂・明治の演劇(岩波文庫、大東選書)
・松居松翁「明治の演劇」『日本文学講座第12巻 明治時代 中編』(新潮社、1931)
・松永伍一・川上音二郎(朝日選書、1988)
・今尾哲也・歌舞伎の歴史(岩波新書、2000)ほか


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歌舞伎座舞台

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川上音二郎

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市川左団次(二世)・自由劇場の頃

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松居松葉(のち松翁)




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